海岸の二人
@kei1
ある男女が、海岸にやってきました。
二人は、海岸を歩いていました。砂浜です。あたりは暗いのですが、月明かりがあります。多少、明るかった。二人は、並んで歩いていました。
彼と、彼女。
砂浜はでこぼこしており、時折彼女の体がよろけました。彼は微笑んでそんな彼女の容姿を横から見守っていました。もう、完全に、二人の世界。誰もいない。この現場を誰かに見られたら良くはないのですが、しかし実際二人は安心していた。見つかりっこないと。これだけ暗いし、誰もいない。そんなことはもう二人の関心にはあがっていなかった。
ただ、うれしかった。彼女は、うれしかった。彼と海岸線の砂浜を一緒に歩いていることが、彼女には大変にうれしかった。この先、自分たちがあと何回会うことができるかなんか、知らない。このあと自分たちがどんな関係になるのかわからないし、あるいは、もう完全に別れてしまうかもしれない。でもそんなことは今はどうでも良かった。ただ、今こうして、今この瞬間、彼と私で、今こうして二人でいるということを、本当に心の底からうれしいと思いました。今が私の人生の中でもっとも幸福な時間なのかなって。正直そう思います。あなたと会うときはいつもそう。あなたとあった今日この日が、私の人生の中で最高の一日だって。あなたは意識はしていないけど、私は本当にそう思っています・・・
延々と続く浜辺。月明かり。
並んで歩く、二人。しかし、意外と彼の方は冷めていたのかもしれない。この前会ったときには、彼は何回かわざと彼女の体に触れたのに。ただ、今回は全く彼女に触るつもりはないようで。だったら何で海岸を歩こうなんて誘ったのか。それでも時々、彼は手を腰の辺りで組んで、あるいは、自分の手を両方とも自分の背中に回して、そこで自分で自分の手のひらをあわせている。あたかも、今日はあなたに触りませんよと宣言しているようで。でも彼女はあまりそのあたりのことには気づいてはいなかった。
目の前には、大海原。海が広がる。繰り返される、波。押し寄せる波、退く波。寄せてはかえす波達。ひたすらに波がうごめいている。何かの生命のようで、見ようによってはおかしな光景。うごめく波。
音が、すごかった。これって、何の音?船?波?風?
フッと彼と目があった。
「何だろう。地球の音じゃないのか?」
彼女は、びっくりした。どうして今私が何を考えているのかがわかったのかしらと。別に私、音の話なんてしていないのに。この音って何の音なのかなって、ふと心に思っただけなのに、どうして彼はそれがわかったのかしら・・・
でも、それは正しいのかも。彼が言っていることは、正しいのかもしれない・・・これは、地球の音。大地の音。地面の音。決して、波だけではないし風だけではない。もっと、下から下からくるような、不思議な慟哭・・・
二人は、砂浜を歩いた。寄り添って。つかずはなれず。でもお互いの体が触れることはない。どちらかが先を歩くこともなく、どちらかがついていくこともない。お互いに、何とか並んで歩こうと、決してあなたの先を歩くことはないし、決してあなたの後を歩くことはないと。ただその思いだけで歩いていた。でも、それでいて、決してお互いの顔を見ることはなく。それでいて、ほとんど会話はなく。どうして今こうして、歩いているのかしら、ここを。どっちが先に誘ったんだっけ?・・・
・・・ゴーッ・・・
この音・・・
夜だから大きいのかしら。昼間来たら、こんな音しないっけ?・・・
歩く二人。
やがて、どんどんと、少しずつ、波打ち際に近づいてきた。砂浜を歩くと、自然と、波打ち際に近づいてきてしまう。他の目的もないので、やみくもに歩くわけでもなく、自然と、波打ち際を目指して歩き出してしまっていたので、だから二人はもう、波打ち際にまでたどり着いてしまっていた。
ザザー・・・ザザー・・・
波の音がよく聞こえる。ここでは、波が主役。押し寄せる波が。下から響く大地の叫びを、波の音が押し消しているようで。彼女の聴覚は、おのずと波へと注がれる。彼も、同じ。今こうして二人は、打ち寄せる波のすぐ傍まで来ていた。
