第2話菊子と鬼、そして錦通り


 八重と菊子が出逢った頃の話に戻る。

 もちろん菊子は京都に来たばかりの頃であり、馴染めない頃である。しかし菊子は新鮮な気分で京都ての毎日を過ごし始め、大山巌の実弟である誠之助との不安定な結婚生活から逃れ、生活も安定し自分のこれまでの人生をも冷静に振り返るとことが出来るようになりつつある頃の話である。

 今から思うと、随分、昔の話に思える頃の話である。


「西陣の町を歩きました。織物機の音を聞き、母との暮らした頃を思い出しました」

 菊子は食卓の片隅で語った。

 菊次郎も妻の久子も驚いた。

 菊子が実母のことを語るのを、初めて聞いたのである。遠い三〇年も昔の話であった。実母が他界してすでに三年は経過している。

 菊次郎も、一度も実母に会うために島に帰ろうとしない菊子の心情を図りかねて、菊子の前では産みの母の話は避けていた。

 食卓に着くなり、菊子の様子がいつもと違うことに菊次郎も気付いていたが、菊次郎と久子は思わず箸を止めていた。食卓の子ども達は異変に気付かないようだった。

 菊子も箸を止めたまま俯いたままであり、表情をうかがい知ることはできない。

 泣いているかと兄の菊次郎はいぶかった。

「菊が奄美大島の母のことを口にするのを初めて聞く」と、一歳上の菊次郎はおどけた。昔は菊草と呼んでいたが、西南戦争で右足を失い看病をしてもらうようになってから菊と呼ぶようになっていた。菊次郎の妻の久子は菊姉さんと呼ぶようになっていた。

 それでも菊子は顔を上げなかった。

 すすり泣いているのである。

 この時、菊次郎は妹の心情を理解したように感じた。

 妻の久子も同じであった。

 奄美大島から十四歳で鹿児島の西郷本家に引き取れた後、わずか一年後に父の隆盛は賊軍の長として城山の露と消えた。

 政府軍が賊軍とする薩摩軍が九月初めに鹿児島に戻り、城山に籠城してから連日、海上からの砲撃で市内で砲煙が上がり、城山や鶴丸城周辺では繰り返されていた。菊子が住む武の家からは城山は離れていたが、戦の様子は手に取るように見えた。菊子には、父の命を奪おうとする戦と言う現実の出来事が理解できていなかった。糸子は、すでに諦めていた。

 隆盛が九月二十二日に自刃することで戦は終わるのであるが、遺族の苦難は戦争後に残された。父に従い従軍した薩摩出身者が多く戦死した。鹿児島の市内の町も官軍の海上からの砲撃で灰燼と帰した。

 大久保利通の片腕として日本の国造りに尽くし、明治十一年に大久保が凶刀に倒れてから明治十四年の政変と言う事件で政府を追われるまで日本の実質的な舵取りを行った大隈が語っている。

「西郷は不思議な人物であった。あれだけ郷土出身者を多く巻き込む戦をして、しかも鹿児島の町を灰燼に帰したにも関わらず、鹿児島人の中で、彼を怨みに思う者はいない」と。

 大隈の目には西郷も鹿児島人が奇妙な存在に映っていたかも知れない。

 ただ大隈が不思議がる鹿児島人と西郷の関係は微妙なバランスの上に成り立っていたのではなかろうか。

 そのバランスを壊さないように努力して、社会を維持していたのである。

 まず西郷家の遺族や、兄弟親戚である。

 全体が怨みが湧き出ないように、戒め続けたのである。

 バランスが崩れてしまえば隆盛の名誉だけでなく家族は、鹿児島に住み続けることさえできなくなる。バランス維持のために身を削った代表は隆盛の妻である糸子である。菊子にとっては十四歳からの育ての親である。菊子は糸子の姿を見て生きてきた。実母のことは忘れようと決心していたのである。隆盛死去後、このバランス維持のためにも糸子は何も変えないと誓った。

 西郷家の家族は奄美大島から引き取った菊次郎と菊子、そして隆盛の間に生まれた長男の寅太郎、次男の午次郎、酉三の七人家族になったのである。

 寅太郎以下の糸子と隆盛の間に出来た子どもたちは幼く頼りにはならなかった。

 十五歳の無口な菊子は頼りにできる存在になった。

 針のムシロに座るような日々に耐えるためには家族の絆を深め乗り越える道はないと信じ切った。

 菊子は賢い娘であった。糸子の気持ちを理解し、無口で目立たない存在になった。 菊次郎は右足切断の傷の治療に専念するしかなかった。

 菊次郎の看護も菊子の役割になった。

 十七歳で大山巌の実弟である誠之助と一緒になったのであるが、西南戦争に従軍し、その後、三年間を監獄で過ごした夫の心は病んでおり、正常な社会生活を送ることができる状況ではなかった。

 菊子の感情に奄美の実母と別れた後の三十年間の苦しい記憶が吹き出たのである。

 菊子は嗚咽を堪えきれず台所に駆け込んだ。

 菊次郎の妻の久子が後を追い、子どもたちは取り乱した母の様子を不安気に見守っていた。

 菊次郎は笑顔で、「よかよか。何の心配することもない」と子ども達を励ました。

 菊次郎が考えたとおりである。

 菊子は西陣織りのハタの音を聞き、島で芭蕉布の織り方を教えてもらった母のことを思い出していたのである。

 菊子は久子に抱きかかえられるようにして食卓に戻って来た。

「隣の部屋で遊んできなさい」と菊次郎は、食事が終わった子ども達を食卓から去らせた。

 すでに菊子も四十歳を越えている。

「菊が奄美の母のことを口にしないことが不思議で仕方がなかった」

「菊姉さんは、アイカナさんに会いたいと思う気持ちを抱くことは糸子さんに対して申し訳けないと言う気持ちもあったのでしょう」と久子が菊子の気持ちを代弁した。

 すでにアイカナは三年ほど前に他界している。

 糸子も鹿児島の家を引き払い、東京で長男の寅太郎と生活していた。

「十四歳で島を去る時に、この世では合わないと覚悟を決めていました。悲しくなることは思い出すまいと思っていました。でも、西陣の町を歩いている間中、母の姿を思い出してしまい。母が薄情な自分を怨んでいるのではないかと思いました」と菊子は嗚咽するのである。

