ムギさんとマグロのツナサン
色づいたかえでの葉が、はらはらと落ち始めたころの夜。ムギさんと僕が、ツナサンドを食べながら本を読んでいると、突然黒い大きな影がテーブルを覆った。
なんだろうと思って目を上げると、そこには隻眼のグンカンドリ、ネルソンが立っていた。ネルソンは真っ黒な巨躯に比べると、アンバランスなほど小さいコーヒーカップを持ったまま立ち止まって、眼帯をしていない方の目で、じっと僕達のテーブルに乗っているツナサンドを見つめていた。視線の先にある白い皿の上には、耳を綺麗に切り落とした食パンに、マヨネーズたっぷりのツナと、しゃきしゃきのタマネギがこぼれ落ちそうなくらいに挟まれている。その脇には、キッチン担当のツヅキお手製のポテトサラダまで盛られている。
「やあ、ネルソン。こんばんは。そんなにツナサンドを見つめてどうしたの? よかったら一緒に食べるかい?」
僕が声をかけると、ネルソンは、ハッと我に返ったようだった。照れ隠しなのか赤い喉をひとつ膨らませると、僕の向かいの席に腰かけた。
「ボウズ、なんだかすまねえな。ついついマグロに見とれちまってな」
「マグロって、ツナサンドの事だよね? ネルソンはマグロが好きなんだね」
「ああ、困った事にな。ツナサンドも好きだし、寿司や刺身やカルパッチョも凄く旨いからな。それに食うだけじゃなくて、あの泳いでる時の、銀色のロケットみたいな姿も大好きだぜ。ボウズはどうだ?」
「僕も好きだよ。もちろんムギさんもだよね」
ムギさんは、ついっと片眉だけを上げ、"何故猫にマグロが好きかどうかを尋ねるのか意味が分からない"とでも言うようなおすまし顔でゆっくり頷いた。
「そうかそうか。ボウズもムギさんもマグロが好きか。……ところでボウズはマグロについてどれくらい知ってるんだ?」
「マグロについて?」
ムギさんと僕は顔を見合わせて少し考えてみた。
「確か、1日中泳いでいないと死んでしまうんだよね」
「うん。魚の国では、24時間休みなく泳がせるスタイルが、『
「そういえばそうだったね。あと、美味しすぎて乱獲されて数が少なくなっているのも問題にされているみたいだよね」
ムギさんと僕が思いつくままにマグロについて知っていることを上げていくと、ネルソンは、腕組みをしてうんうん頷いていた。そして、ひとしきり聞き終わると、こう言った。
「確かにそうだ。良く知ってるな。それじゃあ2人とも、マグロが、元々は鳥だったってのは知ってるか?」
「えっ! 鳥だったの!」
「ああ、これは俺がひな鳥だったころに、ひい爺さんから聞いた話だけどな。マグロってのは元々、ツナサン=リヴィングストンという、1羽のカモメだったそうだ。ツナサンは真っ直ぐな性分で、それでいて大層臆病なカモメでな。暗い場所を、とてもとても怖がっていた。まあ、鳥ってもんはフクロウでもなきゃ夜はそんなに得意じゃねえ連中ばかりだが、ツナサンはそういうレベルでなく、ただただ夜が怖かったそうだ。そんなツナサンがある日、うちのひい爺さんの所に来て、こう聞いてきたそうだ。
『ご近所最速のグンカンドリの兄貴、どうか僕に、あなたのように速く飛ぶ方法を教えて下さい』ってな。
当時、ウチのひい爺さんは嫁さん探しに夢中でな。喉を膨らませるのに忙しかったから、めんどくさがって相手にしなかったそうだ。でも、ツナサンは毎日毎日訪ねて来ては頭を下げる。とうとうひい爺さんも折れて、こう尋ねたそうだ。
『わかったよツナ坊、でも、お前さんはなんで速く飛びたいんだ?』
するとツナサンは、
『暗い所が怖いんです。だから、速く飛べるようになって夜から逃げたいんです』
と、答えたそうだ」
そこまで聞いて、僕はびっくりして声を上げた。
「夜から逃げるだって? それって、お日様が沈む前に、一緒の方向に飛んで行って追いかけるって事? だとしたら相当なスピードで飛ばなくちゃいけないんじゃないの?」
「そうだね、それはもう大変なことだよ。この喫茶店でもそんなスピード出ないんじゃないのかな。それに、一度追いかけだしたら止まれないじゃないの」
ムギさんも、尻尾でパタパタ椅子を叩きながらそう言った。ネルソンは、僕たち2人の言う事に、最もだと言うように頷いて続ける。
「ああ、そうさ。詳しい数字は知らねえが、さすがのグンカンドリでもそんなスピードでは飛べねえよ。ひい爺さんもツナサンにそういったんだけどな、どうしてもって食い下がるんだから仕方ない。せめて今よりは早く飛べるように、飛び方のコツを教えてやったそうだ。喜んだツナサンは夢中になって練習をして、カモメとしては異例の速度で飛べるようにはなったんだ。
でもな、いくら速いって言ってもツナサンは
それでもツナサンは飛ぶ練習をやめないで、来る日も来る日もいろいろな飛び方を練習していたそうだ。それこそ、餌を取るのも忘れてな。