不思議なもので、五回くらいは小さな波が押し寄せては来るが、そのうち五回に一回くらいは大きな波が打ち寄せてくる。もっと正確に言えば、十回くらいは小さな波、五回に一回は中くらいの波、そして、十回から二十回に一回くらいは、本当に大きな波が押し寄せてきた。もう二人は、不思議と、波を数えていた。あと何回で、大きな波が来るのかなって。優しく微笑む彼。彼の視線が自分に傾いたのを感じることができたので、彼女も不思議と、彼に微笑み返す。月明かりが二人の顔を照らす。
もうふたりは、波を数えることに、夢中。いつ今度大きな波が来るのかなって。耳を澄まして、遠くを見て、次に来るあの波が、すぐ足元にも来るのかなって。そうやって波を眺め、波の数を数え、いつしか二人は、波打ち際のすぐ近くにまで来ていた。小さな波が押し寄せてくる時は、もう水際のギリギリまで接近する。中くらいの波が押し寄せてくる時は、もうあらかじめ少し後ろまで下がっていた。水に濡れないように。靴が濡れて欲しくないので。大きな波がきそうなら、あらかじめ引いて、水に濡れないように、そんなには波打ち際までは接近しないようにしていた。
「わかった!わかった!わたし、わかった!」
はしゃぐ彼女。彼女としては、波が来るタイミングがわかったようで、いつどのタイミングで大きな波が来るかがわかるようで。わかったわかったと騒いでいた。そんな彼女の様子を、微笑んで見つめる彼。月明かりが照らす。波打ち際で、小波と中波と大波の動きを予想しながら、波打ち際ギリギリまで近づいている二人。
一瞬、波が大きく引いた。
大きな波がやがて押し寄せてくる予兆。それは二人ともわかっていた。いよいよ来るよねって。次の波は結構大きいかもねって。二人は下がった。波打ち際より、大きく下がった。靴が濡れてほしくないし、大きな波に足元が飲み込まれてほしくはないし、だんだん私も彼も、波の周期性がわかってきたから。濡れませんよって。
やや下がった二人。大きな波を警戒して。やがて、波が押し寄せてきた。限界まで海側に下がった波が、今度は二人めがけて、押し寄せてきた。微笑む二人。そうよね。くるわよね。予想通りよねって。今は非常に接近して二人寄り添って並んで、やがて来る大波を迎えうっていた二人。そろそろ大きな波が来るのねって、二人の男女が、波打ち際で、立っていました。
「あれ?」
彼の表情が、一瞬曇った。
どうも、今回の大波は、二人の予想を上回っていたよう。予想より、来る、来る。押しよせてくる。いままで、ここまでは押し寄せては来なかったのに、あれ?あれ?なんか、大きいぞ・・・大きいぞ・・・まずい・・・まずいぞって・・・
予想より、波が、大きかった。押し寄せる水が大きく、思わず二人は後ずさりを始めた。このままだと、かなり濡れるよ。えー、ちょっと予想よりも、大きいよって。二人は波に正対したまま、後ずさりをしていた。しかし自然は我々の意思とは関係がなく動く。その打ち寄せる波は、彼らの予想を遥かに超えて、大きかった。
「あれ!これ、もしかして!」
もう、あきらかに、大きな波。これでは、足首までどっぷり水に使ってしまう。靴が濡れてしまう。この後ずさりのスピードでは、追いつかない。もっとスピードをあげて、下がらないと。できるかしら。彼にはできそうだが、彼女にはちょっと無理かもしれない。彼のスピードならば、サッと後ろに下がって水に濡れずにすむであろう。しかし彼女のスピードでは、無理そう。そんな予感。そして、波が来てしまった。実際に大きな波が来てしまった。
あわてて下がる彼。少し、波と距離がでた。彼は何とか塗れなそうですみそう。問題は、彼女。このままだと彼女は、濡れてしまう。打ち寄せる波に、彼女の足元が濡れてしまいそうだ。
その時、とっさに、彼は彼女に近づきました。
