ムギさんとしずめ
昼間の日差しが、夜になっても帰り損ねているんじゃないかと思う程の蒸し暑い日。ムギさんと僕は、喫茶店のカウンターで、ぐったりとしていた。アイスコーヒーを飲みながら本を読んでみたのだけれども、ちっとも頭に入ってこなかった。
「暑いね……」
「うん。そうだね……」
ムギさんと僕は、そんな会話とも言えない会話を、20回以上繰り返していた。そうこうしていると、カウンターの奥から、マスターが氷水を片手に現れた。
「やれやれ、夜でもこんなに暑いとは。これはいよいよクーラーを入れる必要があるな。ツヅキに予算を相談しないと。それはそうとお前たち、どうやら喫茶店も、涼みたい気分らしいぞ。今日の行き先は、カワノレンの国だ」
「カワノレン! やったあ」
「あそこなら涼しそうだね」
カワノレンの国は、僕たちの済んでいる所と気候的には変わりない。だが、のれんのように、何本もの川が流れているので、いつでも涼しい事で有名な国だった。
喫茶店が止まると、川のせせらぎの音や、涼しいそよ風が流れ込んできた。と、同時に、なんだか騒がしい音も聞こえてくる。
そのどたばたした音は、どんどん近づいてくる。突然、ばたんと音を立てて入口のドアが開いた。何事かと思ってみてみると、そこには、かわうそや河童が大挙して押し寄せてきていた。
「うわっ、なんだこいつら。本を読みに来たお客さんってわけじゃなさそうだな。こらこら、入って来るな!」
マスターが、キッチンからモップを持ち出して、必死に追い出そうとしていると、外から澄んだ声で、なにやら唱える声が聞こえてきた。
「コノハナの御名において……狐狸よ、鎮まれ。じちん……ぷいぷい!!」
その声と同時に、かわうそや河童達は、まるで蒸発するように消えてしまった。
「消えたみたいだね」
「そのようだね。いったいあれは、何だったのだろう」
僕達が顔を見合わせていると、ひとりの髪の長い女の人が入って来た。制服を着ているところを見ると、どこかの学生さんのようだ。
「はじめまして。どなたかお怪我をされていたり、壊れてしまった物とかはありませんか?」
その女の人は、心配そうに店内を見回している。すると、マスターは顔見知りなのか、嬉しそうに声をかけた。
「やあ、コノハナじゃないか。どうやら君が、あいつらを追い払ってくれたみたいだね。ありがとう。ここには涼みに来たのだけれども、違った意味で肝を冷やしたよ。アイスコーヒーの一杯でもおごらせてくれよ」
「いえ……そんな……部活中ですし……」
「まあまあ、いいじゃないか。さ、入った入った。またあいつらが来ないように、念のために鍵もかけておこう」
マスターは、遠慮をするコノハナをカウンターに座らせると、いそいそとアイスコーヒーを作りに奥へと入って行った。
「はじめまして、コノハナ。おかげで助かったみたいだよ」
「はじめまして。ちょうど部活の練習をしていた時にみかけたから、慌ててかけつけたの。間に合って良かった」
「あのかわうそや河童は何なんだい?」
「あの子たちはね、川の神様のお使いなの」
「神様のお使い?」
「ええ。他にもいろんな姿で現れるけど、あの子達みたいに小さいサイズのは、まとめて狐狸こりって呼ばれているの」
「そうなんだ。じゃあ大きいサイズのもいるんだね」
「大きいのは、
「地鎮道? 初めて聞いたよ」
マスターが、カウンターの奥からアイスコーヒーを持ってくると、コノハナの前に置く。その後ろからは、ツヅキもやってきて、カクテルグラスに盛られた、いい香りのするシャーベットを出してくれた。
「これは、ツヅキからのお礼だってさ。お前らの分も作ったってよ。ところで、地鎮道について話していたのか? 結構有名なスポーツなんだけど、知らなかったのか」
「うん。コリやミズチ? をしずめるんだっけ? しずめるって、やっぱり水の中にしずめるの?」
「うふふ。違うのよ。しずめるというのはね、うーん、どういったらいいかな。漢字で書くと、こう」
コノハナは、シャーベットの下に敷いてあったコースターを裏返すと、そこに”鎮める”という文字を書いた。
「えーっとね、『落ち着かせる』、とか、『慰める』とかいう意味よ。神様が、いらいらしたり、怒ってたりするのを、『まあまあ、落ち着いて』みたいに、機嫌を直して貰うって意味かな」
「神様も、イライラしたりするんだ」