 ある女性との出会いが菊子の心を開かせる大きな力になっていた。

 新島八重と言う会津出身の女性である。

 大山巌の妻の捨て松の紹介もあり、日露戦争が終わり、従軍看護師の仕事も終えて、大陸から京都に帰って来ると、すぐに菊子を訪ねて来たのである。

 菊子と八重は二十歳ほどの年齢差がある。

 菊子は八重に三年前に他界した実母の面影を重ねていたのである。

「母親が娘を怨むことあろうはずがない。母親とはそんなもんだ。菊もそうだろう」と兄の菊次郎は諭した。

 菊次郎の視線は菊子の方ではなく、彼女が連れてきた二人の子どもに向いていた。

 菊子は鼻をすすり上げ嗚咽をして小さく頷いた。

 久子が菊子の背中をさすっていた。

 明治六年の新年を迎えたばかりであるが、菊次郎も懐かしい感傷に浸っている訳にはいかなかった。菊次郎の市長としての公務は多岐に及んだ。日露戦争の終戦とは無関係ではなかった。続々と戦場から兵士が帰って来るのである。戦場の火薬の臭いを嫌でも感じる日々であった。

 翌朝、菊子はいつものとおり買物を出掛けた帰り道に同志社大学校の前を通った。八重に会えるのではないかと微かな期待を抱いていた。玄関を潜り部屋に上がり込み話すことはない。彼女が庭先にいれば立ち話もできる。

 先述したとおり、大山巌の妻である捨て松の紹介である。菊次郎から義足の装具の生活などを具体的に聞き、八重からは戦場で心理的な傷を負った男性の話を、それとなく仕入れていた。もちろん戦争で足や手を失った者の社会復帰を考えてのことである。八重は看護師として傷病兵に間近に接しており、心を痛めていたのである。助言できる体制構築を急ぐべきだと考えていたのである。

 日露戦争の十年前に日清戦争があったが、日本人の記憶に鮮明に残り、傷跡を残しいるのは三十年前の西南戦争だった。

 国内戦争であった。しかも白兵戦の熾烈な戦いであったことに理由がある。

 日露戦争には、その後の日本の戦争とは大きく異なる一面があった。犠牲になったのは平民の子どもたちだけではなく、むしろ皇室の藩屏とされる華族や、その子弟に多くの犠牲者を出した。

 八重も従軍看護士としての後始末や大学校運営の仕事もあり、簡単に時間が取れる立場ではない。菊子は偶然に八重と出会えるのではないかと期待していた。

 八重に強く惹かれていた。実母の姿を重ねていたことは先述したが、これまで出会ったことのないタイプの女性であった。まず男女の差だけでなく、貧富や社会的地位による差別も認めていない。男性でも彼女のような視点を持つ者は珍しかった。これは八重が従軍看護師として幾度となく戦場の修羅場を潜り抜け、人間の本性を見抜いていた結果であろう。負傷した兵士が味わう苦痛には、貧富の差も社会的な地位の差も一切にないことを八重は客観的に観察し続けていたのである。

 それでも菊子が歩んできた人生に比べて比較にならないほど、前向きに生きていた。もちろん菊子のような内きな人生を歩んできた女性を攻撃をすることはない。菊子は数度、会っただけで好きになっていた。彼女との世間話に最大の歓びを感じていた。

自分が望む理想的な生き方を貫いている女

 家の庭から少し甲高い声がした。

 八重の声である。

「菊子さん、お入りなさい」という明るい声である。

「東京に行っていたのよ。戦争で手足を失った者の支援で忙しかった。菊次郎さんの義足体験談の体験談や、あなたから聞いた介抱体験談も役立ちました。今後、国内でも義足や義手が造ることを急がねばいけません」

 八重は大勢の患者や患者や家族に二人の体験談を話したにちがいない。西南戦争での戦場体験と監獄での仲間外れで人格を歪められた誠之助の話もしたかも知れない。

 彼女の愉快な話しぶりと、西郷隆盛の長男と長女が絡む話であるということだけで聴衆は沸き立ったに違いない。

 菊子には不愉快ではない。

 菊子は隆盛の正妻の糸子から、西郷家の者は隆盛は公的な存在であり、一族の財産ではないと学んでいた。そして自分も、父と同じ公共の財産になる日がくることを覚悟していた。

 西南戦争でも多くの若者を道連れにした隆盛を一家族では取り囲むことは、犠牲者の怨みという負の遺産も受け継ぐことになる。

 久子は「隆盛は皆様のものです」と世間に引き渡すことで世間の怨みを逃れ、一族を守り続けたのである。

 八重は菊子に語り続けた。

「菊子さん、手足を失った兵士には償いや救いの手を差し伸べることができても、死者には救いの手さえ、差し伸べることができない」と八重が語るのを耳にした時に、菊子は両手の甲が暖かくなるのを感じた。

 一度は戦死の通知を受けた町衆の有力者の一人の孫が無事に戦場から帰還することを予言して以来のことである。手の甲に不思議な入れ墨が浮かび上がる予兆であり、不思議な能力が呼び覚まされる予兆でもあることにも菊子はすでに気付いてい。それ以来、人前に出る時には、白い手袋を欠かさなかった。

 菊子の顔を曇った。

 掌を摩った。八重は菊子の動揺に気付き、彼女の心を沈めようと彼女の手を握りしめようとした。八重は菊子が自分の話にショックを受けたのだと思ったのである。

 八重の手が菊子の手に、かすかに触れた。

 瞬間、菊子はとっさに手を自分の背中に隠した。

 もちろん八重にとって不可解な行動である。八重が菊子特殊な能力を持っていることを知らないが、頭のよい女性である。肌で異変を感じる能力を有している。

 八重の手が触れた瞬間、菊子は、八重の瞼の奥に映る戦場で目にした酷い無数の死者の姿が見ていた。無数の死骸が無造作に打ち捨ている。目を背けたくても背けることができない。

 八重は菊子の身体を支え、水を運ばせた。

 八重は看護師であり、医療について初歩的な知識は持ち合わせている。菊子の変調が軽いものでないことは一目瞭然である。初めて重度の傷害を受けた兵士を目にした若い看護師が受けるショックと似ていると思った。八重が思ったとおりの状態に菊子は陥っていた。西南戦争で最後の戦いとなった城山の戦場を糸子と二人で父の亡骸を探し回った恐怖の記憶が蘇り、二重の苦しみとなった。菊子が、まだ十五歳の時である。今で言えば、まだ中学三年生の時のことである。父の亡骸を探し当てることはできなかったが、戦場にうち捨てられた多くの遺骸の姿は彼女の記憶に焼き付けられていた。

