寝坊しました(寝過ぎ)

―――ああ。月が、綺麗。

それが、女海賊の最初に思ったこと。

どれほどの間闇の中にいたのかわからない。静寂。寒さ。苦痛。恐怖。己の魂が上げるすすり泣きの声だけが永劫に響き渡る場所。

だから、そこから救い上げられて目に入った光は、女海賊を魅了した。

そのままならば、いつまでも月ばかりを見上げていただろう。しながら己へと必死で語り掛けてくる女の言葉も、耳には入ってこない。

己の魂は、とっくの昔に壊れてしまっていたから。

けれど。

咆哮が聞こえた。憎むべき敵。集落を襲い、一族を皆殺しにした闇の怪物どもの声が。

それで、千々になっていた意識が戻った。

一気に飛び出す。

まだ、何が起きているのかは分からない。ほとんど何も思い出せない。けれど、奴らの存在を許しておくわけにはいかぬ。

女海賊は、誇り高き北海の民ヴィーキングの一員だったから。


  ◇


大陸の北西部。北の果てとの境界付近の地は、氷河浸食を受けた低い丘陵地が大部分を占め、泥炭地、荒れ地が多い。気候は冷涼で樹木はほとんどなかった。多雨多湿で乾期は冬の1か月ほど。

そして海岸部では同じく氷河浸食により発達したフィヨルド。すなわち深く入り組んだ湾・入り江が大変に発達していた。 湾の入り口から奥まで、湾の幅があまり変わらず、非常に細長い形状の湾を形成しているのである。それはさながら天然の迷路であった。

そんなフィヨルドの奥には、闇の種族どもの軍勢が潜んでいる。古い砦の遺跡を根城とし、時折迷い込む不幸な航海者たちを食い物にしながら。あるいは時折、遠征に出かけることもあったが。

だから、今夜、彼らの縄張りに迷い込んだ小舟が襲撃されたのも必然だった。船の乗員の何名かが逃げ出し、それを巨鬼オーガァどもが追いかけたのも。

ただ一点、獲物の中に力ある魔法使いがいたということを除いて。


  ◇


―――航海者は捨てるところがない。

闇の怪物どもを率いる司祭。革鎧に身を包む闇妖精ダークエルフは、彼らの奉じる女神へと感謝の祈りを捧げていた。地下に住まいし流血の女神へと。

船は利用できる。積み荷も。乗員も生贄に捧げることができるし、呪物や食料ともなる。今日も良い収穫を得ることができた。素晴らしい。

浸食作用によって生まれた急峻な湾。すなわちフィヨルドの奥での事。

海浜へと引き上げられた船体は細く長い。優美で、喫水が浅く、軽量な高速船である。ロングシップと呼ばれる北海の民ヴィーキングたちの船だった。

さほど大型ではない。乗員も少なかった。交易船であろう。

陸に転がっているのはその、数少ない乗員。3名が既に屍となり、ひとりは縛り上げられていた。後で女神に捧げるための生贄である。

残った乗員たちもまもなく捕まるであろう。

そう思い、司祭が丘の向こうへと目をやった時だった。


―――GGGGUUUUOOOOOOOAAAAAA!?


丘向こうから響いた断末魔。身の毛もよだつようなそれに、略奪にいそしんでいた闇の怪物どもは慄然とした。

人間の苦鳴ではない。明らかな、巨鬼オーガァどもの悲鳴が立て続けに響いたからである。

―――あの怪物どもに悲鳴を上げさせるとは何事だ!?

司祭は手勢を集めると、すぐさま丘陵を駆けあがり始めた。事の真相を確かめるために。


  ◇


巨鬼オーガァどもは唖然としていた。ようやく追い詰めた獲物。すなわち交易商人を捕らえた仲間が突然宙を舞ったからである。

集中する視線。

体を型に曲げ、空を飛んでいく巨鬼オーガァは、柔らかい泥炭の積もった地層へと激突。地面に沈み込んでようやく止まる。そのままぴくりとも動かない。

口からは血反吐を吐き、どころか内臓までもがはみ出しているではないか。破城槌にも匹敵する一撃が叩き込まれたのは明白であった。

しばし硬直していた闇の怪物どもは、やがて茫然自失から立ち直ると、新たに出現した敵へ視線を向けた。

首のない、細身の女体を。

泥と枯れ草で汚れた血の気のない裸身はしかし、照らし出す月光と相まって美しい。

首のないそいつは巨鬼たちをと、無造作に踏み込んだ。もっとも近い巨鬼オーガァの一匹めがけ。

標的となった彼は、手にした棍棒を振り下ろした。

衝突音。

振り下ろされた質量は二百キロを越える。その破壊力に耐えられる者などいるわけもない。そのはずである。

では、それを真正面から受け止めた女はなんだ。首のない、自分の半分ほどの身長しかない死体はなんなのだ!?

怪物は、生まれて初めて同族以外に力負けするという経験をした。それは同時に、人生最期の経験でもある。

何故ならば、女は棍棒を奪い取ると、巨鬼オーガァの頭を殴り飛ばしたからである。

衝撃は、分厚い鉄板にも匹敵する頭蓋を砕いた。

ぐらり、と巨鬼オーガァの上半身が揺らぐ。

3メートルの巨体が倒れるまで、随分と時間がかかった。

亡骸が倒れる振動は地鳴りを呼び、今起きたことが現実だということをあらわにする。

怪物どもが事態を理解するまで、更に一拍の間が開いた。自分たちがこれから死ぬという事態を。

恐慌状態に陥った彼らはだから、持てる全能力を注いで女を殺そうとした。次々に女へ殺到し、棍棒を振り下ろしたのである。あるいは拳で殴りつけ、岩を投げつけ、掴みかかった。

無駄だった。

棍棒は。拳も。岩はたやすく受け止められ、掴みかかった掌は逆に引き裂かれた。

女は死者である。死者は死なぬ。彼女に与えられた偽りの生命はこの世の理の外にあったのだ。

だから、女を。女海賊を殺すには、同じくこの世の理の外の力をもって立ち向かうしかない。強力な魔法が必要だった。

そんなもの、この巨体しか取り柄のない怪物どもに備わっていようはずもない。

立て続けに、苦鳴が響き渡る。引きちぎられ、解体されていく肉の音も。

何匹もいた巨鬼オーガァが全滅するまでほとんど一瞬たった。


  ◇


「……美しい」

九死に一生を得た交易商人は、月下の殺戮を呆然と見ていた。首のない裸身の女が、軍勢を蹴散らせるほどの巨大な怪物をしていく様を。

それは戦いではなかった。ただの作業であったろう。

場違いな感想だということは分かっている。だが、月光に照らされ、欠けたるもののある裸身が、20倍もの質量を次々と破壊していくのである。人知を越えたものに美を見出すのが人間であるならば、交易商人が感じ取っていたのは間違いなく美であった。

やがてを終えた女。彼女は、交易商人へ

こちらを見ている。相手に首はないが、商人はそれを確信した。顔を合わせたわけだ。

この相手には魂があるという、女占い師の言葉を思い出す。

ならば商人としてすべきことはひとつ。

「……いやはや。助かりました。今後ともよい関係を結ばせていただきたいですな」

さすがに場違いだろうか、などと思いつつも挨拶を終えた彼に、女は手を差し出した。助け起こそうとするように。

そのときようやく、交易商人は思い出した。己が無様に大地へと転がっている事を。

相手の手を握り、彼はようやく立ち上がったのだった。

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