第5話水辺の奇跡

 初夏の京都はさわやかである。

 桜吹雪が舞う第一次疎水事業で東山の麓の蹴上げから伏見方面に掘削された運河を散歩するのが菊子一家の大きな楽しみになっていた。

 早朝、昼下がり、夕暮れ時の時間帯は選ばない。晴れている日が好きであった。

 運河の水面にはキラキラと光が反射し、まるで線香花火のようを散りばめたように見えるのである。

 近くの別荘地に住む貴婦人や令嬢も散歩道にもなっていた。

 菊子は、そのような時も手袋を欠かさなかった。もちろん日焼け止めのためのものではない。手の甲にアザが浮き上がることを用心してのことである。

 散歩を楽しむ次女と次男は学校での出来事を話してくれた。たわいない子供の話でも親の菊子にとって新鮮な歓びであった。二人の子供が使う言葉の端々にも成長を実感できた。

 京都で生活を始めて一年が過ぎているせいで、アクセントにも京都弁らしい柔らかさが出てきた。

 例えば、十歳にならない次女が語る、今日はな学校で、こんなことがありましたやんえとかいう言葉に思わず、微笑んでしまうのである。

 菊子が連れてきた次女と次男だけでなく、菊次郎と久子夫婦の子供の変化は顕著であった。

 新しい言葉や環境に容易にに馴染めない大人達を尻目に、こどもたちは京都弁を自由に使い、京都の生活に溶け込んでいくように感じた。

 菊子は目を細め子どもの話に耳を傾けていた。

 数年前に世を去った、奄美の母親も、このような些細なことに変化に喜びを感じたはずだと思った。十四歳で別れて、二度と再会を果たせなかったが、きっと母も自分の元気でいてくれると知るだけで幸せに気分になったに違いないと慰めた。


 次女は柔らかい京都弁でのびやかに学校での出来事を話した。

「あのな、よく内に遊びに来て、無駄話をして帰りはる、あのけったいなお婆さんはな、偉い人なんや」

 けったいなおばさんとは新島八重のことである。

「この前な、学校に来なはってな、全校生徒の前でお話をしてくださった。そのお婆さんはな日露戦争で戦場で怪我をしはった兵隊さんをお救いになるため、大陸で大変な働きをされたそうな。驚いたらあかんよ。日本兵の治療だけでなく、敵兵の治療もしてなさったそうな。おばさんだけではなく、日本には日本赤十字というのがあってな、大勢の女性たちが大陸に渡り、人々の命を救いなさったそうな。それでも先の戦争では各家で一人の男子がお亡くなりになられたそうな。多くの華族の跡継ぎも亡くなられたそうな。この前に京都に来られた乃木将軍などは、二人の息子さんを亡くされたそうな。かわいそうなことやな。でも頑張って生きていくと言われたそうや」

 無口な次男が言葉を継いだ。

「戦場で巌お祖父さんにも会ったそうな。伯父さんは、ずいぶん偉い人らしいな。一緒に東京で暮らすお兄さん、お姉さんがうらやましいと思った」

長男、長女は大山家に預けてある。

 親族扶養義務を課せられた明治時代でも理想的な関係ではない。二人は肩身の狭い思いをしているに違いない。もちろん義姉の捨松が二人の面倒を見てくれている。菊子はひっそりと二人の子供のことを案じた。

 不安を打ち消すように次女が、菊子に声をかけた。

「そんなことより、私な、将来、私な大きくなったら看護婦になりたいんや。どうしたらいいか、あのけったいなおばさんが、今度、家に来たら、聞いておいてんな」

と次女は菊子に強請った。

 菊子は微笑みながら了解した。

 次男が割り込んできた。

「あのな、あのけったいなおばさんが言うにはな、その日本赤十字は佐野常民と人たちがな西南戦争の時に造った博愛社という奉仕団体が基になったそうや。その時もな怪我をした官軍と薩摩軍の区別なく治療されたそうや。菊次郎伯父さんも西南戦争で大けがをして足を切りやったのだろう。世話になったちがうかな。その佐野常民という人は、大人になってもすごい泣き虫でな、殿様が亡くなった夜など、かわやに閉じこもり一晩中、泣いておられたそうな」と、佐野常民が泣き虫であったことを自慢した。

 次男は泣き虫だった。

 次女は、「男が泣き虫ではいかん」という具合に弟を責めていた。次男は姉に泣き虫でも大きな仕事が出来るんやと反撃をしたのである。

「常民さんは日露戦争の前に亡くなられたけど、偉い学者さんで、しかも政治家だったそうや。西南戦争は大変ないくさやったそうや。西郷隆盛という明治維新の立役者の大将さんが薩摩軍を率いていなさったそうや。うちのお祖父さんが西郷隆盛やろ。なんで、そんなことになりはったのだろうか」

 大日本憲法発布や帝国議会開催に合わせて父の罪は許されたが、それまで国家の反逆者として扱われていた。

「いくさになると思わなかったのよ。政府に言いたいことがあると、多くで押しかけて行ったから、いくさになった」と菊子は答えたが、白い雪が舞う鹿児島の町を行進する薩摩兵の姿を、菊子は思い出していた。

 雪の降る南国鹿児島の町を出発する青年の多くは戦になるとは思っていないような暢気さと、すがすがしさがあった。

 見送る者たちもそうであった。

 まして負けいくさになるとは思っていなかったはずである。

 ただ菊子だけは、行ってはいけないと泣き叫んでいた。

 「おいどんの命を差し上げましょう」と発言した父には、政府の火薬庫を襲うに至ってはやむを得ないという覚悟があったかも知れない。

 次女が助け船を出してくれた。

「あのな、大人の世界には止むに止まれないと言うこともあるんや。そのうちに、あんたにも分かるようになるわ」

 頭ごなしの説教である。

 次男は悔しくて菊子の手を握りしめた。

 菊子は次男を慰めた。

「きっと、来年の今頃には学校でも教えてくれて、分かるようになる」

「そんなことより、あんたは大きくなったら、何になりたい」

 まだ幼い次男が考えているはずはないと姉は思った。

「あのな、あのけったいなおばさんの話を聞いて、看護婦さんより佐野常民さんの方が偉いと思った。だから佐野常民さんのようになりたい」

「それは、どういう職業や」

「だから、あのおばさんが言っていたやろ。偉い政治家で学者や。今度、あのけったいなおばさんに家に来たら、佐野常民さんのようになるには、どうしたらいいか聞いておいてや」と姉の真似をして、菊子に頼んだ。

 姉は母の手にしがみつきながら、背伸びをする弟が面白くない。

「楽しいことばかりではないんや。きらいな子供がいるんや。その子のせいで友達が学校を来なくなった」と姉が打ち明ける。

 丁度、冷泉橋を渡ろうとしている時であった。

「なんて子なの」

「桑原孝長というのよ。すごく意地悪で、それに嫌らしいのよ」

 手の甲に不快な熱が篭り、全身に身震いを感じた。

 身体を支えるように欄干に手を置いた。

 すると気分は、急激に悪化した。

 胸の動悸もひどくなり、顔は青ざめ、悪寒で顔が歪んだ。

 菊子は慌てて、欄干から手を離した。

 娘はすぐに母の異変に気付いた。

「顔が真っ青や。大丈夫」と言い、娘は桜の下にあるベンチまで母の手を引き、に腰を下ろさせた。

 息子は母の体調の急変に「母さん死なんでな」と泣き出しそうな声を上げた。

 姉は気丈夫に弟を叱りつけた。

「そんなことで死ぬ訳はないから心配しなんや。それでは偉い学者にも、政治家にもなれんよ」

 菊子の具合を回復した。

 母親の顔色を見ながら、娘は、「かあさん、大丈夫」と案じた。

 菊子は娘に秘密を打ち明けることを決意した。

 言葉で打ち明けることはできない。

 白い手袋を脱ぎ、手の甲を娘に見せた。青い痣が手の甲に浮かんでいた。

「この痣が浮き上がると、とても悪いことが起きる不安な気分になるのよ。でも大丈夫」と菊子は、優しく微笑み娘に伝えた。

 娘は不安げに母親の顔を眺めたが、それ以上のことは聞かなかった。

 会話も平常に戻った。

「どのように、いやらしいの」と菊子は娘に聞いた。

 娘は言葉に詰まったが、「すけべなのよ」と吐き捨てた。

 当時の学校は男女共学ではない所が多いが、クラスの垣根を越えて早熟な男子が、女子クラスの子供にいたずらをしかけてくることは考えられた。

 桑原家というと菅原道真の子孫であり、子爵家でもある。その末裔であろうと菊子は想像した。後年、菊子のこの想像は誤っていなかったことが証明された。

 戦前の日本では貴族制度があった。子爵家という言うと、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と言う華族制度の一員である。公爵、侯爵、伯爵に比べたら、皇族に近い立場ではない。ただ華族と言っても貧しい一族であったが、それでも貴族であり、特権階級であった、

 華族に取りなされることを叙爵と言うが、この叙爵の理由から公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、明治維新や日露戦争での武勲や、後年は高額納税で国家に大きな貢献をしたと認められる財閥に加えられることになる。また臣籍降下した元皇族を皇親華族とも称している。特殊な例では神官や宗教関係者も華族の一員に加えられた。

