50 きしむベッドの上で優しさを持ち寄り

 JR長門市駅に向けてランドクルーザーを走らせながら、息が止まりそうになるのを感じる。

 奈緒美が今長門にいることが信じられない。もちろん、今日はエイプリルフールなんかではない。

 だが、彼女は本当にそこに立っていた!

 人気ひとけの少ない駅舎の入り口で、キャメルのコートを着て、ボストンバッグを持っている奈緒美が、やわらかな冬の日差しに照らし出されている。まるでさびれた風景の上にそこだけ新しい画像を貼り付けたようだ。

 車から降りて歩み寄ると、奈緒美はふと顔を上げる。

「よく、来てくれたね」

 三谷は言う。声が震えて、言葉がちゃんと出てこない。

「ごめんなさいね……」

 奈緒美は三谷の顔を見た後でうつむく。彼女の背後を、部活帰りの高校生や、地元の高齢者が行き来する。

「許してもらえないって分かってるのよ。でも、ちゃんと謝ろうと思って。ほんとうに、ごめんなさい」

 奈緒美はげんなりと頭を下げる。

「許すも何も、まさか、ここまで来てくれると思わなかったから……」

 三谷は自分でも何を言っているのか分からない。口の中は砂漠のように乾ききっている。


 奈緒美を助手席に乗せ、とりあえず国道を西に向かって走る。

「いったい、何があったっていうんだろう? 俺が地雷でも踏んだんだろうか?」

 奈緒美は何も言わずにうつむいて首を振る。

「もう、2度と会えないと思ったよ。しかも……」

 しかも、人生をかけた花園予選の間に死ぬほど苦しんだんだ! とまでは言わない。感情的になりすぎると後で悔いが残る。河上屋たちとのやりとりから改めて学んだ経験則だ。

「タロウさんには、謝ることしかできない。本当はここに来ることも許されないと思うし、あなたの車に乗せてもらうのも虫が良すぎると分かっているつもりなの」

「いや、俺も薄々気づいてたんだ。君はずっと苦しんでいた。だのに、君の思いを汲まずに山口まで来た俺にも問題があったんだ。君の身に何があったのかは知らないけど、元はといえば、自分のわがままが招いたことだって分かってるよ。それより、今日ここに来てくれて、ホッとしてるよ」

 カーブを曲がると、窓の外には日本海の青色が広がる。小さな白い波が、斑点のように上がっている。

 しばらくして、奈緒美が言う。

「試合、観に行ったのよ」

 思わず彼女の横顔を見る。

「もしかして、あの観客席に座っていたのは、奈緒美だったの?」

「え? って、どういうこと?」

 奈緒美は初めて表情を緩める。

「いや、試合中、何度も君の幻影を見たんだ。ここにいてくれたら、どんなに良いだろうって、何度もそう思ったんだ」

「いたわよ。でも、タロウさんには気づかれなかったわ。ものすごく集中してたから」

「全然気づかなかった……」

「あの試合、これまで見てきた中で、最高のゲームだった。涙が止まらなかった。選手のみんなは、タロウさんを信頼して、尊敬して、最後までついていった。タロウさんがいつも口にしていた、ラグビーとは教育ツールだという理念が、選手たちのプレーに現れてた。だから、あんなに感激したの。会場にいた人にもちゃんと伝わったはずよ。選手たちは、本当に幸せだと思ったわ」

 三谷の頬には本物の涙が伝う。それはたぶん、安堵の涙だ。少しずつ、自尊心が回復していく。

「でも、俺はラグビー部を外されることになった。来年から、新しい監督が来るんだ」

 奈緒美は素早く三谷の方を向く。

「どういうこと?」

「宇田島のおっさんが仕組んだんだ。俺が独自のやり方でチームを強化したのが気にくわなかったんだよ。今や俺は、あのおっさんにとっては、なんだ」

 奈緒美は窓から流れ込む陽光を受けながら、石膏でできた彫刻のように、完全に動きを止める。

「それは、あんまりだわ」

「いいんだよ。もうさんざん悩んだし、俺の力ではどうすることもできないっていう結論に達したんだ。所詮俺は、雇われの身なんだ」

 彼女は窓の外に目を遣る。

 空と海の青が、水平線で接している。

 

 その夜、奈緒美はベッドの中で三谷の胸にうずくまってくる。

 

 彼女は、かねてから三谷が恐れていたとおり、別の男性から思いを寄せられていた。それは会社の後輩だった。

 誠実な性格で、彼女を深く愛してくれた。三谷が山口へ行ってからというもの、寂しい思いをしてきた奈緒美はそれがうれしかった。その一方で、三谷に対する後ろめたさがあったのもまた事実だった。

 今年の3月、真剣に付き合ってくれと告白された。以来、彼女は悩み抜いた。6月に長門に来たときには、苦しみから解放されたいという一心だった。

 あの日、東京に帰って彼の顔を見たとき、自分はなんて罪深い女なのだと絶望した。

 それ以降、三谷の声を聞くのが恐ろしくなった……


「じゃあ、何で、今日、ここに来たんだ?」

 三谷は傷ついた心でささやきかける。

「どうしても、タロウさんに会いたかったの」

 奈緒美は涙をすする。

「あの試合も観に行くべきかどうか、悩んだのよ。でも、どうしても、自分の目で確かめたかったの。タロウさんの集大成を。あの試合を見て、あなたの夢への思いが私の想像を超えるほどに強かったということがよく分かったし、あなたが人生をかけてラグビーと教育に取り組んだことが伝わったわ。私、あなたに対して、取り返しのつかないことをしてきたと思って、申し訳なくなって、新山口駅から電話をかけたのよ。そうしたら、あなたと太多さんが車から出てくるのが見えて、思わず切ってしまった。私はあなたに会う資格なんてないって」

「でも、いくらなんでも、俺からの電話には出てほしかったな。苦しかったよ」

 三谷はそう言い、彼女の髪を撫でる。

「本当にごめんさい。でもね、時間が経つほど、あの試合の感動が忘れられなくなって、思いが抑えられなくなった。タロウさんと別れてしまったら、一生後悔するような気がしてきた。あなたの近くで夢を見られたらどんなに幸せだろうって、はっきり悟ったの」

「もっと早く、俺のことを分かってほしかったな」 

 心を震わせながらも、三谷は何とかおどけてみせる。それから、奈緒美を抱きしめる。安物のパイプベッドのきしむ音が漆黒の部屋に静かに響く。

「ところで、来年から俺は、どうすればいいんだろう?」

 彼女の耳元でつぶやく。

「タロウさんがやりたいことをやるべきだし、夢を貫くべきだと思うよ」

「俺の夢って、何だろう?」

「それは、私みたいな愚か者が言えることじゃない。タロウさんが思うようにしたらいいわ」

「俺の夢に付き合ってくれるかい?」

「付き合っても、いいですか?」

「俺だけを愛してくれるならね」

「あの人とは、もう会っていない」

「本当かい?」

「ウソだったら、ここには来ないわ」

 三谷はさっきよりも強く抱きしめる。胸の中に生まれたどろどろした思いを押しつぶすように、身体をすりあわせる。この身体は、もう俺だけのものなのだと。

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