自分ひとりだけが波から逃れるわけにはいかないと、彼は彼女に、ものすごく近づいたのです。彼女は気づきませんでした、彼女は彼女なりに迫り来る波から逃れようと必死になっていたので、彼がまさかすぐ近くまで来ていることなんて、彼が自分のすぐ脇にいることなんて、気づかなかった。しかし彼は彼女のすぐ脇にいたのです。
そして彼は、まさに波が彼女の足元に迫るくるその時に、彼女を、抱き上げたのです。
彼女のふとももの辺りに彼の手を回し、迫り来る波が彼女に一滴でもかからないようにと、彼女を抱きかかえて持ち上げたのです。
「え?!」
彼女は叫びました。何?どうしてあなた、私を?・・・しかし彼は、そんな彼女の心情やら表情やらはまるで気に留めませんでした。
彼は、彼女を持ち上げたまま、後ろにぴょーんと下がったのです。ジャンプしたのです。波がもうすぐ足元にまで来ているので、もう、彼女を抱きかかえてそのまま後ろにジャンプして、彼女も自分も濡れないようにするしかないと、それが彼のやったことでした。
「ほぉー、ほー、ほー・・・」
彼は、ほおほお、という言葉をだしました。彼なりに、結構な行動だったようです。そしてすぐに彼女を放しました。彼女の両の足は、すでに波が引き上げた砂浜の上に、再び着地しました。もう波はありませんでした。
「おー、危なかったね・・・。いやー、今の波は、結構大きかったねえ・・・」
と、見せた表情が、またすごかった。こんなに彼の崩れた表情って、彼の感情をあらわにした表情って、今まで見たことなかった・・・
彼女の心に、稲妻が走りました。
しばらくの沈黙がありましたが、その後、彼女もだんだんと冷静になってきました。今いったい、何が起きたのかということを、彼女なりにようやく理解できました。
要するに、波が大きかったので、彼女が濡れそうになったので、彼があわてて彼女を抱きかかえて持ち上げて、彼女は水に濡れずにすんだのでした。そして今彼女は彼の手を離れて、ふたたびこの、乾いた大地に立っているという話です。
しばらくまた、二人の間に沈黙が流れました。
彼としては、思いっきり彼女の体に触ってしまって、まずかったかなという思いがありました。確かに水に濡れないためだとはいっても、思いきり彼女を抱きしめてしまったことには変わりありません。彼女、怒ってないかなって、そっと彼女の表情を伺いました。しかしそんな彼に対して、ややはにかみながら、彼女は微笑み返しました。二人の間に言葉はありませんでしたが、しかし今起こった出来事が、二人にとても幸福をもたらしたということは事実だったようです。その事実を、二人とも、認識しました。
そして再びしばしの時間が流れました。今までは波打ち際を二人で歩いていたのですが、いまはもう、二人の動きは完全に止まっています。波打ち際からはかなりの距離にきてしまったので、もう、ここでは波に濡れることはないでしょう。今までで最大の大波が来た箇所よりも、さらに少し下がった地点です。その場所で、二人は静かに海を眺めていました。不思議と、地球の音はもう聞こえませんでした。大地の音も、地面の音も、そして風の音までも、なんだかもう、何の音も聞こえてきませんでした。不思議なもので、さっきまであんなに騒がしかったのに、今はもう、音のない世界。無音の世界が、広がっていました。ほんのちょっと前に、波が引き起こした偶然ではあったが、二人はきつく抱き合ったのです。思いっきり彼は彼女を抱きしめ、彼女も必死に彼にしがみつきました。ほんのちょっと前の出来事です。そして今はしばらくの時間が流れ、今は二人は動くこともあることもやめ、今こうして、二人並んで、海を眺めています。
さっき、偶然にも抱き合ってしまったことは、お互いもう、何も言いませんでした。ただ、彼の心にも、彼女の心にも、その事実は大きくつきささりました。時間がたつほどに、私たちはさっき、力強く抱き合ったという事実を、二人ともしっかりと認識するようになっていたのです。
その時、チラと、彼が彼女に目を向けました。そうすると、彼女と、目があいました。
・・・お互いに、同じことを、考えていたのかしら・・・