 八重は菊子の様子から目を離さなかった。 心臓の動悸も激しくなっている。顔色は真っ青になっていた。

 八重は凡人でない。優れた観察力も持ち合わせている。

 菊子の異常な容態の変化は八重が彼女の手を握った時から現れたことに気付いていた。菊子が落ち着くのを待って、何があったのか聞いた。

 

 菊子は八重の問いに簡単に応えることは出来ない。まだ両手の甲の温もりは消えない。

 水を勧めながら、視線は八重の一挙一足に集中していた、

 菊子は白い手袋を脱ぎ、八重の目の前に手の甲に浮いた青い入れ墨をかざして見せた。

「兄の菊次郎が言うには、奄美大島の実母の手の甲にも同じ入れ墨があったということです。もちろん自分で彫ったものではありません」

 八重は菊子の手を取り、入れ墨の模様を観察しようとしたが、菊子は本能的に手を背中に隠した。

「どうなさったの」

 怪訝な顔で八重は聞いた。

「八重さんの手に触れると、とても怖い場面が見えます。切断された手足が木の桶に投げ込まれたり、木の桶が人の血で一杯になる場面。人の叫び声も聞こえます。戦場にうち捨てられた無数の遺骸も見えます」

 八重は驚いて声を上げた。

 八重が日露戦争の従軍看護師として戦地の夜戦病院で日夜、目にした風景である。戦場の後始末をする風景も目にした。人生観をすべて変えてしまうような風景である。

 八重は納得した。八重の記憶に強く刻まれた風景であり、他人に伝わっても何もおかしくない。また菊子は不思議な能力が持っているのではないかという、同郷で大山巌の妻の言葉も影響した。科学では解明できないが、人間の強い思い奇跡を起こすと信じたい気持ちもあった。戦場での過酷な体験が八重にそれを望ませた。自己の人生を振り返ると、自分自身もそのような不思議な体験を重ねてきたような感じがする。夫の新島襄との出会いもそうであり、その他の多くの人々との出会いも、八重にそう感じさせた。

「その痣は何時から」

「初めて現れたのは昨年の秋の頃です。でも手の甲が暖かくなるように感じたのは、何度かありました」

「手の甲が暖かくなると言うのは」

 菊子は、しばらく考えていたが、「誰かが暖かい柔らかい手が自分の手を包み込んでいるような感覚です」

 八重の質問に答えながら、菊子は自分の言葉の中に潜む、ある事実に気付いた。

 誰かとは誰であろう。

 暖かい柔らかい感覚は、いつ味わったのであろう。

 これまで実母のアイカナ以外に手を包むように握ってもらったことはないと気付いたのである。子供の頃、実母のアイカナが自分の手を包み込んだ時に感じたのは感覚である。実母は口を閉ざしたまま、目を閉じ、菊子の小さな両手で自らの両手で抱き締め、祈るようにしていた。だが実母が自分に大事なことを語り残していたと感じた。彼女は自分に不思議な力を伝えていたのではないかと気付いた。

 「菊子さんのことを、捨松さんも不思議な人だと言っていました」

 菊子が思いにふけている最中に、八重は言葉をかけて来た。

 捨松と菊子は義理の姉妹にあたる。誠之助が事業に失敗し、経済的な支援を受けていた。親族の扶養義務が厳しい時代で、社会システムとして根付いていた。社会の経済的構造自体もそれを可能にしていた。兄の大山巌は誠之助家族など一族を養うに十分な収入を得ていたのである。捨松にとって菊子は義妹という立場より西郷隆盛の娘であるという存在が大きなかった。

 八重は捨松から菊子は神秘的な力を隠し持っているかも知れないと聞いていた。二人は東北地方の最はての恐山の巫女の姿で共通のイメージで菊子を描くことができた。

 菊子が誠之助との生活で味わった苦痛は経済的なものだけではないようだと捨松は感じていた。酒に溺れる誠之助は菊子に暴力を振るうこともあったであろう。どの家でもその類の話はあり、女である菊子は耐えねばならない時代である。それでも誠之助の島人(しまんちゅう)と言う悪意のこもる言葉に菊子は泣くことがあった。

 そして自分自身も、自分が島人であるせいで主人が事業に失敗を繰り返したように自分を責めたのである。そんな時に手の甲が不思議と暖かくなった。まるで誰かが自分の掌が柔らかく掌を抱き包み込むように感触なのである。

 とても暖かい掌の感触であった。

 その時には、まだ、今のような痣が手の甲に現れることもなく、熱いとか痛いと感じることもなかった。

 望んだ訳ではないが、この力を、どのように使えばいいのか、何に使えるのかと菊子自身も知らない。


 菊子は日が高くなっていることに気付いた。昼餉時間を過ぎている。久子が心配をしているに違いない。慌てて八重の家を退去して、家路を急いだ。その日は、学校が休みで子供達の食事の準備もしなければならなかった。

 八重は話し足りなそうであったが、後日に西郷市長にも会いに行きたいと伝えた。もちろん公式な訪問を意味する言葉である。八重が聖護院の自宅を通る時には予告もなく門をくぐり家を訪れていたのである。そして菊次郎の妻の久子も一緒になり、女だけで世間話に花を咲かせるようになっていた。

 八重は一八四五年、菊子は一八六二年の生まれであり、八重と菊子とは十七歳の年齢差がある。母親と娘の年齢差である。八重は菊子との会話を何よりも楽しみにしていた。子供のいない八重は菊子がまるで自分の子供のように思えることもあった。菊子も八重のことを、十四才で別れた実母のように感じることがあった。実母にも八重のような強さがあったことは間違いない。菊子も、そのアイカナの血を引き継ぐ女性であったが、鹿児島の西郷家に引き取られてから、それを社会的に封印するように強制されてきたのである。

 八重と菊子、そして菊次郎夫婦が八重と家族ぐるみの付き合い始める切っ掛けになった大山捨松は菊子より二歳年下の一八六〇年の生まれであった。


 日露の講和条約締結も完了し、世間は落ち着きを取り戻しつつあった。明治三十八年になると、思いように賠償金が獲得できなかったこともあり、戦勝の高揚感も去り、世間には暗く不気味なニュースが流れるようになっていた。