 様々な特権が用意されていた。

 例えば、学歴面では学習院に無試験で入学を許され、大正十一年までは帝国大学に欠員があれば、この学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。当時の旧制高校の定員と帝国大学の定員はほぼ同じで、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を自由に手に入れることができた。

 皇族との結婚や宮中への出入りも許可されていた。

 戦前、存在した貴族院も華族のみで構成され、華族は政治的に重要な役割を果たしていた。

 大資産家もいた。

 大名家などから華族になった武家華族などであり、また後年に華族に叙爵された三菱家や三井家などのが一例である。

 日露戦争後は、軍人が叙爵をして華族に取り立てられている。

 多くの国民は華族が憧れたが、それに背を向けた人物もいる。

 原敬がそうである。

 第十九代内閣総理大臣に就任をしたが、平民宰相と呼ばれたが、決して平民出身ではない。盛岡藩の家老職を継ぐ家柄の出身であり、平民宰相と呼ばれる理由は華族になることを断り続け、平民のまま総理大臣に就任したからである。


 西郷家では隆盛の嫡子ということで一九〇二年(明治三十五年)、日露戦争の二年前に侯爵になっている。

 菊子が嫁いだ大山家では、大山巌が公爵という華族の最高位まで上りつめている。

 明治維新前の主家であった島津家は、版籍奉還の代償として国家支払った莫大な一時金を他の華族と同様に銀行開設などに運用し、武家華族として栄華を誇っていた。

当然、この制度や富の格差は現代の日本では考えられないような道徳観念を生み出した。一婦多妾など当然の道徳観念であった。明治天皇の後宮に集められた多くの華族令嬢にかせられた役割は、天皇家の血筋を絶やさないために設けられたものであったと切って捨てる者もいる。

 男女の欲望は、この時代でも様々な事件を引き起こした。

 堀江六人斬りと言う事件が日露戦争の最中の前年に大阪の堀江遊郭の貸座敷の山海楼で起きている。主人の中川万次郎と言う五十一歳の男が酔った勢いで家人六人を次々に斬り捨てるという凄惨な事件である。動機は内妻が男と共に家出するのを家人が知っていたにも拘らず、黙っていたことに腹を立てての犯行であった。

 彼は五、六人の愛人を抱えていたと言うふしだらな男で逃げた内妻も先妻の姪で先妻が不在の隙に手籠めにして手に入れた妻であり、同情は殺害された内妻の家族に集まった。

 嬰児の間引きなどの噂は耳にした。

 貧困で育てることのできない両親の間に生まれた嬰児を殺す仕事が成立していた。嬰児を取り上げて産婆が養子先を探すと言い、手数料を受け取り、そのまま嬰児殺しに渡すなどが事件などが露見している。

 菊子の次女、次男がけったいなおばさんと評する八重は、このような社会に対する鋭い嗅覚と世相に反抗する意義もあった。

 狂気は伝染するようにも思えた。菊子自身が人生を振り返って、明治十年の西南戦争で父を失い、誠之助と一緒になってからの人生は、正気を逸していたように思えた。

 地域や時代が異なっても、それを越えて、文字や言葉を通じて伝染するのである。しかも人間特有の非現実的な妄想が作用し肥大化する。

 娘がスケベと酷評し、嫌う桑原孝長という子供も、その犠牲者の一人になるかも知れないと菊子は感じた。そして彼も狂気をまき散らし、新たな犠牲者を産む加害者となるのである。

 静かな運河の水辺を次男次女の手を引き、散策する菊子は狂気と別世界にいるような気がした。みずから歩んだ苦しい人生を振り返ると、奇跡的な出来事に思えた。


 華族制度は時代の流れとともに変化していく。

 大正時代には雑誌などの表紙を華族令嬢が飾ることも多く、今のアイドル的な存在であったが、関東大震災で家屋を失い路頭に迷う華族も現れ、昭和恐慌で華族で運用をしていた第十五銀行が倒産する頃から権勢は衰え始めた。

 華族制度は太平洋戦争で日本が敗れた後も、昭和二十二年までしばらく続いた。

 西郷隆盛の長男である菊次郎は庶子という立場で無縁の世界であった。


 結局、菊子は冷泉橋で感じた強い悪感の原因となる事件には出会わなかった。そして一九〇八年(明治四十二年)に四十六歳の若さで他界した。

 幸多い人生とは言い難い一生であった。


 時代は大正に変わった。

 幼かった次女も家庭を持ち、子供を授かった。彼女は水辺の散歩を楽しむことを日課にした。

 伯父の菊次郎は結核を患い市長の職を離れたが、計画をした事業は順調に進み、京都は近代都市として生まれ変わりつつあった。だが母親の菊子が生きていた頃と伏見に伸びる運河沿いの景色は変わらなかった。