彼が、一歩。波打ち際に近づきました。彼の足が、より濡れている砂の方へと、より海に近くへと、進み出でたのです。彼は、波打ち際に向かって、一歩、踏み出したのです。
その後すぐに、彼女も、一歩を踏み出しました。別に、彼につられてではない。今二人は同じ気持ちだから。彼が一歩を踏み出すのと同時に、彼女も一歩を踏み出したのです。海に向かって。二人は同じことを考えていました。二人は、同じ気持ちでした。
「私は、大きな波を、待っている。次に大きな波が来るのを、待っている・・・」と、彼は発しました。
「はい・・・」
彼女は答えました。
並んで、進む二人。今は、小波。小波十回のあと、大波。まだ、水には濡れない。水には濡れない大地を、二人の男女が海に向かって、再び歩き始めた。再び波打ち際に向かって歩きはじめたら、もうそれはどういう結果になるかって、わかりきっていること。波は、来る。今は小波だが、やがて、中波が、そしてやがては、大きな波が来る。こうやって、一歩、また一歩と前へ進み出でたのでは、水に濡れてしまう。大きな波が来たら、二人の足元は水で濡れてしまう。それは、わかっているはず。波に足元が濡れる・・・でも、どうして、二人は波打ち際に向かって、歩き出すのですか・・・
もう、二人の心は、同じだった。
二人とも、同じことを、考えていた。
つまりそれは、今度大きな波が押し寄せてきたら、もう一度、彼が彼女を抱きかかええるということ。彼が、彼女を再び抱きかかえるということ。
今、すでに、七、八回小さな波が来た。もう、いよいよ、大波が来る。
だから、二人は、あえて、進み出た。
そして今度大きな波が来たら、二人は、抱き合う。今度は、偶然ではない。意図的に、波を利用して、抱き合う。思いっきり。そのつもり。そのつもりで、こんなに波打ち際まで来てしまった二人。彼女の心は、決まった。彼と、抱き合いたい。私を、抱きしめてほしい・・・
でもそれは彼も、同じ気持ちだった。さっきあれだけ強く抱き合ってしまった。偶然だが二人はあれほどぎゅっと、抱き合ってしまった。そして今、再度二人は抱き合うべく、波打ち際に向かって進んである。もうこれは、次に大きな波が来たら、二人は抱き合うよって、もうお互いにわかった上での行動。確信犯。二人とも。今度は偶然ではない、意図的に、思いっきり、抱き合うよって、そんな思いだった。
彼女は、彼の口元を見た。
彼は、彼女の視線を感じた。彼女の視線が、自分の唇に注がれたことを、感じた。彼の唇は、少しだけ半開きになった。そして、彼女に返す視線は、やや薄目になっていた。
もう、次か次の波で、大波は来るでしょう。そうなるとどうなるのか・・・
極度の緊張が両者をおそった。次の大きな波がきたら・・・二人は・・・
また、一歩踏み出した。もう、これ以上進む必要は、ない。あとは、大きな波が再び来ることを、待つ。二人で、待つ。今は同じ気持ち。ただ抱き合うだけではなくて、更にその先のことをするって。今この場で。すぐこのあとにって。
音が、変わった。
今まで無音だと思ったのに、また、少し大きくなった。それでも最初よりは音は小さく。きっとこれって、わたしたちの鼓動の音なのかしら・・・
いよいよ、いよいよ、来る。もう、次。次の大波がきて。もう、本当のことをいっちゃう。次の大波がきて、彼は私を抱きかかえる。そして、そのあと、私たちは、キスするでしょう・・・
音が、さらに、凝縮される。今気づいた。これが、鼓動の音だって。彼の心臓の鼓動であり、私の心臓の鼓動。もう、バクバクと。くるねって。波なんかよりも、さらに大きなもの。彼。彼が、くるねって。
「あ!・・・」
足元に、来た。すごい勢いで。もう、私の力では、逃げ切れません。私を、私を、抱きかかえてほしい・・・
それは、彼も同じ気持ちだった。彼女を、次の大波で抱きかかえると。そのつもりでここまで来たと。この波打ち際に、再び来たと。そして、来たと。いよいよ、大波が。来たと、さあ、彼女を、彼女を、だきしめる・・・
