第7話 雨の日の出来事

タクシーを降りると小雨が降っていた。

 扉を開け、店に足を踏み入れた瞬間、タクシードライバーからいきなり聞かれた。

 「外は雨が降っていましたか」

 彼とは長崎で知り合ったが、今はタクシードライバーを辞め、小さな料理店の厨房で職を得ていた。

 うなずくと、彼は彼女は今夜も迷っているに違いないとため息を吐いて言った。

 「何かあったのですか」

 始めて彼は鹿児島から帰る途中の長六橋で出会った出来事ことを語り始めた。

 長六橋とは慶長六年に加藤清正が熊本城を造る際に、南から城下に通ずる白川を架けた唯一の橋である。

 もちろん今では長六橋を挟み白川の上下流に多くの橋が架っているが、鹿児島から福岡への伸びる国道三号線の要所として重要性は変わらない。

 「さびしい歌でした。最初は車のラジオの歌声かと思いましたが、ガラス窓のすき間から聞こえてくるのです。気になるので橋を渡り終えると、車を止め傘の柄もしなるような大雨の中を歩き橋を引き返した。歌声は雨しずくの音で聞き取れません。娘の歌声であることには間違いない。橋の上の四体の裸婦の像が声の主ではないかと思いましたが違います。橋を架ける時に人身御供に供えられた娘の声ではないかとも疑ったが、いずれも違うようです。雨足はますます激しくなり、かすかに聞こえていた声もかき消され、結局、声の主を特定できませんでした」

 タクシードライバーの話の概要であったが、最後に残念そうに言い添えた。

 「今夜は、あの夜のように雨足も強くない。事情を聞き、彼女の魂を慰めることもできるかも知れない」

  「怖い話ね」と女将が身震いした。

 「あのあたりは、江戸時代のころに人切り場があったのよ」

 女将の言葉に全員が不気味にこわばった。

 蚊取り和尚も目を覚まし、聞き耳を立てていた。彼はタクシードライバーの師匠であると自称していた。最近では私も彼の弟子の一人にされている。

 「和尚さん、骨を折ってあげたら」と厨房で働く仲居のオリュウが口をはさむ。

 タクシードライバーが調理に集中できないのは、ともに調理場を守る彼女にとって心細いことである。

 「いや困る。駄目だ。話を聞くと若い娘の霊のようだが、拙僧は苦手だ」と彼は冷たく言い放った。

 彼は奇人である。

 「自分が行きましょう」

 「サンチョ・パンサーでは力不足だろう」

 彼が私を呼ぶ時に使うあだ名である。

 あだ名で呼ぶのをやめろと抵抗をしたが、無駄だと気付いた。

 実は和尚に出会ったころ、彼のことをドン・キホーテのようだと、ひそかに笑っていたが、ある日を境に彼が私のことをサンチョ・パンサーと呼び始めたのである。

 「弟子が困っているのですよ。助けてやろうとは思わないのですか」

 「若い娘の霊などを連れて来いなどと指示をした覚えはない」

 「指示をしたとかしなかったとか、そのような問題ではないはずです」

 私は声を張り上げた。

 突然、和尚の声音が変わった。

 私の声に驚いて腰を抜かしたのかと思った。

 「おいどんは大物だ。だが腹黒いやからは嫌いだ。腹黒い奴をかばう気はない」

  「その言葉はなんですか。弟子のことを腹黒いと言うのですか」と私は怒鳴っていた。

 タクシードライバーが袖を引いた。

「霊が憑依したようです」

 彼はすぐに元に戻った。一瞬の出来事であった。そして言った

 「夏海君に縁のある娘かも知れない。君が適任だろう」

 とにかくタクシーを拾い、長六橋に向かったのである。そして橋の手前で降り、周囲を探った。

 七夕も近い時期であった。空を厚い雲が覆い雨がしとしと降り続く、梅雨の真っ最中である。雨でかすむ河岸の森は闇に黒く沈んでいる。車はヘットライトがまぶしかった。南から橋に渡ろうとする車は、直角のカーブを曲がり、東西に架かる橋を渡り抜け、すぐに北に直角に曲がり走り去って行った。

