第七話「私の視点②」

「……黒い?いいえ、それで問題ないというのならば、別に異論はないわ」

 皆より10分程遅れて帰還を果たした私が控えめな挨拶と共に会議室のドアを開けると、少佐は電話越しに誰かと話をしていた。余程集中しているのか、一向にこちらの入室に気付く様子はない。

 私とて別に遊びに来た訳では無く、デブリーフィングの終わり際、投薬前にここへ顔を出すようにと彼女にきつく言われてされてここに立っている。

 即ち命令である。いかなる状況下においても命令と名の付くものの遂行に遅滞が許される理由はない。本来ならば迷う必要すらなく、気づかない上官に向かってすぐに再び声を掛けるという選択が唯一の正解である。

 もう一度改めて声を掛けようか……。両手で静かにドアを閉めながら一瞬迷い、ややあって結局開きかけた口を閉じる。

 戦闘行為が許される時間の外とはいえ、仕事は戦場にだけ存在する訳ではない。いくら珍妙なルールが蔓延したところで、最低限CPから退出しない限り私達にとっては常にオンタイムだ。候補生となってまず最初に叩き込まれるその認識を踏まえれば、今目の前に映っている光景はそこから最も遠いものと言える。

 しかし。敢えてその状況を受け入れた事にもっともらしい理由付けをするならば、少佐が通話に用いているものが部屋備え付けの外線ではなく個人用の携帯端末であることに気付いたから。それが意味するところは話している相手が軍属ではない、個人の私的な間柄の物であるという事だ。

 家族?友人?あるいは特定の男性?そのいずれにせよ無粋に割って入る事がどうしても憚られた。戦場という非日常に身を晒すものとして、そんな些細な平穏との接点がいかにありがたいかを重々承知している。

 ……まぁ、本当は呼び出しの理由が九分九厘お説教であるという事に察しがついているので、少しでも先延ばしにしたかったという方が大きいが。私は締めたドアに軽くもたれて、いつ終わるとも知れない通話の区切りをひたすらに待つつもりでいた。

「ひとまずこっちも当たってみる。心配しないで。見ている所はいつも――」

 ――だが、その時は意外に早く訪れた。それまで机に対して横を向けた椅子に右足を上に組んで座わり、手前側のアームレストに肘を付いていた彼女が不意に足を組み替え、上半身を僅かにこちらへと向けた。その拍子に私の姿が視界の端を掠めたのだろう。柔らかな口調にどこか釣り合いの取れていない硬さを伴ったその声が途切れ、眼鏡の奥に覗く瞳孔が僅かに開いたのがやけにはっきり映った。

「……いいえ、なんでも。またあとで掛けるわ」

 恐らく互いにとって実時間よりも長く感じた沈黙を挟んだのち、表面上は平静を取り戻した上官の声が強引に通話を終わらせ、机に歩み寄る私に組んだ脚を戻して正対する。

「申し訳ありません。私的な時間を……」

 色々と気を揉んだにも拘らずそのすべてが無駄になった事で余計に申し訳なさを覚えて頭を下げる。

「いつから聞いていました?全て?」

 床に焦点を当てていた視界の上から、少佐の冷静に射抜くような――作戦中において彼女が発するものと同一の――声が降り注ぎ、私は慌てて首を振る。

「いえ!たった今入室したばかりでして内容までは決して――」

 思わず口早になる私へと嘆息を放り、上官は呆れた様な口調で続けた。

「全く、返事が返ってきてから入室しなさいといつも言っているでしょう。もういいです、頭を上げてください」

 相変わらず温度の通っていないような声色だが、そこに僅かな安堵が含まれているのを感じ取り、恐る恐る頭を上げる。ゆっくりと視界に入り込んでくる彼女の表情は、少なくとも怒気を孕んでいるということはなさそうだった。

「寛大なお心に感謝――」

「許すかどうかはむしろこれからの報告如何ですが」

 ……う゛っ。そう言えばお叱りの呼び出しを受けていたんだっけ。思わず喉を詰まらせる私の頬を冷たい汗が伝う。そんな狼狽からか、彼女の眼鏡が天井の光を反射して輝いた気がした。

「さて、CPへの帰投が遅れた原因を、手短に」

 やっぱりその件ですよね。聞くなり浮かんだこんな文言をそのまま口にすればどんな嵐が吹き荒れるかわかったものではない。かといって適当に取り繕ったところで看破されて火に油を注ぐだけだろう。

「……戻る前に徒歩かちにてフィールドの更なる把握……ついでに一服しようとした所、同じく帰投が遅れたと思しき敵兵と遭遇しまして」

 ぽつぽつと語り出す私の口から敵兵、というワードが出た途端、上官の眼光が一層の強さを表した。

「勿論交戦、発砲には及んでいません」

 痛くない腹を探られる前に疑念を封殺に掛かると、すぐさま瞳から放たれる威圧が弱まった。

 無理もない。彼女としては一番気に掛かるところだろう。仮に私が銃火を交えたならば事は一兵卒の暴走に収まらない。否応なしに直属の上官が詰め腹を切る事になるのは先日の事件で明らかになっていた。

