32 漁火と星座

「すごく素敵なところね、長門って。来てよかったわ」

 ホテル楊貴妃のダイニングで、和牛のソテーを切り分けながら奈緒美は言う。

「なんだか、安らげるわね。食べ物もおいしいし」

「最初は孤独との闘いだったけどね。住めば都、って言われるけど、案外ここは俺に合ってるのかもしれない」

「タロウさん、国語の教師だからね。金子みすゞとか香月泰男とか、文化的な香りがするのがいいんじゃない?」

「おいおい、って言わなくていいよ。俺はどこからどう見たって国語の教師だろ?」

 奈緒美はおかしそうに笑いながら、ソテーを口に入れる。


「最近ね、両親が何かとうるさくなってきてるのよ」

 奈緒美はだしぬけに切り出す。三谷は口の中に入れていた和牛の味をたちまち失ってしまう。

「あ、ううん、気にしなくっていいのよ。べつにタロウさんにどうこう言うつもりはないの。ただ、けっこう気が滅入ってたのよ」

 奈緒美は今年で30歳になる。彼女の父であり、彼女の会社の経営者でもある父親が、そろそろ娘の結婚についてプレッシャーをかけ始めているということは彼女の言動からそれとなく伝わっている。しかも、父親は見合い話をもちかけようとしているという噂も共通の知人から聞いたこともある。

「いずれにせよ、今年の花園予選が終わってから考えようという思いには変わりはないよ。待たせてしまって本当に申し訳ないと思っているけど、今は俺の人生の中で大きなチャンスなんだ。もしここで花園に行って結果を残せば、ひょっとして関東の高校からオファーが来るということも考えられる。さんざん悩んだ末に決断してここへ来たんだ。今年1年、やりきるよ」

 奈緒美は泣きそうな顔で笑う。

「私はね、べつに東京じゃなくても生きていける、と思いたいのよ。特に今日はすごくいい時間を過ごせたし」

 奈緒美の心中を察すると頭の中がいっぱいになって、言葉が出てこない。


 ホテル自慢の温泉に浸かり、部屋に入って、ルームサービスのカクテルで乾杯する。地元の「ゆずきち」というシトラスで作られた甘酸っぱいカクテルが1日の思い出をさらに彩る。

 大きく取られた部屋の窓の外には油谷湾が広がり、漁火いさりびが星座のように点在している。湾の向こうには向津具半島が横たわっていて、その真ん中辺りの高台には、向津具学園の外灯もわずかに見える。


 明かりを落とした後、ベッドの中で奈緒美は強く抱きついてくる。彼女の中のありとあらゆる感情を身体ごと伝えようとしているようだ。

 とにかく、あと1年やり切ることしかできないと、奈緒美のぬくもりを感じながら改めて思う。

 もしかすると奈緒美を長門に呼ぶことになるかもしれない。だが、そのためにはあまりに多くの障壁が存在する。彼女は、恵比寿の会社の社長令嬢なのだ!

 どうしたらいいのかまるで分からない三谷は、その苦悩をぶつけるかのごとく彼女を強く抱く。

 奈緒美の頬は涙で濡れている。


 それからというもの、奈緒美からの連絡ぱったりと途絶えてしまった。

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