ムギさんと本
その喫茶店には、大きな木製の本棚がひとつ据え付けてあった。あみだくじのように高さの区切られた棚の中には、雑多なジャンルの本が並んでいる。ムギさんと僕が本を眺めていると、カウンターからマスターが声をかけてきた。
「やあ、こんばんは。コーヒーを飲む前に好きな本を持って行くといいよ」
振り返って見てみると、白いシャツに黒いパンツ、濃い茶のカフェエプロンに身を包んで、黒縁眼鏡といったいでたちのマスターが、カウンターに肘をつき、こちらを見ていた。にこにことほほ笑んでいる眼鏡の奥からは、少し皺のある人懐っこそうな目が覗いていた。
「こんばんは。ずいぶんたくさんの本がおいてあるんだね」
「ああ、うちはこれでも一応ブック・カフェだからね。買ってきた本からお客さんが持ち込んだ本まで、幅広く取り揃えているつもりだよ。それに、コーヒーと本というのは、案外相性がいいものさ。コーヒーを飲んでいる間の時間でも、次の街に着くまでの間の時間でも、どちらでも楽しめるはずだよ」
マスターは眼鏡をくいっと上げて、自慢げに胸を逸らした。するとそのとき、1段1段と棚を昇り降りしながら本をちょちょっていたムギさんが、振り返って話しかけた。
「それにしても、あいかわらず飛び飛びの巻数の本が多いね」
「やあムギさん久しぶり。まあ、そこは勘弁してくれよ。うちのような店の本の仕入れというのは、なかなか大変なのは知っているだろう? それに、そもそも喫茶店の本というのは、飛び飛びで全巻揃っていないものなのさ」
「それもそうだね」
その後もムギさんとマスターは何事かを話していた。僕はと言えば、ムギさんが僕以外の人と話すのを初めて見たことで、妙にわくわくした気分で2人を眺めていた。
ひと通りの挨拶が済むと、ムギさんと僕は1冊の本を取り出して、奥のテーブル席へと座った。すると、マスターがコーヒーを運んできた。なんでも、ムギさんのおごりらしい。ムギさんと僕は、コーヒーが少し冷めるのを待ちながら、ぱらぱらと本をめくった。
「ねえムギさん、僕は旅に出るというのに、座って本を読んでいていいんだろうか。これじゃあ部屋の中にいるのと変わらないんじゃないんだろうか」
「いいんじゃないかな。これは練習だし」
「練習かあ」
「うん。練習練習。それに、本を読むというのは――」
コーヒーが冷めてきたのか、ムギさんはそこまで言うと少しだけカップに口を付けた。しかしまだ熱かったらしく、ぶるぶると小刻みに顔を振ってからこう続けた。
「本を読むというのは、君が君の中を旅するという事だからね。君の知らない君を見つけて、そこをきょろきょろ見て回ればいいさ」
「僕の中を旅するのかあ。案外早く見終わってしまいそうだけれども」
「見終えてしまったならば、違う場所へと出かければいいさ。それこそ、この店も連れて行ってくれるしね。だけど言っておくけどね、君。君の中全部を旅するというのは、なかなかのものだよ」
「そんなものかなあ」
「そんなものさ。油断すると迷子になるかもしれないくらいさ」
僕は迷子になった時の事を考えてみた。見た事があるような無いような場所なのにどこだかわからない。それだけで不安すぎてちょっと涙目になった。
ぐるぐると同じ場所を回っているうちに、バターにもなれずに倒れてしまう僕が思い浮かぶ。と、同時に、同じように倒れている人たちの顔を、ひとりひとり覗き込んで確かめて回っているムギさんの姿も思い浮かんだ。
僕は少し安心した。そして、目の前でコーヒーをすすっているムギさんに向かってこう言った。
「もしそうなったら、よろしく頼むよ」
「まったく君って奴は」
ムギさんは角砂糖を爪先で転がしながら、尻尾をゆらゆらとSの字に振った。
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