 近くを走る路面電車がゴトゴトと不連続音を立てた。

 奇妙な世界を見るきっかけになった出来事を思い出していた。

 長崎の眼鏡橋で二人の老婆が幽霊と会話するのをタクシードライバーに誘われるままに見たのが最初である。あの時も路面電車がそばを走り抜ける音を聞いた。

 小流が集まり、せめぎ合いながら、長六橋の下では激しい濁流となり、下流の海へと流れ込んでいる。人間がつくる歴史に似ているのではないかと思いをはせた。

 姿を現してくれと橋の上で念じ続けた。周囲の騒音の中に、かすかな歌声を聞き分けるのは容易なことではない。

 風の音かも知れぬが、かすかに歌声が聞こえてくるような感じがする。五感を研ぎ澄まし、六感を呼び起こした。

 聞こえてくる歌声はかぼそい。

 幻覚かも知れない。

 自信のない不安を押さえながら、声の主を捜そうとした。六感だけが頼りである。

 タクシードライバーが言ったとおり、橋の歩道に立つ四体の裸婦像ではない。橋下の川底から聞こえる声でもない。橋を架ける際に、人身御供に捧げれた娘の声でもないようである。

 歌を繰り返すので歌詞の全体像が、かろうじて理解できた。

 「一かけ、二かけ、三かけて

  四かけ、五かけて 橋かけて

  橋のらんかん 腰をかけ

  はるか向こうを 眺むれば

  十七八の 姉さんが

  花と線香 手にもって

  姉さん 姉さん どこへ行く」

 胸を突く哀しい歌である。

 数え歌のようである。

  「私は 九州 鹿児島の

  西郷隆盛のむすめです

  明治十年 戦役に

  切腹なされた 父上の

  お墓の前で手をあわせ

  なむあみだぶつ

  ジャンケンポン」

 聞いたことのある歌であった。西南の役で隆盛の死後、鹿児島で彼を慕う子供たちがひそかに歌い続けた数え歌であった。

 声の主を捜そうと闇夜に目を凝らすが見当たらない。

 車がヘットライトを照らし、水を跳ね上げ走り去って行く。

 歌声は橋の対岸から聞こえてくる。しかも霞の中から聞こえてくる。

 全神経を集中するが見分けることが出来ない。さらに全神経を集中する。

 風に揺れない霞があるのに気付いたのである。その部分だけ空間がよじれ、かすかな縁取りができているように見える。手すりの上に乗せた白い手が浮かび上がった。

注視すると人の影が細かい雨粒の中に浮かび上がった。彼女は対岸の街並みを鋭い視線で見詰めている。

 短い裾から白い足も暗やみに浮かび上がっている。短く薄いかすりを身に付けている。

 彼女が、この世の者でないことは明らかである。質素な衣服を身に付けている。身分の卑しく貧しい生まれの娘であるに違いない。

 目の前に浮かんだ娘が、あの子守歌の主人公にちがいないと確信した。

 自分の予測に誤りがなければ、彼女は百数十年前に質素な庵で命を授かった娘に違いない。

 和尚の言った、「夏海君に縁のある人かも知れぬ」と言う和尚の言葉が確信を強めた。

 西郷は安政の大獄の難を避けるために、一八五九年(安政六年)に安政の大獄から逃れるために奄美大島に身を隠している。それから三年間を島で過ごしているが、その時に島の娘アイカナとの間に二人の子供を授かっている。

 菊次郎と菊草である。

 西郷にとって最初の子供である。

 私の通った小さな小学校のある隣村で、百数年前に起きた出来事である。通学バスが来るまで古い藁葺きの小さな庵の前で待つように強制された。その庵の庭には大きな石碑も残っている。勝海舟が贈った石碑だったと思う。その空間には濃密に西郷の記憶が残っているように思えた。ほかに誇れる物もなく、彼の存在が心の中で巨大化した。

 あの庵の庭で時間を過ごすように強制したのは大人たちの陰謀だったのではないかと最近では思うようになった。

 私は思いを断ち切るように声を掛けた。

 驚いて彼女は大きく目を見開いた。

 声を掛けた本人を捜そうと周囲を見回した。

 もちろん私と彼女が存在する世界は違う。

 彼女は百数年前の世界に存在した。

 すでに現世には存在しない。魂がさまよっているのである。

 彼女が目にしているのは百数年前の世界の景色なのである。

 互いに姿を確認し合うためには、異なる世界に通路を造るに等しいのである。普通は絶対に接触することなどあり得ないのである。事前にタクシードライバーから話を聞かずに通り掛かっていたなら、彼女の歌声も聞き逃していたかも知れない。

 「どなたですか」

 周囲をはばかるような小声であった。警戒するようなとげとげしさがこもっている。

 答えず黙っていた。彼女が落ち着くのを待とうと考えた。

 しばらくして、「自分の姿が見えるのですか」と彼女はふたたび質問をしてきた。

 次第に落ち着きを取り戻してきた。

 「見えるはずです。心を静めて下さい」

 声だけは聞こえるらしい。

 彼女は沈黙し、私の方を凝視した。

 彼女の視線が私を向いた。

 「見えるようになりました」

 彼女は答えた。

 「同じ立場になることが出来ました」

 私も彼女の姿をはっきりと見ることができるようになった。

 年は十六、十七歳だろう。実在した彼女はまだ長生きをしたはずである。強い思いを抱くころ姿のままで姿を現したようである。

 「あなたは西郷翁の娘さんですね」と聞いた。

 彼女は驚いたが、黙ってうなずいた。

 「あなたの産まれた家の庭で遊んだことがあります。四十年前の、はるか昔のことです。遊びながらあなたの面影を想像しておりました。成仏もできずさまよわねばならないなどとは想像もできないことです。理由を教えて下さい」