「敵兵にも交戦の意志は認められず……」

 それまで段々とペースを上げていた私の口はそこで止まり、それまでただ黙って報告を耳に入れていた上官の眉が潜まる。

「認められず?」

 この先をどう話せばいいものか。

「いえ、そのぅ……」

 自己弁護の文句を練る時間も与えるつもりはないと言わんばかりの鸚鵡を返され、浮き足立つ思考がどうにか上手い切り抜け方を、と考えれば考える程逆に泥沼にはまって灰色に塗り潰されていく。そんな心地に苛まれていた。

「一緒に、一服してました……」

 結局形ばかりの報告口調も崩れ、肩をがっくりと落として白状した私に、上官はただ腕を組んだままたっぷり沈黙を挟み込んだ。その時間に比例して重くなる空気に喉を圧迫されるような心地を覚え、冷汗が脂汗へと変わっていく。

「正直は美徳ですが、そこまでいくと愚直と喩えたほうが相応しいですね」

 そんな息苦しさが限界に達する一歩手前に聞こえてきた、笑いを噛みしめるような彼女の声は、私にとってまさに救いの福音に聞こえた。

「一つ訊きます。貴方の言うフィールドの更なる把握。その必要性とは?」

「一月前から当該エリア周辺に置いて敵の展開する遅滞戦闘。その打開策を見出すためです」

 即答する。文言に嘘偽りを混ぜなかったからこそできた反応だ。ここで下手を打つわけには行かない。

「散発的な狙撃によるもので現在の所損耗は甚大という訳ではありません。あの山道だけが進軍ルートという訳でもない」

 思惑通りというべきか、姿勢を一度質した少佐が反論を述べてきた。 

「しかし言い換えれば狙撃手一名、もしくはその観測手の二名だけに延々と進軍を阻まれているとも言えます」

「多少時間は割かれますが、今動かしている別動隊が山肌を迂回し終えれば挟撃に持ち込める」

「その多少の時間を稼ぐ事こそ、相手の狙いなのかもしれません。防衛の意図が見えず、航空支援の許可は一向に下りない。加えて陸戦兵器の大量投入が難しい地形である以上、歩兵隊わたしたちで可能な何かしらの対策を立てる事は急務かと」

 機先を制するように食い気味に具申を並べていくと、彼女はふむ、と唸り腕を組んだ。いいぞ。これで作戦立案に話が流れれば……

「……そこまで目端が利き、自主性もありながらどうして当たり前の規則を守れませんかね」

 ダメでした。一転して肩をすぼませる私に対し、少佐は殊更に冷徹な眼光を向けてくる。

「先を見通し行動することは立派ですが、貴方の場合結局そこには軽挙が付きまとっている。それが原因で万一命を落とせば、結果あなたの力を信頼する隊全体に深刻な影響を及ぼす。その自覚を持ってもらうために歩兵隊の指揮を命じたのですけどね……」

 大仰に溜息を吐く上官を見て完全に藪蛇となってしまった事を悟った私は、降り注ぐ正論にぐうの音を立てる事も出来ずに縮こまる。

「如何に腕が立とうが、時間外に戦術を練ろうが、単純な決め事を守れないようでは組織においては単なる無能ですよ」

 無能、という言葉に脳天を殴られたような衝撃を覚え足元がふらつく。その拍子に下げた勲章が揺れてぶつかり合う音が耳に届いて、知らないうちに奥歯を噛みしめていた。

「何か反論が?」

 無能がここまでの栄誉を得られるものか。私にだってちっぽけな自尊心プライドくらいはある。戦闘の発生しえない時間帯に僅かな寄り道をしただけでそこまで悪し様に言われるのは心外そのものだ。

 ……だが、今それを叫ぶのはお門違い。私が敵兵と煙草を吸っていたことも、それが原因でデブリーフィングに遅れたことも事実として存在しており、彼女のいう事は全くの正論である。いくら評価された過去があった所で、今の過誤を正当化する事由にはなりえない。

「いえ。いかなる罰則も甘んじて受ける覚悟です」

「ではこちらを」

 あらかじめ用意していたのだろう。目を伏せて答える私に上官は素早い手付きで机の引き出しを探り、バインダーに挟まれた紙束を寄越して来た。

「始末書と罰則として課せられる訓練メニューです。明日のブリーフィングまでに両方とも終えておくように」

「了解いたしました。それでは失礼いたします」

 勘定を乗せずに一礼と踵を返し、バインダーを小脇に抱えて歩き出す。

「どこかの国の格言にありましたね。無能な働き者はどうなるでしょう」

「……?」

 ドアから廊下へと出ていく間際、思い出したように投げられたそんな言葉に足を止められる。その文句にどんな真意が潜んでいるのか、確かめるべく振り向いた私がその表情を確認する前に、お互いを隔絶するかのように扉が閉ざされた。

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