第7話 呪いのおわり
「・・・強い寒気が南下してきており、今日は各地で初雪が観測されています。この影響で・・・」
ニュースと同じように、今日やるべきことはいつもと変わらない。俺はゆっくりとコーヒーを飲んでから、玄関を出た。・・段ボールを一つ脇に抱えながら。
23時45分。
日課を終えた俺は、暗い寝室で耳をそばだてていた。
ガチャ。
静かに玄関のドアが開く音がする。
足音はキッチンの方へ向かった。
俺は深呼吸をしてから、キッチンに繋がる襖を開いた。そのまま、暗い部屋に明かりを灯す。
「お帰り。絵美。」
大きく目を見開いた女が立っていた。
瞳は陰っていようとも、人懐っこさを秘めている。
表情は疲れきっていようとも、透き通るような白い肌の美しさは変わることがない。
山田絵美。30歳。
この女だ・・。間違いない。
俺はゆっくりと口を開いた。
「お前がこれから何をしようとしてたのか。それは、聞かない。でもこれだけは言わせてくれ。ごめんな。俺が悪かった。」
女の手に握りしめられた包丁は行き場を失って、寂しく震えていた。
俺は死んでいたのだ。毎日。この部屋で。女と伴に。
死を経験したものは、何か記憶を失ってしまう。
俺が失っていたのは余りに重い記憶だった。
「いつからだろうな。お前が俺を残して出世街道を走り出した頃からか。毎日俺より早く出社して、俺よりも遅く帰ってくる。そんなお前のこと見てたらざらついた感情を抱くようになった。正直、忘れてしまいたいとも思った。」
女が部屋を出ていく日、左頬に喰らった平手打ち。
忘れられていた古傷が傷みだす。
「だから見ようともしなかったんだ、お前が苦しんでるってこと。会社でもいろいろ大変なんだろ?佐藤さんから聞いた。山田先輩が私のこと庇ってくれてたから、何とかこれまでやってこれたんだって。」
俺がそう言うと、女は支えを失ったように倒れこんだ。フローリングにポタポタと水滴が落ちる。
「辛かったんだから!話聞いて欲しかったんだから!
会社では弱みなんてみせてらんないから、誰にも私のことなんて話せない!佐藤さんが会社に来れなくなっちゃっても、忙しい毎日は彼女に気を配る余裕すら与えてくれない!ホント私、何してるんだろって。そしたら今日、いつも帰り道に愚痴を聞いてもらってたミケちゃんがいなくなってて。あなたとの繋がりも全て無くなった気がして。それで!」
俺は堪らず女を抱き締めた。
女は確かにそこにいる。
肌、吐息、今度は優しい彼女の熱とともに。
俺の背中で、ニャーと気のぬけた鳴き声がした。
みかんの段ボール箱からのそのそと、ふてぶてしい顔をした黒猫が姿を現す。
「ミケちゃん!」
ミケはご機嫌をとるかのように、女の足元に摺り寄った。
「お前には調子いいんだよな。俺、やっぱ猫あまり好きじゃないわ。」
俺は腕についた無数の引っ掻き傷を擦りながら答える。すると女は、ミケを抱き抱えながら呟いた。
「最近思ってたんだけど、なんか前より太ってきてない?」
「そりゃそうだろ。2人分の飯食べてるんだから。」
「・・・今日は全国各地で暖かい1日となるでしょう。降水確率は・・・・」
天気予報を見ていると、襖が静かに開く音がした。
「・・おはよう。」
「・・おはよう。」
女は自分の分のコーヒーを淹れてくると、俺の目にストンと座った。
静けさが朝のダイニングを包む。
俺は目の前にあるスプーンと遊んでいた。
「ねえ。ちょっといい?」
女の声が静寂を破る。
「ん?どうした?」
俺は答えてから、目の前のコーヒーカップに口を付けた。
「なんか変な夢みたの。あなたとお喋し続ける夢。ほとんど内容忘れちゃったんだけど、1つだけ覚えてる。あなた「キミが死ねば俺に明日は来ないんだよ!!」とか言ったんだって。そんなくさいプロポーズみたいなセリフ、誰に言ったのかしら。」
思わずむせこむ。
あいつめ。やってくれたな。
「お前にだよ。」
俺は笑いながら答えた。
「ふふっ。朝から何言ってんの。でね・・」
久し振りに聞く笑い声。
でも毎日聞いてた笑い声。
約束だからな。
俺は仕方なく女の長話に付き合ってやることにした。
「ところでさ、昨日って何の日だったか知ってる?」
「22日?」
「そう。11月22日。いい夫婦の日ていうんだって。」
なるほど。
あっちの世界のやつらもなかなか粋じゃないか。
今日は11月23日。
俺たちにとって最高の1日になることは間違いない。
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