 彼女は明治の陸軍軍人であり、西郷隆盛の従兄弟に当たる大山巌の弟と結婚したが、主人の借金で不幸な人生を送り、晩年は京都府知事に就いた兄菊次郎のもとで不遇の内にひっそりと息を引き取ったはずである。

 「自分のことではないのです。父が自分自身をさいなみ続けております。父を安堵させたくと願いながらさまよっております」

 彼女の父とはもちろん西郷隆盛である。

 「西郷翁が自分をさいなみ続け、往生できずにおられるのか」

 娘はうなづいた。

 「父上は理由を言われないのか」

 「父は何も打ち明けてくれません。父が最後にたどった道を行けば原因が解明できるのではないかと思い、来たのです。ところが、あの恐ろしい御城の姿を見たとたんに足がすくみ、橋を渡ることも引き下がることも出来なくなってしまいました。時を過ごすうちに、木々は生い茂り、家が立ち並び、恨めしく思いながらも目印にしていたお城の城壁も先の戦役で焼け残った宇土櫓さえも見えなくなってしまったのです。とうとう道に迷ってしまいました」

 彼女の言葉とおりである。

 河岸の向こう岸には近代的なビルが建ち並び長六橋からは城壁も城は見えない。

 西南の役で熊本城に籠城する政府軍の兵は四千名にすぎなかった。それを攻め落とそうとする西郷軍は約三万人に及んだ。その堅固な城を落としあぐねているうちに、中央から駆け付けた政府軍に田原坂で敗れ、西郷軍は敗走は始めるのである。

 熊本城には包囲の兵だけを残し、中央に急いだ方が「政府に問い質したいことがある」という大義名分を達成できたはずである。

 「宇土やぐらが見えなくなるころまで、桐野利秋様などもそばにおられたのですが消えてしまいましたの」

 桐野利秋と言えば、若いころは人切りで有名な男である。西南戦争の時には実質的に軍を動かしていたと言われている。

 彼の名前を耳にした途端、彼女に近づきがたい違和感を覚えた。

 「優しい方でしたよ」

 桐野も目の前の熊本城に語り尽くせぬ思いを残したにちがいない。

 この城を守る鎮台兵も弱兵で城も落とせると豪語していたが、結局、最後まで落とすことができず、敗走をする結果になった。

 「西郷翁は英雄中の英雄です。今でも彼の偉業に口を差すことを許されません」

 彼が幕末から明治維新と言う血なまぐさい時代を生き抜き、古い国を新しくした中心的人物だったことに異論をはさむ者はおるまい。

 「皆さんは父たちの気持ちを、本当に理解して頂いていたのでしょうか」と娘は指摘した。多くの人々が信奉する大英雄であればこそ、本人の言葉を曲解される恐れも多い。

 彼女の言葉は自分が常識だと信じていたことを見直す機会を与えた。

 明治維新の目的は何だったのであろうか。 明治維新は革命であった。目的があったはずである。

 人々は幸せにするために革命だったのか。

 まだ浅い知識しか持ち合わせていないが、明治維新以降の人々の生活が豊かになったとは思えない。太平洋戦争で敗れるまでの約半世紀を振り返ると、江戸時代に生きた人々の方が平和で豊かな生活を楽しんでいたようにも思える。

 彼らは何を考えて走り抜けたのだろうか。

 私は知るかぎりの知識で西郷の生涯をたどり続けた。

 彼は下級武士の出身であった。

 明治維新の元勲であるが、最後は西南戦争に敗れ、賊軍の首領として城山で自刃している。幕末の重要な時期に彼の名前が姿を現すが、姿が見えない。現実に彼は存在したのかと疑問さえ感じ始めた。彼は歴史の主役で、彼なしで明治維新は語れないはずである。ある時点に達した時に私は彼が実在した人物ではないのではないか疑い始めていた。彼が存在したの証は多くは残っていない。実像を残す写真もない。

 彼は差別に苦しむ苦難の時代に生きた者たちが造り上げた幻の人物だったのではなかろうか。あるいは単なる偶像だったのではないのか。それとも彼に該当する人間が数名いたのではなかろうか。同一人物とは思えないほど彼は、時々で大きく変貌していく。それは、あらゆる人物の英雄的な所業を無造作に西郷と言う人物の所業であると集約したのではないだろうか。

