ムギさんと包丁
その日、僕は、くさくさしていた。せっせと家事をしていたのに、妹があまりにも邪魔ばかりするので大喧嘩をしたのだ。ついでにその事が原因で、お母さんに大目玉をくらってしまった。
気分を晴らすために、ホームセンターへ行って買い物をする事にした。しばらくうろうろして、包丁をひとつ手に取ると、それを買おうと決めた。喫茶店のまかないを作るのにいつまでも何から何まで借りるのはちょっと気が引けていたし、なによりも柄から刃までがつるりと繋がったその包丁のフォルムが、すごくかっこよかったのだ。
早速その日の夜、喫茶店に持ち込んで使うことにした。メニューは覚えたてのツナとトマトソースのスパゲティだ。お湯を沸かしたずんどうにパスタを投げ入れて、トマトをさいの目状に切りはじめたのだけれども、なかなかうまくいかない。
どうにも上手く切れずに、ぶちゅっと潰れてしまうのだ。今度こそ、と思ってさらに力を入れて切ってみると、また、ぶちゅっと潰れてしまう。
「もう、うまく切れないなあ」
「どうせソースにするんだから、それでもいいんじゃない?」
横で見ていたムギさんが笑いながらそう言った。
「でも、ごろごろしたのがある方がいいじゃない? ああ、また潰れちゃった。この包丁は切れ味が悪いのかな? 全然言うこと聞かなくて、まるで妹みたいだ。これじゃあ、前まで使っていた奴の方が、まだましだよ」
ぶつくさいいながらトマトを切っていると、後ろからツヅキが覗き込んできた。
「どれどれ、ちょっと貸してみて」
ツヅキはひょいと僕から包丁を受け取ると、新しい包丁でトマトを切りはじめた。たいして力を入れていないように見えるのに、すぱっと綺麗にトマトが切れる。そのまま凍らせたら、アイスキューブになりそうなくらいきっちりと角も立っている。
「ええー、なんで? 僕が切った時と全然違うよ。僕の切り方だと、まだ力が足りないのかなあ?」
「ふふふ。力の強さというよりはね、使い方よ」
「使い方?」
「ええ、君は、上からぐっと抑える感じで切っていたでしょ? そうじゃなくてね、抑える力はほとんどいらないから、包丁をトマトの上で滑らせてごらん」
ツヅキの言うとおりに包丁を滑らせると、トマトがスパッと切れた。
「うわ、本当だ! ものすごく簡単に切れるね!」
「でしょ? 切りすぎてソース山盛りのパスタにならないようにね」
「わかった。でもこんなに切れるんだ。包丁が悪いんじゃなくて、僕が使い方を知らなかったんだね」
「ええ、上からぐっと押して切るタイプの包丁もあるけれども、この包丁はそれとは違って滑らせるタイプみたいね。思い通りにいかないからって、力で押さえつけちゃうと逆にどんどん切りにくくなっちゃうのよ」
「なるほど。力で押さえつけるんじゃなくて、包丁の得意なことを知って、包丁を信じて切ってもらえば良かったんだね」
「信じて? ふふふ、そんな感じでいいと思うわ」
コツをつかんだ僕は、すっすっと材料を切り進め、なかなかの味のまかないを作ることができた。マスターとツヅキにも好評で鼻が高い。ムギさんも褒めては来なかったけれど、喉のごろごろが隠し切れない出来だったようだ。
おかげで来るときにはくさくさしていた気分も、帰りにはかなりご機嫌になっていた。
「ねえムギさん。明日起きたらさ、妹に謝ろうと思うんだ」
「おや、悪い物でも食べたのかい?」
「食べたのは美味しいパスタですー。そうじゃなくてさ、今日の妹は、妹なりにいろいろお手伝いしようとしていたのかもしれないって気が付いたんだ。僕が、それを信じないで上からギュッとやっちゃったんで、妹が得意なお仕事がのやり方ができなくて、そのせいで上手くいかなくて怒っていたのかもしれないと思ってね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないね。まあ、なんにせよ君は、一人で全部やりたがるきらいがあるのは確かだね。妹くんに手伝って貰うというのは、いいことじゃないのかな」
「きっとそうだね。ともあれ、妹には謝るさ」
「うんうん」
ムギさんはなんだか嬉しそうに尻尾をS字に振っていた。
「あとは……」
「あとは?」
「お……お母さんにも、きちんと僕の使い方を説明してみるよ」
「そ……それは手ごわそうだね」
「そうなんだよね……」
ムギさんと僕は、ぶるっと体を震わせると、少しだけ早足で家に帰った。
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