ムギさんと喫茶店

 その晩、僕は突然思い立った。

「ムギさん、僕は旅に出ようと思うんだ」

「どうしたんだい急に?」

「ほら、うちには男が僕だけでしょ? だから僕、お父さんの代わりに強くなって皆を守れるようになりたいんだ。そのためには旅に出ていろいろな事を知らなくては」

 ムギさんは尻尾で床をパタリと叩いた。

「皆は君が守らないといけないほど弱くないと思うんだけどまあいいや。で、いつ旅に出るんだい?」

「それが問題なんだ。普段は学校があるし、旅に出るためのお小遣いだってあまり無い。男と猫の二人旅なのに、お母さんにお金を貰うのはちょっと格好悪いし、先生に怒られるのも嫌だ。なかなか難しいよ」

「ぼくも行くことは決まっているんだ」

「行くでしょ?」

「行くけど」


 僕が行先や問題をあれこれと考えていると、ムギさんがすとん、と窓べりへとジャンプした。何事かを確認するような仕草で夜空を見上げたムギさんは、振り返ってこう言った。

「では、手始めに夜の散歩から始めるというのはどうだろう」

「夜の散歩? それって今からかい? 行ってもいいけど、玄関の音でお母さんにばれてしまわないかな」

「なに、大丈夫。幸いこのの屋根裏部屋には、屋根へと抜ける窓があるじゃないか。屋根伝いにそのまま隣の高台公園の方までいけば、そこから外へと抜け出せるさ。手すりの所なら君でも届くだろう?」

「確かにそれならば抜け出せそうだね。でも、夜に黙って抜け出すのは、ちょっと裏切ってしまう事になるんじゃないだろうか」

 僕が悩んでいると、ムギさんはさっさと屋根へと上がっていってしまった。僕も仕方なく慌てて後を追う。


「ほらご覧。今日はきれいな満月だ。もしお母さんに見つかったとしても、満月だから仕方ないという事で分かってくれるよ」

「なるほど。満月だものね。でも、見つからないようにして行こうね」

 ムギさんと僕は屋根の北端まで忍び足で歩いて行くと、向かいの高台公園の手すりへとジャンプした。下を見ると結構な高さで少しぞっとしたけれども、落ち着いて飛べばなんてことない距離だった。


「夜に散歩するなんて初めてだ。ドキドキするね」

「割といいものだよ。じゃあ付いてきて。ちょっと見せたい物があるんだ。たぶん君も気に入ってくれると思うよ」

 ムギさんがスタスタと歩いていくので、僕は置いて行かれないように付いて行く。公園の広場まで行くと、ムギさんが足を止めて振り返った。

「さあ、ここだよ」

「ここ? いつもと何も変わりない広場のようだけれども」

「もうすぐ来るよ。ほら」

 ムギさんが月の方を見上げたので、僕もそちらを向いた。


 僕達の視線の先に、月の明かりとは別に煌々と光る明かりが浮かんできた。光はだんだんと近づいてくる。目を凝らしてよく見ると、それは機関車に引かれた喫茶店だった。喫茶店は、ゆっくりゆっくりと降りてくると僕らの目の前で車輪を軋ませて停車する。

 「カフェ」と呼ぶよりは「喫茶店」という方がしっくりとくる建物のドアには小さな看板が据え付けられている。そこには「カフェ・ド・シャノワール黒猫の喫茶店」と記されていた。


は夜を旅する喫茶店。夜になると街のどこかへ降りてきて、乗り込めばどこかへと飛んでいく。そして朝になる前にはぐるっと回って元の場所へと戻ってくるのさ。君が旅をしたいのならば、ちょうどいいんじゃないのかな」

「それは凄いね。行先はわからないの?」

「どこに行くかは喫茶店のしだいさ。いろいろな物を見たいのならば、かえってその方が都合がいいんじゃないのかな」

「そうだね。でも僕、乗車賃も飲み物代も少ししか持っていないよ」

「それは安心して。ぼくはこの店のマスターとはなのさ。それよりも君、本当にこれに乗る気はあるのかい?」

 ムギさんは珍しく猫背を伸ばして僕を見つめる。


「喫茶店というのは、列車と違っていつの間にか乗っているようなものではないからね。自分で決めて乗り込む物さ。一度乗って降りた時、君はもう乗る前の君には戻れないかもしれない。それでもいいかい?」

「もちろんさ。だって僕は男だからね。それに……」

「それに?」

「朝までには戻ってくるのでしょ? だったら安心さ。あんまり遅いと困るのだけれどもね」

「まったく君って奴は。じゃあ行こうか」


 ムギさんは楽しげに尻尾を振ると、喫茶店のドアに向かって歩き出した。

 こうしてムギさんと僕は、月の綺麗な夜には、喫茶店でちょっとした旅に出る事になった。もし君が月夜を見上げた時に流れ星を見つけたのならば、少し目を凝らして見てみて欲しい。ひょっとしたらそれは、ムギさんと僕の乗っている黒猫の喫茶店なのかもしれない。

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