 幕末とは一八五三年(嘉永六年)、ペリーの黒船来航から一九六八年(明治元年)までの十六年間を意味する。

 彼は、その前々の年に二十八才で薩摩藩主に就任したばかりの斉彬に庭方役(にわかたやく)として抜てきされた。すでに動乱を予想しての名君斉彬の処置だった。庭方役と言う仕事は秘書のような役目である。だが単なる受付などを行う秘書ではなかった。主君の手足となり情報を集め、他藩の者や京都の公家と調整をすることもあった。彼は、その時、斉彬の手足となり十三代将軍に一橋慶喜をするため走り回っている。彼らの工作は失敗し、徳川家茂が将軍職を継ぐことになった。一八五六年(安政五年)のことである。その後、彼には多くの悲運が見舞う。

 斉彬の死。そして幕府の追求の手を逃れるための島送り。そして二度目の島送りには明らかに彼を追い詰め亡き者にしようとする斉彬の跡を継いだ藩主忠義の父である久光の意図さえうかがえる。

 ところが、その十年後には彼は大逆転を演じ、日本を変えてしまう。かって十四代将軍にへと斉彬の下で奔走した慶喜さえ敵に回し、幕府を倒すのである。

 西郷は知恵をふり絞り、謀略を駆使した。

 維新後の戊辰戦争を鎮圧すると、西郷は静かな隠棲生活を夢見て、鹿児島に帰る。

 ところが、その四年後には維新の大事業の完成のために上京を強いられる。一八七一年(明治四年)のことである。彼はふたたび廃藩置県の大事業を行うために薩摩藩兵を率いて上京する。それは従来の封建制度の息の根を止める事業である。

 廃藩置県が終わったこの年の末から岩倉具視や大久保利通、長州の桂小五郎の維新の元勲たちは、将来の日本の道を見定めるために外遊に出かけるのである。彼らが帰る明治六年までの間、西郷は留守政府の実質的な首班を勤めている。

 この留守政府を支えたのは、佐賀藩出身の江藤新平や大隈重信、副島種臣、大木たちであり、土佐出身の板垣退助たちである。

 明治六年、外遊組が帰国すると有名な征韓論争が始まる。

 西郷は征韓論に破れ、ふたたび鹿児島に帰るのである。それから西南戦争へ走る晩年の時期に至るのである。

 一人の人物の人生としては、あまりにも波乱が多すぎる。あるいは複数の人物が存在したのでないか。極言すれば西郷という人物は存在しなかったのではないか。

 西郷隆盛は実在しなかったと言う妄想を抱いている私に菊草が気付いた。

 「父に良い土産話が出来たようです。人々に父のことは早く忘れて下さるように伝えて下さい。父は存在しなかった。周囲の人々がねつ造した偶像だった。新しい時代を造るために必要な偶像を人々は造ったのです」

 と彼女は言った。

 今度は自分が意見をひるがえした。

 「西郷翁が存在しなかったなどとは悲しすぎる」

 私の言葉に彼女の表情が緩んだように見えた。

 「ありがたい言葉です。だが父は七夕の飾りを飾る青い竹ざさに過ぎなかった。貧しい人々は、西郷と言う竹ざさに自分の思いを書き付け父を理想の人物に仕立てた。竹ザサの父より短冊に理想の人物像を書き込み飾った方々の方が偉かった」

 「そのように言えば父上は成仏できますか」

 「分かりません。きっと父はその方を望むでしょう。西南の戦役で犠牲になった名もない多くの人々と同じように無名に戻り、悪意を抱く者たちに利用されるより、忘却の淵に投げ込まれることを父は望むでしょう」

 彼女はそう言い残し、小降りとなった雨の中で、ほのかに差し込み始めた月明かりの中にかき消えた。雨は霧雨に変わった。街灯の明かりの中を無数の霧雨が漂っている。

 私は釈然としない気持ちを抱きながら橋のたもとで立ち尽くしていた。

 七夕も近い。

 うすい雲に月の輪郭がかすかに透けて見えるが、もちろん天の川もほかの星々も薄い雲に阻まれ見えない。

 薄い雲を透き通り、かすかな月明かりが地上を照らした。

 ほのかな月明かりの中に建ち並んでいたビルが姿を消し、古い木造りの長六橋が向こう岸に伸び、一面に広がる田園の中に城壁と宇土やぐらが姿を現したかのように見えた。

 彼女の生きた百数十年前の世界に紛れ込んだようである。

 この菊草嬢との出会いが、今回の物語の序章となった。

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