第6話遠い雨の日の出来事
八重は、ほぼ毎日のように鴨川を渡り、聖護院町の市長宅に急いだ。
鴨川に架かる橋を通るとは言え、十数分で行き来ができる近い距離であるが、その日は梅雨末期の大雨で歩くにも苦労する日である。もちろん人通りも少ない。
こんな大雨の日に、急いで行動せねばならないのは西郷市長の行動に合わせる必要があるからである。西郷市長は京都三大事業の実行準備のために、多くを東京で過ごす日が多かった。そのために中々、合えないのである。
八重は当時の京都では、まだ珍しい洋傘をさしていた。それでも雨粒が容赦なく、薄い生地をとおりぬけてきた。風はないので天の真上から大地にたたき付けるような雨である。稲妻も雷鳴もないのが、せめての救いであった。
八重が西郷市長を頼みにするのは、彼が西郷隆盛の息子であり、兄の命を救ったことや、同志社大学校の敷地に薩摩藩から敷地を譲り受けたことの縁もあるが、それ以上に市長と同居する市長の妹の菊子が大山捨松の義妹に当たることに親しみを感じていた。
その頃、八重は茶の湯の執心し、小道具を買い集めるために借金も重ねていると芳しくない噂が立っていた。しかし実は八重にとって茶の湯に凝ることは、他の目的があった。
日露戦争で手足を失った兵士に義足、義手を提供する社会運動に携わっていたのである。そのために資金が必要なのである。資金を得る方法として、八重は茶の湯に集まる女性たちとの関係を活用したのである。要するに彼女たちの親から寄付金を頂くのである。今日も、その件である。
八重の社会活動には市長も、菊子たちも理解を示した。何しろ菊次郎は西南戦争で父が率いる薩摩軍に従い従軍し、田原坂の戦いが原因で足を失っている。手足を失った者の痛みを自ら知っている。菊子も西南戦争に従軍し、正常な社会人として正常な感覚を失った誠之助と一緒になり、苦労を重ねてきた。
西郷一家は彼女をいつも暖かく迎えた。
八重にとって資金集めに茶の湯を始めることは自然であった。実家の山本家の祖先は会津藩は茶の湯に関わっていた。とは言っても簡単に人は集まらない。それも豊かな家庭の子女である。それに当時、茶の湯は女性の文化でなかった。むしろ茶の湯は女性ではなく武士の作法であった。西郷市長を訪ねる八重には、西郷市長をみずからの茶の湯の席の一員に取り込もうという下心があってのことである。京都在住の富豪たちを集める人寄せパンダに西郷市長をしようと言うのである。である菊次郎を使おうというのである。西郷市長が多忙なことは十分、承知していた。しかし八重には、それ以上に市長を取り込む必要があった。
鴨川にかかる橋の欄干に来ると、川の水は濁流をなし、激しく渦巻いていた。
大きく頑丈に出来た橋も流されるのではないかと八重もさすがに渡ることを躊躇した。
心細くなり、周囲に人影がいないか見回すが、誰もいない。
濃いもやと雨粒に遮られ、橋の向こう側の街並みもかすかに見えるだけである。
ところが、よくよく目を凝らすと婦人が一人、橋を渡って来るのである。
八重も意を決し、橋に足をかけた。
互いに通り過ぎようとした時に婦人が菊子であることに気付いた。菊子は八重を訪ねる途中だと言い、八重は市長を訪ねる最中だと互いに知り、とにかく二人で市長宅に戻ることにしたのである。
一緒に歩き始めてすぐに、八重は菊子が、「いちかけ、にかけて」と小さな声で唄っていることに気付いた。正確には歌っているのか呟いているのか不明である。空耳かと疑うほどの小声である。
八重はてまり歌歌だと解釈し、「その歌は」と、聞いたのであるが、菊子は、最近、心に不思議な歌を思い浮かべるのだと言い、歌うことを止めた。
橋から市長宅まで僅かな距離である。
二人は雨粒を払い落とし、縁側に腰を下ろした。気配に気付いた菊次郎の妻の久子が雨を拭く手ぬぐいを準備して縁側に走ってきた。
「実は」と八重は本題を切り出す。
八重が実はと切り出す時には菊次郎に用がある時だと久子も菊子も承知していて、八重の頼みが菊次郎に通ずるように助勢をすることになっていた。
その日は八重は単刀直入に、市長に頼みがあります」と切り出した。そしていきなり奥座敷に向かい、「市長さんに茶の湯の席に参加をして頂けないかとお願いに来たのです」と言った。
久子も菊子も八重が申し出る裏の事情は察し出来た。
菊次郎が、ステッキを頼りに、縁側に姿を現した。
「八重さん、お久しぶりです」と挨拶をした。
忙しいということを臭わせる意味があった。京都を不在にする日が続いていた。
覚悟をしていた返事である。
実は八重は次の手を考えていた。
「久子さんか、菊子さんはどうでしょう」
久子が恐れ入った。
「茶の湯ですか。そげんな男がするものを仕切れません」と即座に断った。
久子も武士の家系である。八重が茶の湯に熱中することに、そげんな男勝りなことまでせずともと、最初は思ったのである。さすがに会津戦争のおりに鉄砲で戦ったという御人だけのことはあると感心することもあった。 茶の湯の席と言うのは男同士が死命をかけて互いを見抜くための厳しい戦場、神経戦の場であり、あるいは戦場を出向く前に心を静めるための場でもあったのである。久子は八重の活動に一定の理解を示していたが、自分が、その一翼を担う立場にされかけた時に、拒絶反応を起こしたのである。
「茶の湯は男の作法です。女がするものではありません。菊次郎の伯父の従道さんも茶坊主として城にあがったと、亭主から聞いています。そげんな恐ろしいことなど仕切れません」と繰り返したのである。
八重にとって従道の話題が出たことは好都合である。
「それでは菊子さんは」と八重は菊子に白羽の矢を向けた。
「そんな地位のある方の前に出ることは勘弁して下さい」と菊子は健気に答えた。
八重も困り申てた。
西郷市長か久子市長婦人か、それとも隆盛の長女である菊子を連れ出さねばならないと決心し、大豪雨の中をやって来たのである。
すっかり八重は落胆した。見かねた市長が助け船を出してくれたのである、
「男だ、女だと言う時代ではないかも知れない」と久子をたしなめたのである。
久子も心細かった。格が高すぎる華族の子女も八重の茶の湯の席に出入りしているはずである。
「菊子さんが一緒なら」と久子が呟いた。
「武士の出身ではないから」と、菊子が言葉を滑らせてしまったのである。
三名は菊子の顔を覗き見た。
その後、会話が途切れた。
その頃の菊子には元気がないと周囲は気遣っていた。理由は誰にも打ち明けなかった。孤独に沈み込み、物思いにふけることが多くなっていた。
菊子は兄と兄嫁である久子に不安を与えまいと気遣っていた。そして、その日は八重に相談に出掛けた途中であったのである。菊子は八重に向かい話した。彼女なら心中を理解してくれるのではないかと期待をしていたのである。
「実は最近、気味の悪い夢が続きます」と打ち明けたのである。
それも昔、実際に体験したことがあるような場面が夢に出てくると言うのである。夢なのか、現実の出来事として体験したことなのかも不確かな場面だという。頭がどうかしてしまったのではないかと不安を感じると言うのである。多くは鹿児島に引き取られてた直後の場面であるような気がすると言い、彼女が鹿児島に渡って来た直後の明治十年正月に砂糖専売を止めるように訴えるために渡って来て遭難したと聞く島の人々が自分を訪ねて来ているような感じもすると言うのである。菊子にとって三十年も前の話である。大島商会事件と言われる事件である。明治になると砂糖の自由販売を促す通達が新政府から鹿児島県にあった。それにも関わらず鹿児島県は大島商会という商社を造り、従来とおりの独占体制を止めず収奪を続けた。多くの資金は旧武士階級を養うために使われていたようである。それに異議を申し立てるために大挙して島から抗議のために鹿児島に押し寄せて来たのである。西南戦争の直前のことであるが、すぐに牢屋に押し込まれた。島に蟄居を命ぜられた父と相撲を取り、寝食を共にした者もいた。父を頼って鹿児島に押し寄せたのである。ところが問答無用のまま牢屋に押し込まれたのである。一部は西南戦争に駆り出されてしまったのである。義理の母の糸子から決して島の出身だと素性を明かすなと菊子は釘を刺され続けてきた。五十名ちかい訴訟団体で西南戦争後に、無事に島に帰り着いたのは半分にも満たなかった。戦場で死に、牢獄の中で獄死し、島に帰る途中、島影を目の前にして船が難破して死んだ。
父や兄たちが出発して半年も経たない頃には政府軍が鹿児島に上陸し、武の家は焼かれ西郷一家は義理の母の里である西別府という鹿児島の片田舎に避難をして生き続けた。
大山巌の実弟である誠之助と一緒になった菊子は経済的に追い詰められた貧しい生活で島に帰ることすら許されなかった。彼と一緒になることは、彼女が鹿児島に来る前から決められていたことだったに違いない。
京都の兄のもとで暮らすようになって、貧しく苦しい長い生活から菊子は解放された。冷静に自分の人生を振り返る余裕ができるようになり、彼女は自分が見聞したことが、理解できず、疑問や不安さえ感じるようになったのである。
兄の巌と弟であり夫である誠之助の関係も理解できなかった。夫は巌に迷惑をかけ、家族で養ってもらう関係であるにも関わらず、巌を罵ったり不服従であることが多い。しかし、それでも巌は誠之助を見捨てない。このことが菊子には出来なかった。会津出身で賊軍として戦ったにも関わらず活躍する八重の立場も理解できない。
すべて自分に真似や立ち入ることを許されない世界のように思えてきたのである。
濁流渦巻く大河や、険しい岩壁が自分を取り囲んでいたような気がして仕方がないのである。
菊子の夢はいつも茶色の濁流渦巻く川の橋のたもとに立ち尽くす場面で終わったのである。まるで今日の鴨川のような光景である。雨と靄で見えるはずの城の天守閣が見えず、南に面した黒いやぐらだけが見えた。自分が身につけていたのは、短い丈の質素な木綿のかすりである。藁のワラジをはき、素足であった。
「橋があっても渡れないのです」と菊子は小声で叫んだ。
八重は我を忘れて、菊子の絶叫に「菊子さんは勇気がある。今日の鴨川の橋を簡単に渡って来た」と答えた。八重は我を忘れて菊子が話す夢の世界と現実の世界を取り違えたのである。
菊子は八重の混乱に微笑みを返した。
もちろん父の隆盛や母のアイカナの姿も夢に見ることもあった。
八重には菊子の夢や心情の話が理解できた。死者と現世に生きる者との間には壁がある。それはあたかも別世界であるかのように人は言うが、はたしてそうであろうか。生きている者同志に互いに壁がある。それと大きな差異はないのではないだろうか。
死者と生者の壁がなくなれば、現実社会にに存在する壁など一切、無意味になってしまう。
「八重さんも会津戦争で多くの方を失ったのでしょう」と菊子は八重に尋ねた。
もちろんである。弟、親戚、多くの友人たちを多く失った。もちろん弾に当たって命を落とした者だけではない。戦前戦後の混乱期に貧困や餓えで死んでいった者もいる。
「彼らが、まったく別世界に去ったと感じますか」
八重は菊子の言葉に頭を振って答えた。
「死んだ者が遠い世界や別世界に去ったと思ったことは一度もありません。いつでも身近にいると思うようにしています。でも菊子さんは、思うのではなく彼らを身近に感じるのですね」
八重の問いに菊子はそうだと軽く頷いた。
「それで良いと思います。去った者たちを思う気持ちが強すぎて、感じるようになった。ただそれだけのことです」と八重は肯定した。
菊子は八重の言葉に安堵した。
菊次郎も菊子が語る物語を別の視点から聞いていた。田原坂の戦いも雨中の中の白兵戦であった。菊次郎たちが熊本城を取り囲んだ時には天守閣は官軍の手で焼き尽くされ、宇土櫓という熊本の南を流れる白川に面する黒い櫓を残すのみとなっていた。白川に架かる橋は残っていたような気がする。しかも彼女の話す恰好は雪の中を出陣をする父と自分に追いすがる菊子の姿に重なったのである。
その時、子ども達が大挙して帰って来た。
全員で御堂で勉強すると言って出掛けていたのである。晴れている日は周囲の林に虫を探しに出掛けることが多かった。聖護院町は当時は、木が生い茂るお寺の所領地や別荘地が広がっていたのである。
子ども達は数え歌を声を揃えて歌っていた。
「一かけ、二かけ、三かけて
四かけ、五かけて 橋かけて
橋のらんかん 腰をかけ
はるか向こうを 眺むれば
十七八の 姉さんが
花と線香 手にもって
姉さん 姉さん どこへ行く
私は 九州 鹿児島の
西郷隆盛のむすめです
明治十年 戦役に
切腹なされた 父上の
お墓の前で手をあわせ
なむあみだぶつ
ジャンケンポン」
菊子は青ざめ、「どこでその歌を聞いたのか」と、子どもたちに問い詰めた。
娘の冬子が母の強い声に怯えながら、「自分で考えたのよ。いけなかった」と答えた。
菊子は激しくかぶりを振った。
八重は、すぐに、その歌詞は菊子が、橋の上で口ずさんでいた歌詞だと気付いた。
八重は従軍看護婦や様々な場で不思議な体験をいくつも見聞している。
長い沈黙を破るように久子が声を発した。
「茶の湯の話は私がお受けします」
久子の声に菊次郎と八重が救われた。
「良家のお嬢様結構、偉い華族のお嬢様、大いに結構。西郷隆盛の長男菊次郎夫人が体当たりで、ことに当たります。菊子姉さんも早く元気になって参加して下さい」と、思わず啖呵を切っていた。
「恐れ入った」と菊次郎は頭をかいた。
八重が笑った。
菊子も久しぶりに笑った。
気付いたら雨も止んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます