ムギさんとシマウマ判事
昼間から、ごうごうと風が吹いていたせいなのか、雲の流れがとても速い日の夜。ムギさんと僕は、満月が雲間に現れたり隠れたりするのを見ながら喫茶店にでかけた。本棚から気になる本を抜き出すと、カウンター座って読み始めた。
その日の行き先は、ルールの国だった。喫茶店がゆっくりと止まっても、あたりはやけに静かで。マスターのお気に入りのレコードの音と、誰かがパラパラとページを
しばらくすると、静かにドアが開き、シマウマのテミスがやってきた。いつものように、黙ってゆっくりゆっくりと本を選ぶと、僕たちの隣に腰かけて、ボソッと聞き取れないくらいの小さな声でコーヒーを注文する。そして、のんびりと本を読みはじめた。今日も、おしゃれなホンブルグ・ハットを
テミスは、いつも物静かだ。ムギさんも僕も、あまり話をした覚えがない。普段の喫茶店のカウンター席は、なんやかんやで賑やかなのだけれども、今夜は皆、本に夢中のようだった。
静かな雰囲気の中で、集中して本を読んでいたその時、突然入り口のドアが、バタンと音を立てて開いた。今までの静かさとのギャップが大きくて、店内のみんなが、びっくりして、そちらを向いてしまったほどだ。――ただ一人、テミスを除いては。
テミスだけは、ドアの音など気にしない様子で、いつも通りに黙々と本を読んでいた。すると、その姿を探していたのか、柴犬の警察官であるタロウが、ハッハと息を切らして駆け寄ってきた。
「ああ! テミス判事、こちらにいらしたのですか。探しましたよ」
タロウは、真っ赤な舌を出して、ぜいぜいと喘ぎながらテミスに話しかける。
「実は、チョコとマロンの奴が揉めてまして。判事にジャッジをして欲しいそうです。こちらに連れてきました。おい、2人とも入るんだ!」
タロウが、入口の方に声をかけると、チョコとマロンが、つんけんしながら入って来る。
「さあ、2人とも、ジャッジの前に言いたいことがあれば判事に言うんだ」
2人は判事の前に立つと、必死にテミスに訴え出た。まずはチョコだ。
「マロンったら
続いて、マロンも口をとがらせて反論する。
「だって、チョコに『ひと口貰ってもいい?』って聞いたら、『いいよ』って言ったんです。だから私は、約束通りにひと口貰っただけなんです。それなのにチョコったら、怒って私を引っ掻くんです。判事さん、チョコを叱って下さい!」
「なによ! 普通ひと口って言ったら、”少しだけね”って事でしょ? いくらひと口でも、半分以上も食べるなんてずるいわ!」
「だったら、最初からそう言えばいいじゃないの! 私はちゃんと『ひと口』っていう約束を守ってるわ! ひっかかれる筋合いなんてないのよ!」
2人は、わあわあと引っ掻き合いを始めた。さっきまでの静寂が、まるで嘘のように騒がしい。
「こらこら2人とも、静かに! あとは判事の判断を待つんだ。ささ、判事、お願いします。チョコが白で、マロンが黒です」
タロウが、2人をなんとか引き離し、テミスにぺこりと頭を下げる。しぶしぶ喧嘩をやめた様子の2人も、神妙に頭を下げている。
テミスは、本を読んだまま面倒くさそうに3人を一瞥すると、尻尾を振って、腰のドラムを叩きはじめた。ドロドロドロドロドロ……と、何かの結果発表をするようなドラムロールが演奏される。そして、最後に一つ、ドン! と決めの音を鳴らすと同時に、テミスの白黒の縞模様が、一気に真っ白に切り替わった。シマウマのテミスは、まるで白馬のようになっていた。
「ほらー! やっぱりマロンがやり過ぎなのよ!」
「ううう……、判事、ありがとうございます。チョコ、ごめんね。実は最初からいっぱい食べてやろうと思ってあんな事言ったの」
「もういいよ。その代り、今度おやつを食べるときには、私にも分けてね」
「わかった」
さっきまで、あんなに騒がしかった2人は、仲直りすると、手を繋いで帰って行った。その姿を入り口まで見送ったタロウが、尻尾を振りながらカウンターへと帰って来た。
「判事! 今回もありがとうございます! いやあ、判事はなんでもお見通しですな。本官だけでは、まさかマロンが最初から一杯食わせるつもりだったとは見抜けませんでしたよ!」
タロウがキラキラした目でテミスを見つめていたが、テミスはそちらをちらりと見ただけで、また読書に没頭してしまった。
僕は、タロウがちょっと気の毒になって、本を閉じて話しかけた。
「こんばんは。タロウ。相変わらずルールの国のジャッジは独特だね」
「やあ、こんばんは。そうですね。なにせルールの国には、なにもルールがありませんからね。何か揉め事が起きたら、その都度いろんなものさしで測らなくちゃいけません」
「いつも思うんだけど、なんでルールを決めないんだい。最初からルールを決めておけば、揉め事が起きる事も少なくなるんじゃないのかな」
すると、タロウが頭を掻いて説明してくれた。
「それが、そうもいかないのです。ルールの国の人は、みんなぎりぎりを狙うのが好きという、困った性質があります。
例えば、『おやつをもらう側は、最大50%の量までしか貰ってはいけません。なぜなら、あげる側が嫌がるからです』というルールを作ったとします。すると逆に、『じゃあ、50%ぎりぎりの所までなら、食べてもいいんだ』というように捉えて、みんなぎりぎりの所を狙うんです。
その結果、ルール的にはOKなのだけれども、なんだかみんなイヤな気分を味わう羽目になるという、本末転倒な事になりがちなのです。やりすぎる人が出ないようにルールを作ったのに、今度は別のすぎるがどんどん出てきて、困ってしまってワンワンワワンなのです」
「そうなんだ。じゃあ、あげる量を、凄く少なくするのはどう?」
「5%や10%みたいな事ですね。実はそれも過去に試したのです。すると今度は、『もっとあげたいのに』という声がでてきたり、『5%は最低あげないといけないわけ?』というように、そのギリギリを巡って、またやいのやいのと大騒ぎが始まる始末です。
結局、ルールなんてあるから、かえって皆嫌な思いをするんだ。ルールなんか決めないで、その時々の事情によって、個別に判断して下さいというようなところに落ち着いたんです」
「そんな事があったんだね。でも、さっきのチョコとマロンみたいに、どっちも引かない場合も多そうだね」
タロウは、尻尾を振って頷く。
「そうなんです。でも、あの2人はまだ良い方ですよ。中には、本当は嫌なのに相手に押し切られてしまう、なんて人もでてきてしまいます。そんな時に私たちが頼りにしているのが、ご存じ、判事殿なのです」
タロウは、嬉しそうにテミスに手を向けたのだけれども、テミスは相変わらず、我関せずと決め込んで、静かに本を読むばかりだった。
「こう見えて、判事殿は揉め事を起こした人たちのいう事を、よく聞いてくれます。あまりに見事な聞きっぷりなので、ジャッジをする前に、揉め事を起こした2人が、言いたい事を言ってスッキリしたのか、なぜか仲直りをする、なんて事も珍しくありません。
それだけでなく、判事は、言っていない事までも
ムギさんと僕は、あらためてテミスを眺めた。相変わらず、ただの本好きで大人しいシマウマにしか見えないが、実は凄い人らしい。ひょっとしたら、僕がこう考えている事まで、お見通しなのかもしれない。
すると、テミスは、本を読み終わったのかぱたんと閉じて立ち上がった。ゆっくりとお勘定を済ませると、タロウを伴ってのんびりと出口へと向かって行く。不意に立ち止まると、ムギさんと僕の方をちらりと振り返って、にこっと笑ったように見えた。
その日の帰り道、ムギさんと僕は、ルールについて話をした。
「ルールというのは、よしあしな所があるんだね」
「どうやらあるようだね」
「破らなければ何をしても良いというのものでもないのかな」
「いろんな人に対するルールだと、それでは難しいのかもしれないね」
「ルールをぐらぐら動かすわけにもいかないものね。でも、僕なんかルールが無いと、1回1回大丈夫かどうか不安になって、何もできなくなってしまいそうだよ」
「まったく君って奴は。そういう人にとっては、ありがたいものなのかもね」
「難しいね」
「難しいよ」
ふと、ルールはあった方がいいのか、無い方がいいのかを、テミスにジャッジして貰おうかと考えて、すぐにやめた。たぶん、テミスの縞模様は、ドラムロールが鳴り終わっても、綺麗な縞々のままなんだと思う。
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