 戦死者にまつわる不気味な話が世間で囁かれるようになっていた。多くの戦死者や負傷者を出した戦争であったから無理もないが、国家に対する呪詛の声が背景にあった。

 働き手を失った家族も多かった。

 京都市も例外ではなかった。

 手や足を失った者が街中に目立つようになった。仕事や生活支援などの面で、京都市長の菊次郎も心を痛めねばならない。当時は社会保障や福祉など充実しておらず、親族扶養が原則であり、基本的に国家は無責任であった。菊次郎は、町衆の力を借りて出来るだけの対策を施した。

 久子は「嫌な雰囲気ね」と言った。

 怪談話も流行った。

 どのような怪談話が流行ったか。

 町衆の徳治郎という年寄りが菊次郎邸を訪れ、密かに語った話である。徳治郎とは菊子が孫が戦地から無事に帰ることを予言して、国際赤十字の力を借りて収容施設を調べた経緯から、聖御院の西郷邸に足繁く通うになっていた。八重とも西郷邸で知り合い、言葉を交わす仲になっていた。

 八重と徳治郎が知り合ったのも、西郷邸であり、菊子は今でも、一月前の二人の会話が印象に残っている。

「有名人の八重さんが市長宅にいても不思議ではありませんな」と、大山巌の妻「捨松」を中心にする、八重や菊子の関係を知らない徳治郎の開口一番の言葉であった。

「ずいぶんなご挨拶ね」と八重はやり返した。

 徳治郎は慌てて言い訳をした。

「八重さんに喧嘩を売るつもりはありません。八重さんの生き方は私たち男にとっても憧れです。男は世間ではいつも他人に頭を下げて生きています。家に帰れば陰では女には頭が上がりません。それを正直に認めたのが新島先生と八重さん夫婦です。京都人の大部分は誇りにしています」

「おや京都人の誇りとは、随分な持ち上げ方ですね」と八重は負けていない。

「本当の気持ちです。東京では新島先生ご夫婦の生活は成り立たなかったかも知れませんが、京都人はしなやかに認めたのです。八重さんご夫婦の婦唱夫随の生き方も認めることができる土地は、広い日本でも、ここ京都だけです」

 八重は、言われて見れば、思い当たることがあった。

「でも中にはひどいことを言う人もおりましてよ」と八重はやり返した。

「そいつは本物の京都人ではありません。偽物です。どこにもそんな人がいます。この京都は、異なる世界の人々を受け入れるしなやかさと危うさを併せ持つのです」

 今、思えば、八重と徳治郎の二人のやり取りが、これから起きる事件を予言していたかも知れない。ただ相手は人間ではなかった。遠い過去の怨霊であった。


 不吉な事件の知る切っ掛けになった日も、八重を西郷邸の縁側に座り、春の暖かい日差しを楽しんでいた時である。久子が子どもたちが学校から持ち帰る筋のはっきしない怪談話を徳治郎に確認したのである。

 徳治郎は、「京都人は迷信深いから」と断り、久子に話した。

「例えば真夜中の京都駅に出征兵士が無数、集まっていたとか言う類の話も、夜の京都の繁華街で囁かれいるようです。それで事実を確かめようと若い輩が京都駅に出掛けたと。あるいは日露戦争で手足を失った兵士の魂が、その手足を求めて、耳塚に集まって来るとか、逆に戦場の野戦病院周辺に埋められた兵士の手足が空を飛んで、耳塚に戻ってきたとか言う話も聞きました。」

 戦場の野戦病院周辺に埋められた兵士の手足という話は八重にとって無関係ではない。切断し埋めた本人である。

 剛胆な八重も、思わず、身震いした。

「耳塚というと秀吉が朝鮮出兵で討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をそぎ落とし持ち帰り、葬ったと言う塚ですか」と菊子は聞いた。

「そうです」と徳治郎は答えた。

 久子は怖いと呟き、「菊姉さんは知っていたのですか」と聞いた。

「昨年、豊国神者社に参拝したおり」と小声で久子に答えた。市長夫人として自由に町を出歩けない久子に対し、申し訳ない気持ちが漂っていた。

「太閤さんは、供養のために持ち帰ったという方もおられますな」と徳治郎は付け加えて、話を続けた。

「最近では、丑の刻の深夜に、この耳塚に参り、失った手や足を返せと祈り続けた、兵士に手足が生えたなどという、たわいない噂話まで広がっているようです」

 八重たちが勧める義足や義手の普及運動と無関係ではないかも知れない。

 その他にも、京都の巷で語られるたわいもない怪談話に久子は身震いして聞いていたが、菊子はたわいない作り話だと見抜き、恐怖心は沸かなかった。ところが、その菊子が徳治郎が話す京都の錦市場での不思議話を耳にした時に、身震いをしたのである。生理的な身震いであった。

 八重は、菊子の動揺を見逃さなかった。

「不思議なことです。品の良い翁が現れまして、東口付近で品の良い翁が突然、現れまして、その翁に子供達が数を増やしながら付いて行き、錦市場の西口付近で翁も子供達も姿を消すと馬鹿なことを言う者がいるのです。それも商いの盛りの真昼間です」

 錦市場は、明治維新以降、寂れ、かっての面影はない。だが、復興を求める市民の声が大きくなりつつあった。

 久子は喜んだ。

「まるで童話で聞いたことがあるような話ですね」

 久子の脳裏には幽霊話より、錦市場の賑わいの方のイメージが強かった。

「グリム童話集にあるハーメルンの笛吹き男と言う物語と似ていますね」と八重が説明した。

「そのような話があったのですか」と徳治郎は感心した。

 菊子は、身を固くしたまま、身じろぎもしなかった。膝の上で両掌を交互にしきりにさすっていた。この翁の物語にこそ、最近の重苦しい京都市の雰囲気の元凶があると菊子は直感したのである。

 静かに世間に浸透し、人々から歓びや生きる勇気を奪っていると直感したのである。

「翁と子供が、忽然と姿を消すのですか」と八重は聞いた。八重の視線は隣に座る菊子に注がれたままである。

「そうです。錦市場の入口から翁が姿を現しますと、近所の子供が一人二人と集まって来ましてな、まるでモヤのように消えてしまうと言うのです」

「それで消えた子供はどうなるの」

 とさすがに久子が、不安気に聞いた。

「それが消えた子はいないというのですな。誰も自分の子供が消えたなどと申し出る者もいない」

「でも消えたのを見たと言う人はいるのでしょう」。

「そうです。沢山いるのです」と徳治郎は頭を傾げた。

 菊子は口を挟んだ。

「そのような話を、病床に就いた方から聞かれたのではないですか」

「ええ、菊子さん、なぜ御存知なのですか」

 徳治郎は驚いた。

 八重が助け船を出した。

「徳治郎さん、菊子さんには不思議な力があるかも知れないのよ」

「そうでした。菊子さんには神通力がありました」

 八重が驚いた。

 居合わす四人が、すべて菊子の特殊な能力を認めたことになった。

 菊子が話を進めるために言葉を挟んだ。

「このような話は、いままでなかったのですか」

「いいえ、先の戦争の時にな、同じような品の良い翁が現れて子供をさらっていったと似たような話があったようです」

「先の戦争と言うと、日清戦争ですか」と久子が聞いた。

 徳治郎は大袈裟に手を振って応えた。

「いやいや、京都人にとって先の戦争と言うと、応仁の乱を言いますよ」と。

「まあ、応仁の乱ですか。ずいぶん昔ですね」

 と久子はあきれて奇声を発した。

「京都人はあの長い乱には、ほどほど泣かされました。それに懲りて私たちの御祖先様は町衆組織を造り、いたずらに武士や公家が権力闘争に走らないように祭や、工芸、芸術などを盛り上げてきたのです。それが綿々と続いているのです」

「当時の人は話は」と菊子は、なおも徳治郎に話を促した。

「十年間、続き、京都の町も灰燼に帰した応仁の乱の最中ですが、子供を連れてモヤの中にかき消える翁を品の良い翁だと善人のように評しました。ところが一人だけ、人を喰らう鬼だと言う人がおったそうです。安倍晴明という平安時代の陰陽師の血統を継ぐ方だったらしいのですが、誰も彼の言葉を信じない。ところが、そのお方も翁も突然、姿を消してしまったのです。これも噂ですが、それを境に、京都での応仁の乱は収まったようです。陰陽師の御子孫さんが自分の命と引き換えに翁を追いやったと言う話もありますが、如何なものでしょう。日本は戦国時代という長い分裂国家、内戦時代に突入した訳ですから。信長さんは尾張に、秀吉さんは大阪に、そして家康さんは江戸ですわ。それでも天皇さんは京都におられました。ところが今回は天皇さんも東京にとられてしまう。まるで血も涙も、神も仏もない。そのように嘆く町衆もいないのではありませんが、そんなことは大きな影響はないと思います。こんな時こそ、頑張らねばいきません。広い世間には京都の発展を望まぬ者もおりましょうね」

 徳治郎の声は寂しそうである。

 翁の正体は分からないが、良くないことが起きていると菊子は実感した。具体的に市内で起きていることは市長の菊次郎に聞くことで知ることができる。

 主人の元気がないと夕餉の後始末をしながら、久子が菊子に相談を持ち掛けてきた。

 菊子は久子に、市内で死産をする婦人や病に伏せる若者が増えていないか聞くように頼んだ。

 答えを持って、久子が菊子家族の部屋に駆け込んできた。そして主人が呼んでいると告げたのである。

 菊次郎は菊子に、死産の増加や若者の病が増えたことを知った経緯を尋ねた。

 菊子は直感だと応じた。

 菊次郎も納得した。

 すでに妹が不思議な能力を得ていることを認めていたのである。

 思い当たる節はあるかと聞いた。

 その時は菊子に断言できることは何もなかった。

 突然、現れて消える、品の良い翁の正体を掴まねば、断言はできない。

 もう少し、徳治郎から聞き出さねば、翁と直接、対面するのは危険であると感じた。せめて翁の正体の予想でも出来れば、心の準備もできると菊子は考えた。

 手がかりは、京都の発展を望まぬ者の仕業である。徳治郎の最後の言葉にあったとおりである。菊子は、その正体を錦市場に現れる正体不明の翁であると感じたのである。

 翌日も菊次郎宅を訪ねてきた八重に菊子は尋ねた。八重は京都には住んで長い。京都についても詳しく色々なことを知っている。

 京都の発展を快く思わぬ者は大勢いますよと、八重は即答した。

 京都に平安京を定めた桓武天皇の時代から、兄桓武天皇の手で廃位され淡路に流される途中で失意のうちに亡くなった崇道天皇や藤原摂関家との権力争いに敗れて太宰府に流された菅原道真、保元の乱で敗れて讃岐の国に流されて崇徳天皇の話は有名です。その他、世に知られない話はいくつもありましょう。これまで菊子さんがお参りをした京都の寺社仏閣も、多くは彼らの怨念を鎮めるために建造されているはずです。あるいは怨霊の外界からの侵入を防ぐ目的があるはずです。

 八重の言葉に菊子は自分が感じたことに自身を持ったが、正体も、この時期に怨霊が現れた理由も特定できない。菊次郎が始めようとする三大代事業の妨害のためかも知れない。日露戦争で犠牲になった者の怨霊が巷で騒ぎ始めたことで、時期到来を姿を現したのかも知れない。

 八重は菊子に錦市場に行こうと誘った。自分も同行すると言って引き下がらなかった。

 徳治郎が慌てて駆け付けて来て、翁を見かけた言う人物全員が病床から離れられない重病だと言う。他界した者もいると言う。

 徳治郎が新たな持ち込んだ話は錦市場の西の入口に現れた翁が東の境に消えるまでに人の数は次第に増えていくと言う。それも子供だけではないと言うのである。

 菊子は顔を曇らせて聞いた。

「その方は無事ではありませんね」

「危篤です。寝込む前に本人が家族に話したことを聞いた」と徳治郎は答えた。

「彼自身、歩いているうちにボンヤリと霞の中にも紛れ込み、周囲の市場の景色が次第に異なる世界のように見えた。しかも周囲の人々からモヤのような物が翁に集まるのを見た。歩いているうちに何名かが自分の世界に入ってくる。でもみんな子供のような小さな姿に変わる。自分も後ろを歩いているうちに元気がなくなった。錦市場の北口に到着する頃には身も体も疲れきってしまった。その時、突然、昨年、亡くなったはずの母親が付いていってはいけないと叫んだと言うのです。その声に足を止めた瞬間、先頭を歩く翁も足を止めて、振り返った。翁の顔は鬼になっていて、チッと舌打ちをしたが、十分、精気を吸い付くしたからよかろうと歩き去ったということです。恐ろしくてなって、体を引きずり家に帰り着いたということです」

 久子も八重のそばに座り、聞き入っていた。菊子も徳治郎の話に夢中になって気づかなかったのである。久子は怪談話の延長線の話として聞いている風であるが、八重は深刻な顔であった。

 

 菊子は断定した。

 鬼である。

 それも人間を精気を吸い取る鬼である。

「昨日、あれから久しぶりに錦市場を歩きました。戦争前に比べてずいぶん市場の店の店員を減り、寂れたという印象を受けました」と八重は感想を漏らした。

「町衆はそんなことはないはずだ。町衆仲間の会議記録でも店員の数は増えている」と主張した。

 八重は、「鬼がまやかしている」と主張した。

 八重のような人物は本質を見抜く力を持っている。しかも一年、近く、町を離れていた。だからそれを見抜けのである。

「危篤になりながら生き永らえている方はどんな方ですか」

「彼も平安陰陽師の血を受け継ぎ、町衆の中でも古い家柄です。だがこのまま彼が他界すれば、後継ぎもいなくなります」と徳治郎は寂しそうに言った。

 余命幾ばくもないと他人が感じるほど病は重いのである。


 見えない者と見える者が存在すると言うことから、みずからの結界を結び、姿を隠す力があることも明白である。

 人間の精気を吸い取るだけではなさそうである。人々の記憶を操り、記録さえ書き換える力もある怨霊であることも想像できる。

 歴史は最高権力者のみが造り、書き残せるものである。とこが怨霊は力さえ持っているようである。菊子や徳治郎はそのような特殊な能力を持ち、歴史の隙間をのぞき見ることができる者たちが残した事実を話題にしている。彼らは崇徳天皇に関係する怨霊ではないかと結論づけていた。

 死の間際に天界の大魔王になり、この世を呪わんと宣言した崇徳天皇に違いない。

 一説によると、崇徳天皇は自らが起こした平安時代末期の一一五六年の保元の乱で戦死した者の供養にと血書の五部大乗経の写本を京の寺に収めるように朝廷に差し出したが、後白河院は呪詛が込められていると写本を送り返した。これに激しく怒った崇徳院は舌を噛み切り、送り返されてきた写本に日本国の大魔王となり、民に害をなさんと書き込み、爪や髪を伸ばし続け、鬼になったと言う。明治になって、崇徳天皇の怨霊に対する恐怖心は収まらず、慶応四年の自らの即位の礼を前に明治天皇みずから勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ魂を安んじようと白峯神宮を創建したのである。

 菊子も同意をしたが、断定を慎んだ。

 そうだとしても、なぜ今頃になり錦市場で人の精気を吸い尽くす行為に出たのか謎は残った。

 全員が沈み込んだ。

 八重が一笑した。

「何も恐れる必要がありましょうか。記録や歴史の書き換えなど権力者の常套手段です。怨霊の悪さなど、日露戦争の戦場で起きたことに比べれば恐れるに足りません。私が同行します。菊子さん、行きましょう」と気勢を上げた。

 菊子は八重であれ、他人の誰も巻き込みたくないと考えていた。

 まして今回の怨霊は魔界の天皇と恐れられる怨霊の仕業であるあることが想像される。同行すると八重は拒絶するだろうが、菊子は誰も巻き込むまいとひそかに決めていた。もう少し様子を見てからと言いながら、明日にでも周囲に悟られないように一人で錦市場に行こうと決意した。だが八重は彼女の表情から、早い時期に決行するつもりだと察した。遅れれば遅れるほど犠牲者も増えることを彼女も気遣っているはずである。


 錦市場は賑わっていた。

 明治維新で市場の出店数は激減したが、最近では勢いを盛り返しつつあった。市場西口の片隅に立っていた。菊子は行き交う人々と区別がつかない質素な恰好をしている。

 市場に着くなり掌の甲が暑くなった。

 異常を知らせる兆候である。

 菊子は手袋を外した。

 ほんのりと青い入れ墨を浮かんでいた。

 半時間ほど時間が経過した。

 目を上げるとモヤが漂い始めていた。

 晴れた昼間であるから、モヤなどが発生するはずはない。

 徳治郎の話から予想していたとおりである。

 しかしモヤの中に巨人のような人影を認めた。もちろん優しげな翁などであるはずはない。背丈は普通の人の三倍ほどある。黒い髪は肩口付近まで伸びている。その間から二本の角が突き出している。赤黒い肌をし、頬の奥に光る目は真っ赤に充血して獲物を狙う獣のごとく光っている。目は大きく、口は大きく裂ける恐ろしい形相の鬼であった。上半身には何も付けて居ず、胸には骸骨を思わせる肋骨が浮いているが、腕の筋肉は盛り上がっている。下半身は短い二股をはいているが、太ももの太さなどは普通ではない。手の長い爪も獲物の返り血で染まったように赤くなっている。背後には小人のような人間を引き連れていた。小人のように見えたが子供ではなかった。多くの目撃者の話とはちがい、ほとんどが大人であった。ただ菊子が目前に見る様相と似たような話をしたのは、陰陽師の血を受け継ぐ青年だけである。彼も、後を付け、北口にたどり着いた頃である。菊子は最初から翁の正体を気付いたのであるから、はるかに強い力を持っていることは間違いにない。

 菊子は静かに物陰に身を潜めた。

 気付かれずに怨霊の心も読み取ることも出来た。崇徳天皇の怨霊が復活したのである。この段階では菊子の力が勝っていた。

 鬼は錦市場に足を踏み入れた。

 菊子は気付かれないように後を付けた。

 鬼が目を向けると、その方向に佇む若い青年男女の肉体から白いモヤが鬼の体に吸い込まれていった。

 これこそ鬼のエネルギー源であり、鬼の周囲を包む白いモヤの正体である。人間にとっては生きるためのエネルギーであり、精気と呼ばれるものであるが、鬼はそれを吸い取り成長を続けていた。