ザザーっと、まさに足元にまで来た。
彼の足は、波によって、大きく濡れた。彼はもう、彼自身はジャンプルする気はなかった。ただ、彼女を抱きかかえることのみに集中していた。別に自分の足元がぬれようがどうでもよかった。ただ、彼女を今、抱きしめたいと。そしてキスすると。そういった思いだった。
そして彼は、いよいよ、動き出した。
彼女の膝の後ろ辺りに右手を添え、彼女の腰の辺りに左手をそえた。すばやく。一瞬で。そして、そのまま彼女の体に触れ、持ち上げようとした。
彼女も、もう、準備万端だった。彼の手が自分の体に触手を伸ばし、それをうけいれた。彼に抱きしめられたいと。そして、思いっきり飛び上がった。彼に抱きしめられたいと。彼女は、ジャンプした。
しかし、ここで、予想外の出来事が。
予期せぬ出来事が起こった。
彼が彼女に近づくのがあまりに早急で、また、彼女が彼にジャンプするのがあまりに高く、何と、二人はぶつかってしまった。なんと、予想外に、二人は、ぶつかってしまったのである。彼女の頭と、彼の顔が、衝突してしまったのである。彼女の脳天と、彼の鼻の辺りがぶつかってしまった。
「うわぁー!痛い!」
彼は、叫び声を上げた。
彼の受けた痛みと衝撃は大きく、大きな叫び声を上げた。
それは彼女も同様で、彼女の脳天には痛みが走った。彼女は思わず、痛いと漏らしたが、しかし彼の受けた衝撃のほうが大きかったようで、彼の叫び声に彼女の声は消えてしまった。彼は、思いっきり、彼女の頭突きを、彼のその鼻に受けてしまった。彼の鼻からは流血が生じた。彼は鼻時を出してしまった。
「ううぅう・・・」
鼻を押さえてうごめく彼。もう波は足元を捉え、彼は水びだしだ。それは彼女も同じ。彼に抱きかかえられそこね、彼女の足元は大きく水で濡れてしまった。しかも、目の前には鼻血を垂れなたしてもがく彼がいる。
「大丈夫?大丈夫?大丈夫?」
あわてて彼に駆け寄る彼女。鼻を押さえる彼の背中をさする。何でこんなことになってしまったのか。彼の気持ちの高鳴りが強すぎたのか。彼女のジャンプが予想以上に大きかったのか。いずれにせよ、二人は今、波が足元に思いっきり押し寄せ、ずぶぬれになってしまった。彼の流血は予想以上で、よくよく見ると、その両方の鼻の穴から血が出ていた。よほどの衝撃だったようで、うめき声をあげながら、もがく彼。そんな彼をなんとか介抱する彼女。
そして二人は、とにかく、水際から離れた。もう、波なんてどうでもいい。波の、ばか。もう、本当、悔しい。どうしてこんなことに・・・
二人は大波に足元をすくわれたため、靴も服もびょ濡れになってしまった。彼の流血は思った以上に深刻で、彼は、波打ち際からかなり離れた場所で、仰向けに寝てしまった。鼻血がとまらないらしい。そんな彼の元に彼女は駆け寄った。
一体なんでこんなことになってしまったのか。彼の顔は鼻血まみれになってしまい、実に不恰好になってしまった。彼女は彼にハンカチを渡した。これでふいてくださいと、彼に言った。こんなことになってしまって申し訳ないと、彼女は謝った。
しかし、彼は、謝らないでくれてと彼女に言った。別にあなたは悪くはないよと。たまたま、ぶつかってしまったと、少し笑った。その少しの笑いに、彼女も心がほぐれた。
砂浜にあおむけに横たわる彼。彼もだいぶ落ち着いてきた。そんな彼を見つめていた彼女に対して、彼は、
「ねえ、膝枕して欲しいんだけど。お願い。鼻血が止まらないんだよ・・・」
彼にそう言われると、彼女はすぐに砂浜に座り、彼女の両足の太ももの上に、彼の頭を乗せた。彼の頭が、彼女の足の上にのっている格好。そして、今、彼女はあらためて彼の顔をみる。よくよく考えたら、彼の顔をこんなに近くで見るのは、初めて。しかも、自分の足の上に、彼の顔が乗っかっている。これって・・・
ただ、彼は実際血まみれだったので、まずは彼の顔をハンカチで拭いた。血を、ぬぐった。彼の顔は若干、見栄えが良くはなった。仰向けになっているので、血はとまった。あとは、血が固まるのを待つのみ。ちょっと時間がかかりそう。しばらくこのままの姿勢で、時間がたつのを待とうと。
