第三話「僕の視点③」

 ――ここにまた、シュールな絵柄が誕生した。

 夕暮れの崖に佇む男女。これがあるいは恋人同士だったならば様になるのかもしれないがよりにも寄って初対面の、しかも敵兵だ。この構図は傑作のジョークともいえる。

 そんな状況は向こうにとっても可笑しいのか、彼女がくつくつと笑い出し、そのまま腰を下ろしてぶらぶらと崖に足を遊ばせ始めた。時々僕の出方を伺うように、上目づかいでこちらを見てくる。

 なんとするか。どう見ても交戦の意思はなさそうだが……。迂闊に動くわけにもいかず、視線を合わせたり外したりしながら、しゃがむとも立つともつかない中途半端な態勢を取る僕の姿が、また彼女の笑いを誘っていた。

 そうこうしているうちに夕焼けはさらに色を濃くし、その身に他の色をも溶かし込んでしまったかのように、僕らの周りを橙色一色へと染めていく。

 僕の迷彩も、彼女の迷彩も、今となっては見分けのつかないおんなじ色。そうなったことで許可を下されたような気がして、白線を挟んだ隣にすとんと座り込んだ。

「変ですよねぇ、これ」

 僅かな間の後、先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「変だねぇ」

 今度は二人してしばらく笑った後、不意に彼女の手が自らのヘルメットとフェイスマスクに手を伸ばしたので、ぎょっとした僕が思わず伸ばした手があわや白線を越えそうになった。

「流石に顔バレはまずいんじゃない……?」

「だって、一日中蒸れっぱなしだし、鬱陶しいし」

 慌てて手を引っ込めながら声だけで掛けた待ったに返って来た、呆れる程短絡的な返答に思わず眉が潜まる。自分が狙撃手という立場であり、身元の判別に繋がる行為に取り分け敏感であるという事を差し引いたとしても、今の彼女は些か不用意に過ぎるだろう。

「一応、敵兵目の前にいるんだからさあ……」

「歩兵一人の顔見た所で、何か得あります?どーせ作戦中は脱ぎませんよ」

 いやまあそうだけど……と言葉を濁している間に、彼女は制止も虚しくえいと覆面を取り払ってしまった。隠されていた一本の長い三つ編みが解放を喜ぶように跳ねながら左肩に降りる。

 僕が思わず声を失ったのは、露わになったその素顔と声の落差に暫く脳味噌が追い付かなかったから……というだけではない。

 ――若い。と言っても、僕と同じかもう少し下くらいだろうか。しかし、切れ長の瞳と調和の取れた、シャープなラインを描く顎の傍で揺れる襟章は僕の物より線が一本多く、厚手の戦闘服でもしっかりとした膨らみを主張する胸元に輝く勲章の数も、その年頃に似つかわしくないものだった。

 この戦争が始まる前から軍人だった口だろうか。しかしそれにしては纏う空気と発言にどうにも緊張感のない、端的に言えば緩い気がする。

「な、なんです……?」

 しまった、じろじろ見過ぎたか。彼女は戸惑いがちな声と共に右手で勲章、というよりも胸元を隠した。俯いた頬が少し染まっているように見えるのは、色味を増した夕日のせいか、判別がつかない。

「あーいや、ごめん。見た感じそんな年変わらないのに凄いな、って」

 慌てて顔の前で掌を振り、視線を外す。変な下心を誤解されてはたまったものではない。……いや、少しはあったけど。

「別に大したことないですよ。たまたま運が良かっただけです」

 良かった。すぐに戻った柔らかな口ぶりに不興を買ってはいないようだと安堵の息を漏らす。そんな僕を不思議そうに眺めた後、彼女はその胸元から僕と同じ銘柄の煙草と、夕焼け色をそのままに写す真鍮のライターを取り出した。

