後編
その晩、博士は駅前のカプセルホテルに泊まった。
次の日の朝、ホテルを出た博士は一件の電話を掛けた。
「もしもし、すいません。線路に人が入ったようなんです。……ええ、チュウブ線のアサノ駅とニシウラ駅の間の踏切です」
『お知らせ、ありがとうございます! 確認いたします!』
博士が携帯電話の時計を見ると、午前七時四〇分だった。
未来のニュースで見た、この日の人身事故の発生時刻は、午前七時四三分だった。これから安全確認を行えば、事故の発生を防げるだろう。
博士は後ほどニュースを調べたが、アサノ駅とニシウラ駅の間で人身事故が発生したという記事は見当たらなかった。代わりに、チュウブ線の遅延情報が見つかった。
これで、事故に遭ったという十代の少女は生き残っただろう。あの事故が本当に事故だったのか、少女のこれからの人生がどうなるかはわからない。が、少なくとも「木曜の朝、列車事故で死ぬ」という事実は変えることができた。
「実験は成功だな」
二つ目の実験も、これで終わった。
二つの実験を通して、博士は過去が変えられること、過去を変えると、現在もその変化に辻褄を合わせるように変化することを確かめることができた。
博士が過去にタイムスリップして、二十三時間が経った。
博士が研究所に戻ると、過去の博士がタイムマシンを完成させ、二十三時間前に旅立ったところだった。
「おや……?」
博士は一瞬、不思議に思った。デスクに置いてきたと思っていた携帯電話がなかったからだ。
だが、すぐにそれが自分の勘違いだったことに気づく。携帯電話は昨日、未来の私に渡したじゃないか。
博士は、実験の結果を早速レポートにまとめ始めた。
ピピピピピッ……!
デスクの置き時計がアラーム音を鳴らした。
「もうこんな時間か」
午後六時四五分だった。いつもそうだが、夢中になって作業をしていると、あっという間に時間が経ってしまう。
午後七時には夕食を一緒に食べるというのが、博士と妻のヒナコの間で決めたルールだった。
博士は手早く片付けを終えて、研究所を後にした。
「遂に完成したんだよ。タイムマシン」
「本当なの!? すごいじゃない!!」
夕食のテーブルで。
博士がヒナコにタイムマシンの完成を伝えると、ヒナコは手放しで驚いた。
「もう駄目かと思っていたわ。世紀の発明になるわね!」
博士はうなずいた。
「だがこの発明はまだ不完全だ。なにせ、過去に戻ることしかできないんだから。装置をもっと小さくして、未来にもタイムリープできるようにしなければ、過去に行ったまま帰ってこれない」
「どのくらい前の過去までさかのぼれるの?」
ヒナコは興味津々という様子で訊ねた。
「理論上は、無限。だけど正直、何が起こるかわからないから、マシンの設定としては、今のところ百年前までにしているよ」
「それでもすごいわね。でも、百年前に行けることを証明するのは難しいわね」
「まあ、それ自体は放射性物質の半減期を利用すれば、それほど難しくはないよ。ただ、どうやって百年前にタイムスリップしたそれを回収するかだな……」
明日、やり方を考えてみるよ。博士はそう言った。
「君の助けがなければ、この研究はここまで実現しなかったよ。ありがとう」
食事を終える頃、博士は本心から妻に礼を言った。実際、世渡りが下手で研究しか能のない博士は、妻の献身的な支えがなければ生活すら危うかっただろう。
そんなことないわ。とヒナコは、洗い物をしながら答えた。
*
その夜。
博士が深い眠りに就いたことを確認したヒナコは、自宅をこっそりと抜け出し、研究所に向かった。
彼女は鍵を開け、所内へ通じる扉を開いた。タイムマシンの所在は、お昼に博士に食事を運んだときに確かめていた。操作方法も、夕食時に博士からある程度聞き出したので、わかるだろうと思った。
ヒナコには、どうしてもやり直したい過去があった。それは十二年前、夫である博士と交際を始める前のことだ。当時、彼女には別の恋人がいた。
ヒナコの恋人は医者で、あるとき、海外の有名な病院に勤務することになった。
「必ず戻る。帰ってきたら、結婚してくれ」
「嫌よ」
恋人のプロポーズを、ヒナコは断った。先行きが見えないことが不安だった。――というのは建前で、本当は行ってほしくなかったのだ。
恋人の乗った飛行機は事故で墜落し、ヒナコはその後、彼に永遠に会えなくなってしまった。
過去が変えられるのならば、あの日に帰りたい。ヒナコはずっとそう思っていた。
ヒナコはタイムマシンの行き先を十二年前にセットし、過去へ旅立った。
*
翌朝、博士は目覚めると、一人で軽い朝食を済ませ、自宅内の書斎兼研究室へ向かった。
はて。いつも誰かと一緒に朝食を取っていたような気がするのは、なぜだろう。
生涯独身の博士の自宅は、散らかり放題だった。
その日、博士がデスクの引出しをあさっていると、十年ほど前に書いた論文が見つかった。『過去への時間旅行に関する基礎理論』というその論文は、学会で誰の関心も買うことなく、お蔵入りとなった。
「まだこんなものが残っていたのか」
博士はそれをゴミ箱に捨てようとした。だが満杯だったので、仕方なくゴミ箱の上に無造作に放置した。
十年前といえば――。
博士は、その頃に開かれた高校の同窓会のことを思い出した。
かつての高校のクラスメートの中に、ムライ・ヒナコという女性がいた。明るい女子生徒で、変わり者の博士にも平気で話しかけるような人だった。十年前の当時は、既に結婚しており、もう間もなく子供が生まれる頃だった。確か、夫は医者だったと思う。
博士は、同窓会の席で彼女に励まされたことを思いだした。
「あなたなら、きっとできるわ」
「馬鹿げてる。そんなことを言うのは君だけだよ」
「私は本気よ」
博士の心はその瞬間、揺れた。だが、その気持は長続きしなかった。結局、博士は時間旅行の研究を諦め、投げ出してしまった。あるいは、彼女のような女性がいつも傍にいて支えてくれれば、違ったかもしれないが。
「あれ……?」
博士は、自分の頬を伝う涙に気がついた。おかしい。そんなに感傷的になるほどのことじゃないだろう。
博士は涙をごしごしと拭った。その後、昔の論文の表紙をビリビリと破って、切り離してみた。その破いた表紙で紙飛行機を作ると、部屋の入口のドアに向かって、ひょいと飛ばした。
適当に作った紙飛行機はよく飛んで、開けっ放しのドアの向こうまで行き、見えなくなった。
(了)
博士と思い出の時間旅行 卯月 幾哉 @uduki-ikuya
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