月明かりが二人を照らす。延々と続く砂浜。誰もいない。
二人だけの世界・・・
恥ずかしいのか、照れているのか、彼女は彼の顔を見ることができなかった。彼女は、再び海を見た。波打ち際に、彼女は視線を移した。どの道、彼の鼻血がおさまるまで、しばらくこのままの姿勢でいなければいけない。彼を膝枕しているわけだし、彼は怪我人だし、もうこのまま自分は動いてはいけないと、そういう気持ちだった。
でも彼の顔を、直視することはできなかった。たしかに、恥ずかしい気持ちもあったし、照れている部分もあった。でも、それ以上の気持ちがあったのも、事実。彼女は、気づいていた。彼女は、知っていた。彼が今、自分の顔を見ていることを。彼が自分の顔を、ものすごく見ているということを。その彼の視線が怖くて、彼女は視線をはずして海を見ていたのである。彼は、止血中なので、真上を見なければならない。彼の視線の先には彼女がいる。だから、彼は彼女の顔をみる。でも、それだけじゃ、ないよね。彼が彼女の顔を見る理由って。でも、それだけじゃないよね。また、彼女が今、視線をそらして、海を見ている理由も、それだけじゃないよね・・・
もう、血は、止まっている。鼻血は、止まった。彼は、彼女の膝の上に頭を置くのを、もう、やめてもいいはずだ。でも、彼は引き続き、自分の頭を、彼女の足の上に置き続けた。引き続き。ずっと。彼女が、自分の顔を見るまでは。それでもかたくなに波打ち際へと視線を向ける彼女。しかしその心臓は、ものすごい速度で動いていた。次の展開が、もう、予想できた。この次に二人に何が起こるのかを。二人がこの次に、何をするのかを。
音が止まった。
無音の世界に、再び。
月明かりと、空と海と、砂浜。
男と女。
ふと、彼の右手が伸びた。うなだれていた彼の右手が、少しずつ上昇を始めた。その動いた右手は、やがて、彼女の髪に触れた。薄い茶色の髪色。この髪に、彼の右手が触れた。少し、髪をつかむ。若干の湿気を感じた。
その触れた右手は、さらに上昇をする。彼の右手は、髪をつたり、髪の生え際まで、進む。つまり、つまり、頭。彼の右手は彼女の頭へとたどり着いた。そして、少し、少しだけ、力を入れた。君の見るべき方向は、海じゃないよね。こっちだよねって。彼の大きな意思と彼の大きな思いが、少しだけ右手に伝わった。少しだけ、彼女の頭の向きを変えたいと。海を眺めている彼女の視線を、自分のほうに向けたいと。そういった意思の表れ。だから、彼の右手が、彼女の頭をとらえ、そして、彼女の頭の向きを少し変えた。彼の顔を、見て欲しいと。私の顔を、見て、と。そういった彼の意思。彼の、思い。思いなんてもんじゃ、ない。激情。大いなる感情。あなたと、キスしたいんですと。あなたと今、キスするから、こっち向いてって。
彼の右手の、指先の動きは賢明だった。もう、彼女は、逆らえない。逆らおうともしなかった。彼の右手と右の指のなすがままに、彼女の頭の位置と目の位置が、海より彼へと少しずつ移っていった。そして今こうして、ようやく、二人は見つめあった。視線を、交換し合った。この距離で・・・
彼と彼女は、彼女のふとももの上に彼の頭がのっている段階で、見つめ合った。彼の右手に、少しの力が入る。もっと、近くに来て、と。彼にわずかに頭を押され、彼女も、すすんで、頭が下がってゆく。
距離がどんどんと近くなる。二人の顔がどんどんと接近していく。少しずつ。ゆっくりと・・・
二人とも、お互いの顔がすぐ近くにまで迫った。二人とも、ほとんど目を閉じた。
そして二人の唇が、重なり合った。
海岸の二人 @kei1
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。海岸の二人の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます