ムギさんと猫のテブクロ
その日、ムギさんと僕は、喫茶店に乗って手袋の国へと降り立った。マスターから地図と発車時間の連絡用を兼ねたスマートフォンを貸してもらい、手袋ミュージアムを見に行く事にしたのだ。
実のところ、僕は、まだスマートフォンを持っていなかった。なので、借り物とは言えスマートフォンを持っているという事自体が、なんだかすごく嬉しかった。早速教えて貰った手順で地図を表示すると、2人で意気揚々と歩き始めた。
「手袋ミュージアムにはどんな手袋があるんだろうね」
「そりゃいろんな手袋だよ。ウールやニットで編んだ防寒用の手袋から、作業現場で使う軍手、ナイロンやカシミヤで作ったおしゃれ用の手袋もあるだろうね」
「そうなんだ。お掃除用のゴム手袋もあるのかな?」
「きっとあるさ。スキーやスノーボードで使うグローブや、君の好きな野球のグラブもあるかもしれないよ。なんといっても手袋ミュージアムなのだから」
「グラブも! それは凄いや。楽しみだねえ」
「そうだね……おや? さっそく手袋が落ちているようだよ」
ムギさんが顔を向けている方を見ると、道端に手袋が片方だけ落ちていた。その手袋はごく普通のウール製の赤い手袋で、小指の付け根辺りに2つの白くてキラキラ光るぼんぼんが付いている。
「片方だけ落としちゃったのかな。左手用みたいだね。拾って交番かどこかに届けてあげようか」
僕が手を伸ばそうとすると、ムギさんが、その手を軽くしっぽで触って制した。
「待って待って。少し様子を見ようよ。帰って来る時にまだここにあったら、その時に拾っても遅くないさ。落とした人が探しに来ることもあるだろうからね」
「そう言われると、それもそうだね」
確かに、落とし主が気が付いて、せっかく探しに来たのに見つからない、なんて事になったら気の毒だ。ムギさんと僕は、そのまま落とし物の手袋を置いたまま、手袋ミュージアムへと向かう事にした。
その道すがら、ムギさんは落とし物の手袋について、妙なことを言い出した。
「実は、あの手袋を拾わなかったのは、もうひとつ理由があるんだよ。なにせ、今日は満月だろ? ということは、あの手袋はひょっとしたら、猫のテブクロなのかもしれないからね」
「猫のテブクロ?」
「うん」
僕は先ほどの手袋を思い浮かべた。確かに、ちょっと小さめだっかもしれない。だけど、猫用にしては大きすぎるんじゃないのだろうか。そんな事を考えながらぼんやりと歩いていたのだけれども、ムギさんがさっさと歩いて行ってしまうので、僕は慌てて後を追った。
手袋ミュージアムは予想以上に楽しかった。てっきりたくさんの種類の手袋が置いてあるだけかと思っていたら、手袋を作るためのミシンの歴史や、手袋の国の成り立ちなど、いろいろな物が展示されていたのだ。
ムギさんと僕は、初代国王のタケノさんが実際に使っていたという手回し式のミシンを触らせて貰ったり、いろんな人の手袋を作るためのいろんな型を見せて貰ったり、自動編み上げロボットを触らせて貰ったりした。
スマートフォンを持ってきたことを思い出した僕は、マスターやツヅキにも後で見せてあげようと、いろいろと写真を撮って回った。ミュージアム内は照明を落としているので、自動的にフラッシュが光るのも楽しかった。
意気揚々と進んでいると、何やらガラス・ケースに入ってゆらゆらと現れたり消えたりする手袋が展示されていた。さっそく撮影しようとすると、警備員の人が声をかけてきた。
「ああ、きみきみ。この展示物は写真を撮ってもいいけれど、フラッシュは焚かないようにしてね」
「え。そうなんですか」
「ああ。この『おぼろの手袋』はデリケートで光に弱いんだよ。強い光を当てると、びっくりして逃げてしまうんだ。夜の鳥みたいにね」
「わかりました。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、楽しんでね」
おぼろの手袋は、青白い光をはなって、時々向こう側が透けて見える不思議な手袋だった。警備員の人はフラッシュを焚かなければ撮影しても良いといっていたが、僕には操作方法が分からないので、あきらめてそのまま次の展示物へと進んだ。
それからもいろいろな手袋や手袋の歴史をたんのうした僕とムギさんは、大満足で手袋ミュージアムを後にした。
「いやあ、面白かったね」
「うん。思っていたよりもずっと楽しかったよ」
「そうだねえ。あ、でも、そういえば野球のグラブは無かったね」
「そういえばそうだ。グラブはやっぱり別なんだね」
そんな事を言いながら喫茶店への帰り道をてくてくと歩いていると、赤い手袋が落ちていたあたりまで戻ってきた。残念ながら、そこにはまだ手袋が落ちたままだ。ムギさんと僕は顔を見合わせて頷いた。
「どうやら、落とし主は探しに来なかったみたいだね。近くの交番に届けておこう」
僕がその手袋を拾おうとすると、手袋がぴくっと動いた。びっくりして手をひっこめると、その手袋はもぞもぞと動き始めた。すると、
「にゃあ」
と、どこからともなく猫の鳴き声がした。僕は思わずムギさんを見たのだけれども、ムギさんがこんな猫っぽい声を出すはずがない。
「にゃあ」
再び声がした。声のする方をみると、そこにはいつの間にか、先ほどの手袋をすっぽりと頭にかぶった一匹の仔猫がいた。その仔猫は赤味のかかった明るいキジトラ模様で、赤い手袋をまるでニット帽のように被っていた。
「やあ、こんばんは。君はどこの猫なんだい? ひょっとして捨て猫かな?」
「にゃあ」
仔猫がなにやら猫語で返事をしているようだが、僕にはよくわからない。すると、ムギさんが通訳をしてくれた。
「ふんふん。この手袋の持ち主がご主人様だそうだよ。なんでもこれからご主人の所まで歩いて帰るんだって」
仔猫はこくこくと頷いている。
「そうなんだ。どうだろうかムギさん。まだ時間もあるし、僕らも一緒に行ってみないかい? 暗い夜道に仔猫1匹というのは、ちょっと危ないよ」
「君が行くなら僕は構わないよ。テブクロもそれでいいかい?」
「にゃあ」
猫のテブクロはひとつ頷くと、スタスタと歩き出した。ムギさんと僕もその後を付いていく。
「ねえムギさん、ムギさんが行きがけに言っていた、猫のテブクロというのは彼の事かい?」
「うん。そうだよ。実はこの国の手袋は、満月の光を浴びると、猫が生えてくる事があるんだ」
「猫が手袋から?」
「うん。テブクロもそうだと思うよ」
「にゃあ」
先頭を歩いていたテブクロが振り返って頷く。どうやらその通りらしい。
するとその時、突然テブクロが全身の毛をぶわっと逆立てて、飛びかかってきた。
「うわっ!!」
僕はびっくりして尻餅を着く。すると、その頭上をバサバサと音を立てて大きな黒い陰が掠めた。
「カラスだ! 怪我はないかい?」
ムギさんとテブクロが心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「僕は大丈夫。ありがとうテブクロ。助かったよ。でも、それより君の手袋が……」
テブクロの被っていた手袋は、カラスに持ち去られてしまっていた。光っている物に目が無いカラスが、あのきらきらと光るぼんぼんに目を付けたのだろう。
「くそっ! カラスめ! ムギさん、テブクロ、手袋を取り返しに行こう!」
「にゃあ!」
僕のことばにテブクロは力強く頷いたけれども、ムギさんは心配げに言った。
「ちょっと2人とも落ち着いて。手袋を取り返したいのはわかるけど、あのカラスは相当な大きさだったよ。それに、巣に持ち帰ったとすれば、他のカラスがいる可能性も高い。ぼく達だけでは返り討ちにあってしまうかもしれないよ」
僕は先ほどのカラスを思い返してみた。確かにとても大きかった。あんなのがもし2羽いたら相当に危ないだろう。飛ばれた上に堅いくちばしで突っつかれたり、かぎ爪でひっかかれたりしたら酷い怪我をしてしまう事もありえる。
テブクロの方を見ると、口をぎゅっと結んで我慢しているけれども、耳は横にぺたんと折れて小刻みに震えている。それでも僕と目が合うと、ぐっと胸を逸らしてカラスの飛んでいった方を見上げた。
「にゃあ!」
「何々、それでもテブクロは行くってさ。ぼく達は危ないから来なくてもいいと言っているよ」
「テブクロ、そう言われちゃったら僕たちも行くさ。たぶん行っても駄目かもしれないけれども、行かないのはきっともっと駄目だろうしね」
僕がそう宣言すると、ムギさんはあきれたように尻尾を振った。
「まったく君って奴は。じゃあ、やるだけやってみようか」
そして僕たちはカラスの巣へと行く事になった。
僕たちは木の陰からそっとカラスの巣のある岩場を覗いていた。間の悪い事に、3羽の大きなカラスがカーカーと巣の中に溜め込んだおもちゃを突っついて遊んでいる。きっとあの中に手袋もあるのだろう。
「3羽か……」
「3羽だねえ」
「にゃあ……」
どうしようかと迷っていると、ムギさんがひとつの作戦を提案した。
「流石にまともに追い払うのは無理そうだね。よし、こうしよう。まず君がカラスの後ろの方に石を投げて音を立ててよ。そしてそっちに気を逸らした隙に飛び込んで手袋を取り返そう。いいね? 取り返すだけでいいんだからね」
テブクロと僕は頷いた。僕は、手ごろな石を拾うと、肩をぐるぐると回した。巣のある岩場までの距離はそこそこあったけれども、野球でボールを投げる要領で行けば届くだろう。たぶん大丈夫だ。
「よし、じゃあ行くよ!」
狙いを定め、木の陰から石を投げる。緊張していたせいか石は思ったようには飛ばず、カラスの斜め前に落ちてゴツンと派手な音を立てた。騒いでいたカラスたちが一瞬でそちらを向く。僕はそのうちの1羽と目が合ってしまった。
「それっ!」
もう後には引けない。僕たち3人は一斉にカラスの巣へと突っ込んだ。不意をつかれてびっくりしていた様子のカラスだったけれども、僕たちを見ると小ばかにしたように「カー」と一声鳴いて飛びあがった。
「いたたたた」
僕たちはカラスに散々突かれながらも巣へと進む。ムギさんはカラスの攻撃をうまくかわして、ひっかいているようだけれども、体の小さいテブクロは集中的に狙われて、突っつかれたり、持ち上げられそうになっていた。あわててテブクロからカラスを引きはがし、巣へと向かおうとするのだけれども、カラスたちの攻撃が激しくて前へ進めない。
「2人とも!! 大丈夫かい!? ここはいったん引こう!!」
ムギさんがカラスをひっかきながら振り返る。僕はテブクロを抱えたまま頷こうとした時、突然列車の
そうだ! 僕は咄嗟にスマートフォンを取り出すと、マスターからの着信を無視してカメラに切り替え、カラスたちに向けてシャッターを切った。スマートフォンからはフラッシュが焚かれ、その光をまともに見たカラスたちは、「カァ」と情けない声を出してたじろいだ。チャンスだ!!
「ムギさん! 今の内だ!」
僕がカラスに向けて連続でシャッターを切っていると、ムギさんは風のように駆けて巣の中から手袋を咥えて戻ってきた。僕達は目を合わせると軽く頷き、最後のシャッターを切って、いっさんに元来た道へと逃げ出した。
「なんとか取り返せたね」
「うん。危なかったね」
「にゃあ……」
テブクロの頭には、赤い手袋がすっぽりと被さっている。だが、カラスの攻撃をかなり受けてしまったのか元気が無い。僕は歩くのも辛そうなテブクロを抱きかかえると、テブクロの案内でご主人の所へと向かった。
「ねえテブクロ、本当にここなのかい?」
テブクロに案内された場所は、家などまったく見当たらない大きな公園だった。テブクロは僕の腕から降りると、よたよたとおぼつかない足取りで公園の隅へと歩いて行く。そこには段ボールとビニールシートで作った小さな小屋があった。
「にゃあ! にゃあ!」
テブクロが何回かその小屋の前で鳴くと、中からひとりの女の人が顔を覗かせた。テブクロのキジトラ模様よりも赤い髪をベリーショートにカットしたその女性は、気の抜けたような顔でドーナツを口に咥えていたが、テブクロを見てびっくりしていた。
「ええっ? あなたは……その手袋はまさか!? どうしてここに?」
女の人が外に出てきた。その左腕は怪我をしているのか、包帯でぐるぐる巻きにされ、右手にはテブクロが被っているのとおそろいの手袋をしていた。テブクロは今にも倒れそうな体で必死に踏ん張り、ぐっと胸を張ると、ひときわ大きな声でまっすぐ彼女を見つめて鳴いた。
「にゃあおおん!!」
月夜にテブクロの声が響き渡った。女の人はしばらくテブクロをじっと見つめ、抱き上げると頬ずりをした。僕たちはその姿を少し離れたところから見ていたのだけれども、なんだか邪魔するのも悪いと思ったので、そっと2人に手を振って喫茶店への道を急いだ。
「テブクロ、ご主人の所に帰れてよかったねえ」
「そうだね。実を言うと、この国の人は、心残りやみれんがあると、それを手袋に詰めて道端に捨てるっていう習慣があるんだよ」
「へえ。じゃあテブクロのご主人も?」
「たぶんね。そういう手袋からは、月の光を浴びると、ごくまれに猫が生えてくるんだ。そして、うろうろ迷いながらご主人を探すそうだよ。見つからない場合や、ご主人が新しい手袋を買ってしまっている事のほうが多いんだけどね」
「そうなんだ。それでムギさんは拾うのを待つように言ったんだね」
「うん。それに片手だけだったしね。両手ならまだしも片手って事は、迷って迷って迷った末に、それでも片方しか捨てられなかったって事だからね」
「難しいねえ」
「難しいよ」
「テブクロはあの時ご主人になんて言ってたの?」
僕がそう尋ねると、ムギさんはしばらく黙って尻尾をくるくるさせていたけど、やがて首を傾げながらこう言った。
「さあ……僕にもわからなかったよ。きっと、ご主人様にだけ伝わったんじゃないのかな?」
「そっかあ」
長い付き合いの僕には、それが嘘だとわかったのだけれども、不思議と悪い気分はしなかった。
そして僕たちは喫茶店に着いた。マスターにはスマートフォンに出なかった事を怒られたけれども、僕たちのボロボロの服を見てテブクロの話を聞くと、大笑いして頭をクシャクシャに撫でてくれた。そしてツヅキと一緒に僕の撮ったカラスの写真を見るとまた笑った。なんでも記念に1枚残すそうだ。
そしてしばらく経ったある日、僕たちは喫茶店で手袋の国出身のイラストレーター、「リリィ」の噂を聞いた。隻腕で赤毛のショートカットのそのイラストレーターは、大怪我を転機に作風を変え、とても評判になっているそうだ。
その傍らには、「リリィの左腕」と呼ばれる、きらきらと光るぼんぼん付きの手袋を被ったキジトラの猫が常に控えているそうだ。そのコンビは、「タイガー&リリィ」という愛称で呼ばれ、大活躍しているらしい。
そんな話を聞いた日の帰り道、ムギさんと僕はカリュウ川沿いの道路の真ん中に、片方だけ手袋が落ちているのを見つけた。僕とムギさんは顔を見合わせると、その手袋が車に踏まれないように道の端の方にそっと寄せた。そして、2人並んで部屋へと帰った。
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