 桜満開の静かな夕暮れであった。

 今は冬を間近いに控える時期であり、作者の気まぐれで菊子の次女の名前を冬子とさせて頂く。

 冬子は、首が座りかけたばかりの乳飲み子を抱えて、紅色の桜が白い雪のように舞う運河沿いの散策を楽しんでいた。

 丁度、冷泉橋の間近にした時である。

 手の甲に悪寒を感じた。

 手の甲を見ると、菊子が白い手袋を脱ぎ見せた痣と同じ模様の痣が手の甲に浮かび上がっていた。

 冬子は慌てて、手の甲の痣を周囲の視線から隠し、同時に乳飲み子を護るように胸に強く抱きしめた。

 母が告白した不安に胸を押しつぶし、理由を探ろうと周囲を見回した。

 冷泉橋の欄干は桜の葉の陰にあった。

 注視すると、木陰に見覚えのある男が立っていた。

 逢いたくない男であった。

 冬子は人を嫌ったことはない。あの男だけは別であった。

 母の菊子に嫌悪感を告白した桑原孝長であった。

 冬子が母に険悪感を告白した時は十歳にすぎなかったが、すでに十三年が経過していた。すでに二十六歳に成長していた。

 長い月日でも桑原の性根は変わらなかった。むしろ性に対する妄想は肥大化し、悪質化していた。京都中に彼の行動は知れ渡っていたと言っても過言ではない。

 二条離宮で職を得ていたが、子爵という地位を利用し、様々な女性と関係を持つと言う漁色の癖はひどくなる一方であった。

 妻を娶ったが、その悪行は改まらず子供をなさないということで妻を離縁した。

 その後も飽きずに漁色は続け、女に多くの子供を孕ませた。

 当時は女性が堪えねばならない風潮であったかも知れないが、桑原の度を超した行動に周囲は眉をひそめた。


 冬子が桑原の姿を認めた時には、彼は美人で名高いうどん屋の妻に懸想し、女を連れて大阪方面に駆け落ちしたと言う噂を耳にしていた。

 身分の低いうどん屋の女房にとって、彼の子爵という地位は、まばゆい光を放つ物であった。

 ところが女はすぐに桑原の薄っぺらな正体を見抜き、愛想を尽かして亭主の元に逃げ帰った。

この駆け落ち騒動で桑原は職を失った。

 手の甲が熱くなる一方である。

 痣の色彩も濃くなっていった。

 悪寒で嘔吐をもよおした。


 橋の欄干に手を置く桑原に女が近付いて来た。

 色白の美しい女性であった。

 噂に聞くうどん屋の妻に違いなかった。

 女は桑原にひどい言葉をかけた。

 桑原は負けずに、女に復縁を迫った。

 女は拒絶し続けた。

 これまで多くの女を相手にしてきたが、桑原はすがりつく思いであった。女を捨てることはあっても捨てられることはなかった。今回の騒動で彼は生活の糧を得る二条離宮での職を失ったばかりでなく、これまでの漁色で多額に借金も抱えていた。

 彼は背中に拳銃を隠し持っていた。

 女を脅かしてでも連れていこうと決意していたのである。

 女は、すでに桑原に一切の未練も感じていなかった。

 彼は背中に隠し持っていた拳銃を女に向けた。

 もちろん女は逃げた。

 赤子を抱えた冬子は動けるはずもなく、夕暮れの桜吹雪舞う冷泉橋を狂気で走る一体の男女の姿を見送るしかなかった。逃げる女を追う桑原の胸中には様々な情念が去来した。女のせいで職を失ったこと。その女を失えば、すべてを失うこと。怨みと欲望、情念に駆られて彼は女を追った。追われる女は、背後に迫るキチガイに恐怖し、逃げた。

 一説によると女が亭主のうどん屋の家まで辿り着き、激しく戸板を叩く時に、桑原は拳銃の引き金を引き、背後から撃たれた女は戸板とともに家の中に崩れ落ちたと言う。

 女を射殺した桑原は逃亡を企てたが、事件から九日後に京都の北の山科に隠れる彼を警備中の巡査が捕らえた。彼は無期懲役の刑を言い渡され、昭和二年、獄中に寂しく死んだ。桑原孝長は多くの子供を残したが、事件を起こした翌年の大正八年に爵位は返上され、家名は断絶している。

 

 この事件を切っ掛けに冬子は自らの能力に気付いた。そして母が語り残したことを思い知ったのである。


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