あまりに飛ぶことに夢中になりすぎていたツナサンは、だんだん仲間のカモメからも、変わり者のめんどくさいカモメだと見られるようになって、距離を置かれるようになっちまったそうだ。そしてある日、カモメの長老から呼び出しを喰らっちまったのさ。
『ツナサン、お前はカモメの本分を忘れて、飛ぶことばかりに熱中している。もっと協調性をもって周りに合わせるようになさい』ってな。
ツナサンは、その場ではびっくりして、ぺこりとお辞儀して帰って来たんだが、やっぱり夜が怖い。それに、飛ぶこと自体に夢中になっていたんだろうなあ、結局は速く飛ぶ練習を続ける毎日に逆戻りしてしまったそうだ。
それが長老たちの怒りを買っちまってな。ツナサンは、カモメの群れから追放され、翼も奪われて海へと落とされてしまったんだ。海に落とされたツナサンは、カモメのままではいられずに、魚になったってわけさ」
「そうだったんだ。それが
「ああ、そうだ。ちょいとお恥ずかしい話になるがな、俺たちの鳥社会は割と視野が狭いんだよな。普段上から全体を見渡してるはずなのに、自分たちの事はあまり
だから、マグロ以外にも、追放されて魚になった鳥も結構いるぜ。分かりやすいのはトビウオ。あいつらは、まだ空に未練があるんだろうな。今でもぴょんぴょんやってやがる。
それに、ヒラメやカレイもそうだ。あいつらは、空を思い出して見上げてばかりいたから、体は平べったくなって、目はいつでも空が見えるように上の方に移動しちまってるだろ?」
「それも知らなかったよ! じゃあツナサンもやっぱり空に戻りたがったの?」
ネルソンは頭を掻くと、困り顔をして腕を組んだ。
「いや、そこがツナサンの困ったところなんだ。他の、元・鳥だった魚達は、空の事ばかり考えていたみたいだが、ツナサンは違った。起きてしまったことは仕方ない、と思ったのかな。それとも、まだ夜が怖かったのかな。いや、他の理由かもしれねえけど、そんな事はもう綺麗さっぱり忘れてしまったのさ。
そこでツナサンが、どうしたのかというとな、空を速く飛べないのはもう仕方ないから、海を速く泳げばいいか、という結論に達したんだ。
だけど今度は海の中。しかも、ツナサンは元々は鳥。いくらカモメは泳ぎも達者だったからといって、堕ちたてほやほやのただの魚だ。魚としての泳ぎ方も手探りなのにスピードが出るわけねえんだよ。
けどな、それでも、ツナサンは、毎日毎日速く泳ぐ練習をやめなかったそうだ。そしたらよ、そのうち体はロケットみたいな流線型に、うろこは、固く滑らかに、エラの機能も、スピードと持久力の為に、泳ぎ続ける事前提で呼吸を行うように変化していったそうだ。
ツナサンののめり込みようは凄まじいものがあったそうだ。なんせ、鍛えられる部分を鍛えるだけじゃなく、無駄だと思う部分を削ぎ落としていったくらいだからな。餌を取ったり眠ったりといった自分の生活にとって必要な仕組みでも、それが速さの妨げになるんだったらどんどん切り捨てていっちまったのさ。その甲斐もあって、魚の中でも、なかなかの速度で泳げるまでになりやがった。つまりはまあ、今のマグロみたいになったってわけさ」
ムギさんが、感心したような、呆れたようなため息をついた。
「なんだかちょっと凄いね」
「うん。のめり込んでるね」
「ああ、そうなんだ。ひい爺さんも言ってたぜ。『あいつは夢中になりすぎた』ってな。だいたいよ、速くなったって言ったって、まだまだ夜には到底追いつけない速さだ。それによ、例え夜から逃げられたとして、それが何になる? 何にもならねえもんな。怖けりゃさっさと布団に入って目をつむっちまったほうが、マシってもんさ。
なんなら、チョウチンアンコウやホタルイカみたいに明かりを点けりゃ済む話だ。でも、ツナサンはそれを嫌った。自分の信じる事にこだわってこだわって、こだわりぬいたんだ。そして、気が付いた時には、もう後戻りできないくらいに、やりすぎちまってたんだ」
ムギさんと僕は、ネルソンの言葉に頷いた。
「ツナサンってば、仕方ないんだねえ」
「ああ。まったくだ。ツナサンって奴は、仕方ねえんだよ」
ネルソンは腕を組んだまま、ひとつ頷くと、のど袋を膨らませてため息をついた。
「でもな、ひい爺さんはこうも言ってたんだ。
『仕方のない奴ってのは、困った事に、すげえ眩しくて美しいんだ。そして本当に困った事に、すげえ美味しいんだ』
ってな」
僕たち三人は、無言で残りのツナサンドを分けて口に入れた。目の前に、流線型のフォルムを眩しく光らせ、この瞬間にも、まっすぐまっすぐ前へ前へと泳いでいるツナサンの姿が見えたような気がした。
ツナサンドには、マスタードもピクルスも入っていなかった。だけれども、その日の僕には、なぜかちょっとだけ鼻につんと来た。そして困った事に、本当に本当に美味しかった。
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