 菊子は、自分で結界を造り、鬼の結界の外にいた。

 周囲の者たちは最初は菊子の周囲にはモヤはなかったと語っている。

 しかし次の瞬間に驚くべき光景を目にしたと証言する。

 菊子の両手の甲から二本の白い剣が伸びたかと思うと、次の瞬間に菊子はモヤを切り裂き、その中にみずから飛び込んだのという証言である。その後モヤは晴れたが、同時に菊子の姿も消えていたというのである。

 真っ昼間、多くの目撃者のいる中、しかも京都の繁華街で起きた出来事である。

 菊子の両手の甲から二本の剣が生えたと証言は彼女が決意した時のことである。菊子が怨霊の結界の中に飛び込もうと決意すると同時に手の甲から二本の鋭い剣が伸びたのである。丁度、青い入れ墨の中心付近からであり、菊子の下腕が伸びたかのようにも見えた。

 剣とは反りのある日本刀ではなく、大和朝廷時代の古代の剣に似ていたが、一層細身であった。衣装も古墳時代の男子が身に付けていた単純であるが、ゆったりとした衣と袴を、たまきの紐や足結いの緒で袖口を結ぶ動きやすい衣装に代わっていた。

 白いモヤの中に飛び込んだ瞬間に鬼は菊子の存在に気付いた。鬼の造る結界の中での戦いは菊子にとって有利ではない。何が起きるか油断は出来ない。

 鬼は突然の乱入者を戸惑った。

 正体を掴めない乱入者を赤黒い両腕で捕らえようとした。

 菊子は後ろに跳び退き、鬼の両腕を交わした。

 菊子は鬼の素性を読み取っていた。

 崇徳天皇の怨霊が変じて鬼になったのである。鬼は菊子の素性を知ろうと焦り、「何者だ」と叫んだ。

 菊子は一笑にふして答えなかった。

「おぬしが都人に害をなそうとしている以上、問答無用」と叫び、宙に舞い、鬼の頭上に剣を振り下ろした。

 鬼は長く伸びた鋭い爪で剣を交わし、菊子を地上に叩き付けようとした。

 菊子は軽々と身をかわして地上に降り立った。

 世界が暗くなり、雷鳴が鳴り響いた。

 鬼がみずからが戦うのに有利な結界を創ろうとしたのである。

 菊子は急変にひるんだ。

 その隙に鬼の鋭い爪が稲妻と光りとともに頭上から襲ってきた。

 鬼の攻撃を横に跳びのき、辛うじてかわした。

 暗闇からの雷鳴とともに、稲妻の攻撃は留まらない。

 それを剣でかわし、あるいは身を翻してかわした。

 火花が暗闇の中に散った。

 心を鎮め、目をならすのに時間がかかった。

 戦いあぐねて、偶然に左手の剣を目の前にかざすと、鬼の姿がはっきりと見えた。

 そして次第に周辺になれてきた。

 菊子の剣は鋭く、重たかった。

 もちろん日本刀のような反りのない剣であるが、少し戦い方は違うが、真っ直ぐに伸びる剣は太刀の重さで相手を圧倒する示現流の特性を活かすに、相応しい武器であった。

剣の鋭さと重さは父の隆盛が、幼い頃、子供同志の喧嘩で腕の筋を傷めなければ、到達したであろう薩摩示現流の達人の域をを想像させる激しいものであった。

 示現流の恐ろしさは幕末期に示現流と戦った武士の中に自分の刀の峰や鍔を頭に食い込ませて絶命した者がいたという事で知られているとおり強力であるが、鬼の強力であり、菊子の振り下ろす剣の重さにひるまなかった。

 鬼は菊子の剣をかわしながら、鋭い爪で菊子を攻撃してきた。

 菊子の身のこなしは、母アイカナが隆盛の目の前で魚を網に追い込むために、海中で身をくねらせ、回転し、自由に泳ぎ回る美しい人魚に似ていた。

 鬼は爪で菊子が上下左右から繰り出す剣を避け、菊子を体制を崩そうとする戦い方は変えない。巨人であるが、動きは素早く、菊子に隙を与えない。鬼の頭上を超え、背後に回り込もうとするが、鬼は菊子に背中を取らせない。 菊子は鬼の弱点を見抜くことが出来た。

 足元である。

 両足を間を滑り込むように潜った瞬間、右足を切り取った。

 鬼は大地を揺らし大音響を立て、右側にもんどり倒れた。

 苦痛で悲鳴を上げ、大音響と地響きを立てて、大地に倒れた。

 右足から赤い血がほとばしり飛んだ。

 結界を造る力も失い、光りが戻ってきた。

 苦しみながら鬼は切断された右足の根本を左手で血を止めようとしながら、右手で菊子と動きを制し、「助けてくれ」と命ごいをした。

 「言うことを聞く。命だけは助けてくれ」と鬼は涙を流しながら、何度も哀願した。

 菊子の心に迷いが生じ、戦う気力も失いかけた。

 もし鬼が奪った人間の精気を戻し、二度と崇徳天皇の怨霊が鬼に変じて人間界に現れ悪さをしないと約束したら、命を取らなくて良いと感じ、剣を収めた。

 鬼は調子に乗った。

「そうそれで良い。おぬし。権力闘争に敗れ、逆賊として天皇の軍隊に破れた私と同じ哀れな運命にあった一族の者」と言葉を滑らせて。

 菊子は動揺した。

 鬼は菊子の素性を戦いの最中に読み取っていたのである。

 菊子はデタラメを言うなと叫び、再度、剣を取り出そうとしたが、右手の甲から剣は出てこない。

 菊子は過ち犯したことに気付いた。

 鬼も同様である。もう少しで菊子から吸い取った精気で、失った右足の部分にトカゲの尻尾のように新しい右足が蘇生しつつあった。

 鬼の右足は左足に比べて細く、完全ではなかった。それでも鬼は立ち上がった。

 逆に菊子は体の怠さを感じた。

 満身の力を込めて、菊子は、鬼の頭上に飛び上がり、剣を振り下ろした。

 鬼は菊子の剣を交わそうとしたが、かわしきれず、剣は右肩から胴体を一刀両断に引き裂いた。

 致命的な傷であった。

 それでも鬼は菊子の心に毒を注ごうとした。

「所詮、逆賊にすぎない。だが先の西南戦争も我が人々の憎しみを集めて、おこさしめたこと。隆盛の命も、兄の右足を奪ったのは我が企てたこと。だが我は人が望むから存在しているにすぎない。

