ムギさんとむね肉ソテー

 その日の僕は、またしても妹と喧嘩してくさくさしていた。妹ときたら、絶対に悪いのはそっちの方なのに、こちらが真剣に教えようとすると逆に怒り出し、しまいには泣き出す始末なのだ。そして、鳴き声を聞きつけたお母さんがやってきて僕までまとめて怒られるというのが、いつものパターンだった。

 夜になり、窓から抜け出そうとしているとき、ふいにムギさんが僕に尋ねてきた。


「君と妹君は、相変わらずしょっちゅう喧嘩しているけど、君は、妹君の事がそんなに嫌いなのかい?」

「嫌いというわけではないよ。けど、すぐに怒って泣く妹は、嫌だしよ。ああもう、いいから出かけようよ」


 もやもやしたまま喫茶店でしばらく本を読んだ後、気晴らしにとして大好きな、鶏のむね肉のねぎ塩ソースかけを作ることにした。

 あらかじめ冷蔵庫から出して常温に戻しておいたむね肉を、軽く叩いて平らにし、皮につま楊枝で、ぷすぷすと穴をあけて塩こしょうを振る。そして、油をひいたフライパンの上に載せてから、レンジの火を付けた。火加減は弱すぎるくらいの弱火だ。

 皮の方からじっくり焼き、パリパリになるまで、ゆっくりゆっくりと火を通す。その間に、ねぎとにんにくを刻み、塩、みりん、ぶどう酢を混ぜてレンジに入れる。これは、お母さん直伝の、むね肉にかける、ねぎソースだ。

 頃合いを見計らってむね肉をひっくり返すと、そのまま弱火で焼き続ける。じりじりしながら待って、いい感じかな、というところでお皿へと取り出してねぎソースをかければ完成だ。

 見た目は、我ながらいい出来だった。うまく行ったかなあ、とひとくち食べて、僕はちょっとがっかりしてしまった。おいしいにはおいしいのだけれども、どうやら焼きすぎたらしく、むね肉が、になってしまっていたのだ。実を言うと、この焼きすぎもいつものパターンだった。


「うーん、また失敗しちゃったなあ」


 と、皆でまかないを食べている席上でため息を付くと、どれどれといった様子でマスターがむね肉をひとくち口に入れる。


「そうか? うまいじゃないか。俺は、こういう堅めでとした焼き方好きだけどな。皮もパリパリで歯ごたえあるし」

「うーん。堅めは堅めでおいしいよね。でも、僕はもっとこう、柔らかジューシーな方がいいと思うんだ」


 僕の答えを聞いて、ツヅキが、鶏肉にねぎ塩ソースを付けながら提案してくれた。


「そうねえ。これでも充分美味しいと思うけれども、焼いているときにフライパンに蓋をして、蒸し焼き風にするというのはどうかしら? あれなら簡単にふっくら仕上がるわよ」


「うーん。たぶんそれならふっくらジューシーになるよね。でも、蓋をしてしまうと、せっかく美味しい皮が、パリパリに焼けないじゃない。僕は、むね肉の持っているなら、皮パリふっくらジューシーで、凄く美味しくなれるはずだと思うんだ」


 思わず力が入ってしまった事に気が付いて、ちょっと照れくさくなる。そんな僕を見て、ツヅキがにこにこしながら頷く。


「君は、本当に鳥肉に対してなのね。じゃあ、次のまかないの時に、一緒にむね肉を焼いてみましょう」


 というわけで明くる日の夜。僕とツヅキは、キッチンで一緒に鳥のむね肉を焼くことにした。今回は、焼き方の練習なので、ねぎソースは無しで塩こしょうのみだ。

 ツヅキと僕の下ごしらえは、ほとんど一緒だった。焼き方も同じように弱火で皮から。でも、ひっくり返してからが違った。ツヅキは、僕よりも早く、さっさと火からむね肉を降ろしてしまったのだ。


「えっ、もうおしまい? まだ火が通ってないんじゃない?」

「ええ。まだ通ってないと思うわ。でも、の」

「そうなの? 僕は、もうちょっと火を通したいから、食べるの待っててね。2つを食べ比べたいし、ちょっと冷めちゃうけどごめんね」

「ええ、構わないわよ。と、いうよりも、私の方もまだ終わってないから大丈夫よ。たぶん一緒くらいが食べ頃よ」


 まだなにか付け合わせでも作るのかな? と思ってツヅキの方をちらちらと見ていたのだけれども、鼻歌まじりでカウンターを掃除したり、包丁の手入れをしているだけだった。ひょっとして、"まだ終わっていない"なんて言っていたのだけれども、単に、僕に合わせて待ってくれているだけなのかしらん、と、不思議に思った。

 そんなことをしているうちに、僕のむね肉もできあがった。今回も、見た目はバッチリだ。


「できた!! 今日は、いつもより注意して焼いたから大丈夫なはず」

「よし、じゃあ、いただきましょうか」


 キッチンの調理台の上に、2つのむね肉を並べていると、どこからかを嗅ぎつけたのか、マスターもひょっこりと現れた。


「じゃあ、まずは僕のからね」


 包丁でむね肉をすっと切り、口に入れる。ぱりっとした皮の下には、……やはりきしっとした身が待っていた。


「うーん……。慎重に焼いたのになあ。じゃあ、次はツヅキのね」


 やはり包丁ですっと切り、口に入れる。皮は同じくらいパリパリで、そして、その下の肉といったら!! まるで違う種類のお肉を重ねて作ったみたいに、堅めの歯ごたえの肉の下から、いつのまにか柔らかジューシーな身が飛び出てくる。


「美味しい!! さすがツヅキだね。皮パリ柔らかジューシーだよ!!」

「ふふ。ありがとう。うまくいったみたいね」

「実を言うとね、僕は、今回のツヅキの焼き方は、失敗なんじゃないかと思っていたんだ。だって、いつもみたいにきっちりやらないで、途中でにするんだもの。生焼けで、危ない感じかもしれないと思っていたくらいだよ」


 ツヅキは、ムギさん用のお皿に、むね肉を取り分けながらにっこりと微笑む。


「むね肉を焼くコツはね、なのよ。好きすぎて真剣な物って、最後まで自分で火を通したくなるものだけれども、それだと火が通りすぎて、堅くなったり焦げちゃったりするのよね。だから、必要なだけ火を通したら、あとは待つの。むね肉に熱が伝わってさえいれば、むね肉自身が自分で余熱を消化して、焼き具合も、肉汁の具合も、になるのよ」

「むね肉が自分で……」

「ええ。料理の手順で待つことって、積極的に焼いたり煮たりすることと、同じくらい大切なことなのよ。特においしい物を作りたいって一生懸命になると、ついつい手をかけたくなるんだけどもね。そこをぐっと我慢して、待った方が良い場合もあるのよ」


 お皿の前では、ムギさんがそわそわしながら、むね肉が覚めるのを待っている。


「その通りさ。僕も、今すぐかぶりつきたいけど、猫舌だからこうやって待っているわけだよ」

「ムギさん、それは。ちょっと違うんじゃないの」


 まかないが済んで家へと帰る頃には、くさくさした僕の気分は、なんだかすっきりとしていた。


「ねえムギさん、今度妹に何か言うときにはさ、にしておこうと思うんだ」

「おや、悪いものでも食べたのかい?」

「食べたのは美味しいむね肉のソテーですー。そうじゃなくて、妹も妹なりに頑張っていたのかもしれないと思ってね。それなのに、僕がいっぺんに詰め込み過ぎて、になっていただけかもしれないからね。ひと通りの事を教えたら、その事がじんわりに伝わるまで待つ事にしてみるよ」

「うん。良いんじゃないのかな。なんにせよ、君と妹くんが喧嘩しなくなるのは、いいことだよ」

「どうかなあ。何しろ、いろんなものの、好きとか嫌いとかの加減というのは、に難しいからなあ。ちょっと苦手だよ」


 僕は、ため息をついて夜空を見上げた。今夜も満月が煌々と輝いている。


「まあ、頑張ってみるさ。それはそうと、ねえ、ムギさん見てみて。今日も月がきれいですね」

「ほう……君、それはなかなかの加減じゃないか」

「何が?」

「なんでもないよ」


 ムギさんはなんだか嬉しそうに先を歩いて行ってしまった。もう一度月を見上げると、まるで照れ隠しのように雲で顔を隠していた。

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