第五話「僕の視点④」

 ……鬱陶しいなあ。


 傾斜を登る度右腰の下辺りに感じる重心の移動が一々気に掛かり、苛立ちに舌を打つ。

 時折見上げる木々の間から覗く空は既に真っ赤に染まっていた。普段ならばとっくに白線の際に腰を下ろしている事だというのに……いつもより歩みが遅いのもきっとこいつのせいだろう。形状の喩えとは異なり流石に音まで鳴らなかったが、ベルトのバックルより二回り程小さいそのサイズに反して、身に付けるとその質量をしっかりと感じる程度には重量を誇っているのもまた厭らしい。

 それでも朝の出勤、もとい移動の時に散々悪態を付きながらやっとの事で慣れたと思っていたが、今日の仕事、もとい交戦中はポイントの移動が少なかった所為か、終了の放送を聞いて立ち上がる頃にはすっかり違和感が復活してしまっていた。

 そんなストレスが鬱積すれば、たとえ昨日の今日でもまたあの場所に向かいたくなるのも仕方がないだろう。帰途に就くなり声高にそう言い放った僕の嘆願を、奴は反論の一つも返さず承諾してくれた。

 見送られる時の、どこか可哀想なものを見るような視線に若干の引っ掛かりはあったが、心付けはしておくもんだ。

 更に歩みを進めてようやく視界が開け、それと時を同じくして岸壁に打ち寄せる波の音が耳へと飛び込んできた。

 昨日はそんなに気にならなかったんだけどなあ……空には秋晴れが広がっており雲一つないが、もしかしたら遠洋は今頃時化しけているのかもしれない。

 そんな事を思いながらぼんやりと坂を上っていると、段々と大きくなる潮騒に割り込むように嗅ぎ慣れた煙草の香りが漂ってきた。

「お先に失礼しています」

 訝しむ僕の耳に突然声が響き、思わず肩が跳ね上がる。

「き、来てたんだ……?」

 そうだ。昨日は気にならなかったんじゃない。もっと意識を割くべきことが起こったからだった。肩に釣られて上がった目線の先、白線の東側ギリギリに彼女の小さな体が収まっていた。

 僕と違って鉢合わせにバツの悪さを感じもしなかったのか、後ろ手を地面に着き上半身だけを捻ってこちらを向くその顔には屈託のない笑みが浮かんでおり、下げる頭と共に黒髪が揺れ、編み込みの間に夕陽を反射していた。

「いやー、今日も火忘れて困っているんじゃないかなーって」

 昨日よりは短い逡巡を経て隣に座った僕に彼女はそんな冗談を口にしてきた。その慣れない口調はこちらの意図を探っているようにも……深読みし過ぎだろうか。

 相変わらず敵意はないと主張するため、ポケットから取り出した煙草を咥えて苦笑を返しながら懐を探る。

「そんなバカな……あれ」

 その手が段々動きを早くし、やがて身に起きた事態を把握して止まると、彼女はどこか安堵した様に頬を緩め、にへらと笑った。 


 ※     ※     ※


 二本目の吸い殻を尻の脇に置く頃、気が付けば辺りは次第に暗色が支配し始めていた。登り始める月に惹かれて道始める潮の香りが紫煙の切れ目に混じって来る。

 あれから特に話す事もなく、僕たちは火の(一方的な)貸し借りを行う以外は暮れていく空を眺めているばかりだった。

 正直、沈黙が支配するこういう空気は少し苦手だ。じわじわ湧き上がる気まずさにふと横を見ると彼女はいつの間にかスリングを外し、ライフルを地面に寝かせている。僕に対する警戒を完全に解いたのか、それとも単に長居を決め込むつもりだろうか。

「そういえば、アルカリックレディの新譜って、もうそっちで売ってるの?」

 読み取ったそんな態度に話題を探す頭が唐突に思い出し、僕は改めて彼女に向き直る。しかし打ち寄せる波に紛れて届かなかったのか、彼女はなんら反応を見せず、その瞳は未だ波頭を見つめている。

 もう一度呼びかけようか迷っているうちに彼女はこちらの視線に気づいたようで、お尻をもぞリと動かして、こちらに体を向けてきた。もちろん白線は踏み越えていない。

「へ?あ、スイマセン。聞いてませんでした」

「いや、うん。いいや、なんでもない」

 場を繋げようとした会話を聞き返されても、なんとなく言い直し辛い。

「や、気になるじゃないですかあ」

 なんというか、こちとら敵兵なんですが、と改めて問いたくなるような馴れ馴れしさを感じさせる一言に、僕は残っていた僅かな毒気すら抜かれた心地になる。

「……アルカリックレディの新譜。もう出たのかなって。東のアーティストだから、こっちには流通しないんだよ」

「ファンなんですか?!」

 途端に彼女は目を輝かせ、訊ねたこっちが引くくらいの勢いで白線を踏み越えんばかりに身を乗り出してきた。……胸元から上に限っては、むしろ超えていないか。

「そっちこそ、ずいぶん食いついてるみたいだけど」

 世間話に相槌を打つ、というレベルでは到底片付かないその反応に、半ばわかりきった問いを投げかけてみると、彼女は返答の代わりに左手のひらで、薬指と親指を交差して上下して見せた。

「お、去年のライブ、行ったんだ?」

 確かそのライブは開戦のごたごたで映像化されておらず、アンコールでベースがアジテイトに用いたこのサインはライブに足を運んだファンしかわからないものだ。

「インディーズから大ファンですよ。あ、でもなんかうちの国じゃ最近やたらと持ち上げられてますけど」

 僕らの指す東側を、彼女はうちの国と呼ぶ。そんな些細なことが、改めて彼女は敵勢力なんだなと僕に再認識させた。

「今じゃあ『国民的ロックバンド』なんて言われるまでになっちゃって、昔からのファンとしては嬉しいような、鼻の頭がむず痒いような……なんか複雑なカンジ」

「ああそれちょっと解る……って」

 そんな心情を知ってか知らずか、相変わらず友達に話しかけるような口調で実際に鼻の頭をぽりぽりと掻くしぐさをする彼女を尻目に、僕はその言葉の持つ違和感に囚われていた。

「こくみんてきろっくばんど?」

 戸惑いが言葉の輪郭を危うくさせる。アルレディをそう持て囃した奴らは「ロック」の意味を欠片も理解してないんじゃないだろうか?

 ――いや、この上なく理解しているからこそ、独立戦争を仕掛けた今、あちら側は彼らを持ち上げているのかもしれない。

「まぁ、今度慰問に来てくれるそうなんで、まだKIAにはなりたくないですねぇ」

 そう呟いた彼女は僕から視線を外し、迫る闇に空と同一化していく水平線へと目を向け、波に紛れそうな程小さな溜息を吐いた。その瞳が僅かに震えているのは、あるいは死への恐れのせいなのだろうか。それともただ揺れる波を反射しているからなのか、僕は彼女を何も知らない。

「……ほんと、俺も次のライブまでには終わってほしいもんだよ」

 慮っても栓無い事だ。わざと能天気な声を出し、彼女に倣って溜め息を続けながら、僕はこの戦争の終わりというものは果たして何を指すのだろう、なとと考えてみる。

 きっとそれは僕にとっても、彼女にとっても違うのだろうな。

「って、いいんですかね。こんなことで停戦願っちゃって」

「そうだねぇ、そっちは独立仕掛けてんだから」

 急に難しい顔で考え込む彼女を見ながら、軽く笑って答える。

「私は仕事でやってるだけですし、国がどうこうよりもライブのが大事ですもん」

 反論したつもりなのだろうが、それでは本音を言っているに過ぎないだろと心の中で指摘を差し込みながら、僕は観測種の顔を思い浮かべていた。

 一言に軍人と言っても、いろんな奴がいるんだな。所詮徴兵組の僕個人としては前半も後半も彼女の言うことに同意するのだけれども。

「まぁその程度のものなんだよね」

「まぁその程度のものなんですよ」

 そのやり取りが合図のように、僕たちは二人同時に立ちあがった。夕日は殆ど沈んでおり、既に海面を僅かに照らすばかりになっていた。伸びのついでに空を仰げば、寒色へ向かうグラデーションの中にちらちらと星が広がり始めている。

「そうだ。明日アルレディの新譜持ってきますよ」

 明日も僕がここに来ることを前提としたその言葉は誘い文句だろうか、それとも暗に僕の命が明日まで続くように祈ってくれているのだろうか。

「……無理はしないでいいから」

 その真意を測りかねたままの僕は、意趣返しとばかりに二つの意味を込めて返答する。変わらず彼女は笑顔を返すだけだったが、伝わったか伝わらないかなどは些細な問題だった。

 僕たちは互いに背を向け合い、白線から離れていく。

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