 菊子は鬼の首をはねた。

 それでも鬼の口は動き続けた。

「我がエネルギーは人の怨み。人の怨みこそ我をよみがえさせる力。すぐにかき集め、蘇生せん」

 そう言い残すと、鬼はみずからの遺骸とともに消えた。

 しかし鬼が残した言葉の毒はそれまで菊子を支えていた誇りや正義感や、生きる気力を奪っていた。

 目眩を覚え、倒れ伏し、暗く深い奈落の底に吸い込まれた。

 その時に錦市場でざわめきが起きた。

 突然、倒れた女性が市場道路の真ん中に現れたのである。

 女性の周りに群集が集まった。その中に八重がいた。菊子が出かけたと聞き、後を追ってきたのである。群集の輪の中心に倒れているのが菊子であることに気付き、彼女は人混みをかき分け、菊子を抱き起こした。

 呼吸も心臓も停止している。

 硬直はしていないが、全身が冷え切っている。

 八重は医師を求め必死に叫んだ。

 すぐにみずから人口呼吸をし、心臓マッサジーを施し、彼女は知るかぎりの蘇生の術を尽くした。それでも菊子が息を吹き返す様子はない。八重は泣きながら、冷たくなった菊子の手を自分の胸と両手で温めようとした。

 八重の姿は周囲の人々の心を打った。

 母娘の関係かと思った。

 後日、その女性が、噂に名高い新島襄の男勝りの妻の八重であること知った、京都人の驚きは大きかった。男勝りの彼女を快く思っていなかった京都人も感心した。

 菊子を蘇生させようと、必死に介護を続ける彼女の姿に日本のナイチンゲールだと賛辞を送った。

 もちろん昔の毅然とした彼女も良かったと言う京都人もいた。


 菊子は母が自分の掌を自分の胸に抱きしめ温めるのを感じた。母と海辺に遊んだ後、いつも冷たくなった自分の手を母が温める時の光景であった。

 やがて、その手は奈落の底に沈んだ菊子の意識をこの世にひきづりあげたのである。

 菊子が意識が取り戻すと、八重の顔があった。だが、身を起こす体力さえ残っていず、蘇生はしたが、八重の腕の中に身を沈めるしかなかった。

 徳治郎は縁側に現れた菊子の姿を見て、「見違えるほど美しい」と奇声を上げた。

「はじめて見る模様です。どちらのお着物ですか。それにしてもエキゾチックで、精緻で、気品もあり、面白い模様ですな。菊子さんが身につけるに相応しい着物です」と徳治郎は繰り返した。

 菊子は恥じらいながら答えた。

「奄美大島の大島紬というものです。私たちの年齢にはこれぐらい地味なものが良い。西陣では派手すぎるのではと思って」

「いやいや、今日の菊子さんの美しさなら西陣にも負けません」

 徳治郎の、お世辞とも思えない褒め言葉に菊子は大笑いした。

 縁側の奥の部屋から別の女性の笑い声がした。

 久子の笑い声である。

 徳治郎は首を延ばし、奥の部屋を覗き込もうとしたが、すぐに襖が開いて久子が姿を現した。

 彼女も大島紬を身に着けていた。

 徳治郎は、折り曲がった腰を伸ばして驚いた。

「久子さんまで、どうして」

 いつもは二人は、市長夫人や大山巌陸軍大将の義妹都は想像もつかない質素な恰好をしていた。

「それにしても、お二人は今日はお美しい」と感嘆の声を上げた。

「失礼ね。まるで今日だけ美しいという口ぶりよ。馬子にも衣装という口ぶりよ」と久子が反撃した。

「滅相もありません」と徳治郎は声を上げた。

「それにしても高価なものでしょうな」と徳治郎は二人が身につける紬を上から下に眺め回した。

「兄から頂いたのよ」と菊子が紹介した。

「私はお姉さんのおすそ分けよ。亭主も京都の町で起きる災いが崇徳天皇の怨霊のせいだと認めて、それを払った菊子姉さんにご褒美を上げたのよ。菊子だけに大島を買ってやる訳にもいくまい。今回は久子の分も奮発して買ってやろうと言うのよ」と、夫の言葉を紹介するが、嬉しそうに言った。

 そこへ八重が姿を現した。

 いつもは洋服を着ている、その八重が派手な西陣を着ていたのである。

「どうしたの八重さん」と菊子も久子も驚いた。

 徳治郎は二人以上に驚いた。

「まさか八重さんは陸軍元帥の大山巌閣下から頂いたと言うのではないでしょうね」

 徳治郎が菊次郎宅で八重と知り合って以来、足繁く、八重宅に通っていた。

 そんな時に八重たち看護婦が大山巌を囲み撮影された写真を見ていたのである。

 八重は言った。

「私は夫以外からの贈り物を頂かないことにしています」と。

 徳治郎が三人うち揃っての和装に驚きが昂じて疑心暗鬼になった。

 額に浮いた汗を拭いながら首を傾げた。

 みんなでこの年寄りをからかおうという算段ではないでしょうなと叫んだ。

 そしてあらためて八重が着る西陣を真剣な視線で眺め、美しい美しいと呟いた。

「私は、この年になって再婚など嫌ですよ」と徳治郎をからかった。

「八重さんにそんなことを言われたら、お宅にお茶のみには伺えませなくなります」と泣き出しそうな表情で言った。

 八重も菊子も久子も、徳治郎の困りように吹き出してしまった。

 徳治郎は冷や汗をぬぐいながら、「今日は、さんざんな日です。でも目の保養になりました。西郷市長の私へのご褒美ですかな」と言いつつ、長居は無用と退散して行った。

 八重が、そんな中、菊子や久子が紬の模様を見て、ふと呟いた。

「その紬の模様は、菊子さんの手の甲に浮く、模様とどことなく似ている」と。

 菊子は八重の言葉に新しい発見をした。


 その日は菊子の床離れの日だった。

 鬼との戦いが終わって以来、寝込んでいたのである。快癒はしていたが、ことがことだけに部屋に閉じこもり、災いが消えたかどうか様子を伺っていたのである。

 桜の満開の時期で、菊子はまぶしい庭の桜を目を細めて眺めた。

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