「あ」

 その声にも気付かないように、彼女は煙草を咥えて火をつける。しぽっという軽い音と共に、薄い唇の間から紫煙が棚引いて、夕暮れの空に舞い上がっていった。

「同じ銘柄ですねぇ……吸わないんですか?」

 その若さと声に不釣り合いなほど美味しそうに煙を吐き出した後、彼女は僕の右手、人差し指と中指の間にに居座る煙草を見ながら不思議そうに尋ねてきた。

「いや、火が、ね」

 空いている左手でライターの蓋を弾きフリントを磨る真似をして答えると、

「じゃあ」

 彼女が何の抵抗もなくこちらにライターを差し出そうとする。刻印もマーキングもない、女の子が持つにはいささか無骨に過ぎるデザインだった。

「ありがたいけど、そこ国境線」

 別に誰かが見ている訳じゃない。気にせず受け取って火を点け、何事もなかったように返せばいいんだけど……。どうにも危なっかしさを覚える程不用意で、それでいてあまりに自然と厚意を向けてくる彼女に、少しばかりいたずら心が沸いていた。

「あっ……」

 やはりというべきか、言われて初めて気付いたように、彼女は反射的に手を引っ込める。

「すみません……なんか、私だけ……」

 しょぼくれた口調で謝りながらもすぐに火を消さないのは、愛煙家の証し。気持ちはすごく解る。逆の立場だったら僕だって消さない。

「いやいや、別にいいって」

 そうは言いながらも、少しばかり声の裏に期待を込めて、多少物欲しそうな声色を作ってみた。すると彼女はしばらく黙りこんだかと思うと何かを思いついたように顔を明るくし、白線ギリギリにライターの炎を差し出した。

「煙草の先だけ」

 なるほど考えたな。その真意をすぐさま読み取り口元が緩む。どうやら彼女の中では『煙草を咥えた男』が白線を越えてくるのはアウトだが『男の加えた先にある煙草』ならばセーフらしい。どういった言い分があるのかまでは分からなかったがありがたくその提案を受け取り、フィルターの先ギリギリを咥えて煙草の先を差し出すと、彼女は指先に摘まんだライターの火を最大にして、器用に煙草へ近づけていく。

 しばらく火と煙草の先を合わせるのに難儀はしたものの、やがてぢぢっ、と言う音と共に、僕の煙草に無事火が移った。

「りょーくーしんぱーん」半日ぶりのニコチンを肺の奥で堪能しながら、またも意地悪な軽口を叩いてみる。しかし彼女は動じることなく、得意気にふふんと鼻を鳴らしてみせた。

「いいんです、敵勢力の未確認物体は――」

 そこで言葉を切って、いきなり強く息を吹きかけてきた。火種の役割を終えた灰が、ぼろりと崩れて風に消えていく。

「『自国領空内に侵入するも、ほどなく自軍の火炎放射によって掃討されました』から」

「なるほど」

 詭弁に悪びれもせず胸を張る彼女のお陰で、僕も気兼ねなく存分に煙草を堪能できた。その色を段々と藍色に近付けていく空には、気の早い星がいくつかちらちらと光り始めている。

「そういえば、なんでここに?」

 そんな空と海の変化を眺めながら互いに喋ることなく二本目を吸い終えた後、彼女は唐突に訊ねてきた。

「うーん……」

 返答に困ってしまう。あのままCPに帰りたくなかった、と言うのが理由と言えば理由だが、別にそんな事は毎日思っている。なぜ今日行動に移したのかと言えば――何故だろう?

「んー、なんとなく?」

 身のある返答を期待していた彼女の肩が見事にずるりと滑る。とはいえ決してごまかしたわけではなく、本当に理由が浮かばなかったのだ。

 かといって適当に「スコープ越しに見上げた夕日が美しかったからさ」などと初対面の女の子に答えては、気障を通り越してかわいそうな頭の持ち主に映ってしまうだろう。ウソだし。

「そこで黙秘しますかー?作戦の一環だとしたら条例違反ですよ?時間外だし」

「いや別にそういうわけじゃないけど……ていうかそちらこそどうしてここに?」

 口を尖らせる彼女に同じ質問を返してやり過ごすという無難な手を使ってみたが、彼女もまた答えずただヘラリと笑うだけ。

 結局互いにもう一本を吸い切って。どちらともなく立ち上がるまで、その理由を知ることは出来なった。

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