「うん。神様と言っても、カワノレンの場合は、川の神様ね。ここには何本も川がいっぱいあるでしょ? 普段は、さらさらと爽やかに流れているだけなんだけどね、そういう日ばかりじゃないじゃない? 機嫌の悪い日は、ちょっと悪戯してやろうと思うらしくて、狐狸や蛟の姿になって、いろいろとちょっかいを出してくるのよ」
「川の神様も、ずっといい人ではいられないんだね」
「そうなの。ひょっとしたら、遊びたくてちょっかい出しているのかもね。そういう風にして出てきた狐狸や蛟を、倒したり、鎮めたりしてスコアを競うのが、地鎮道というわけ」
「倒すのと、鎮めるのは、何か違うのかい?」
「うーん……。これも説明が難しいんだけど、力ずくで帰ってもらうのが、『倒す』で、納得して落ち着いてもらうのが、『鎮める』という感じよ。試合的には、スコアが変わってくるの。もちろん、鎮めた方が高ポイントね」
「なるほど。今度、試合を見に行ってみようかな」
僕達の話をニコニコして聞いているだけだったマスターも、会話に加わって来た。
「ところで、コノハナは、地鎮道がどうやってできたか、その歴史を知っているのかい?」
「いえ、あまり詳しくは……。確か昔、キノニエ川の氾濫を鎮めたのが由来だったような……」
コノハナは、
「半分正解ってとこだな。その昔、この辺りの川は、今よりも機嫌が悪くて、しょっちゅう
そこで、当時の人はどうしたかというと、氾濫が起きる度に、怒りを鎮めるための
問題は、誰がその役を引き受けるかだ。結局、くじ引きで決めたんだな。おあじさんという子が当たりくじを引いたんだけど、悲しくて、怖くて身投げをする日まで、さめざめと泣いて暮らしていたんだ。
でも、あまりに悲しんでいる姿を見た他の6人は、気の毒に思ったんだろうな。生贄をささげる日の前日に、6人全員が、三股淵に身を投げてしまったんだ」
そこでマスターは、いったん話を区切って、氷水を一口飲んだ。
「それで、神様の怒りは収まったんだが、残されたおあじさんは、ひどく6人の事を悲しんでな。その後、川の神様の怒りが爆発してから生贄を捧げるのではなく、普段から少しずつ少しずつ気を使って、穏やかに
そうそう、スコアを付けるときに、倒すのと鎮めるのとで差を付けるのも、おあじさんの考え方が元になってるんだ。力づくで倒しても、倒された方の怒りは収まらない。かえって余計に怒って、次にまた倍返ししてこうようとするかもしれない。それよりは、お互いに事情を話してわかりあって、鎮まって貰うという方が、より良い方法だっていう考えなんだな。
コノハナ、今でも地鎮道の選手の事を、『
「へえ。そうなんだ。マスターは詳しいね」
「そりゃそうだ。伊達にお前らより長く本を読んでないぞ」
「私も初めて聞きました。部活のみんなにも教えてあげなくちゃ」
「まあ、なんにせよ、いろいろと由来や歴史があるって事だ。中には、その事を知らないで、ただただ数多く倒す作戦でスコアを求めるチームもあるけど、俺はあんまり好きじゃないなあ。コノハナ、お前らは、鎮め作戦メインで頑張れよ」
「はい! 頑張ります。今度の大会を楽しみにしててくださいね」
コノハナは、アイスコーヒーを飲み終わると、ぺこりとお辞儀をして帰って行った。
その日の帰り道、ムギさんと僕は、カリュウ川のほとりを歩いていた。相変わらず蒸し暑かったけれども、川の方から吹くそよ風が肌に心地良い。
「コノハナたちは、怒りが爆発する前に、鎮めているんだね」
「うん。倒すんじゃなくて、鎮めるんだとも言っていたね」
「そうだね。僕も妹と喧嘩した時には、やりかえすんじゃなくて、そうしてみようかなあ」
「そうしてご覧よ。いつまでたっても君たちときたら、喧嘩ばかりなのだから」
「妹もそうしてくれれば良いのだけど。……あとは」
「あとは?」
「お母さんも、あまり爆発させないように鎮めないとね」
「そ……それは手ごわそうだね……」
「うん……。爆発した時は、ムギさんを生贄に出すしかないなあ」
「まったく君ときたら。そうならないように頼んだよ」
ムギさんと僕は、爆発するお母さんの姿を想像した。不思議な事に、あんなに暑かったのに、なぜかぶるっと寒気を感じて、急いで家に帰った。
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