31 2人きりのブルー
❶
「うわあ、すごーい」
フロントガラス越しに日本海が広がった瞬間、奈緒美は声を上げる。昨日までの梅雨の長雨がウソのように、絵画的な空の青が海に映り込んでいる。
「こんなにも素敵な海が日本にあったのね……」
向津具半島の北側は日本海の本流が打ち寄せるために、切り立った崖が続き、そこにしがみつくかのように小さな集落が点在している。日本の漁村の原風景だ。
「なんだか、昭和の時代にタイムスリップしたみたい」
「それって、褒め言葉?」
「もちろんよ。朝まで東京にいたことがウソのようだもの。心が洗われるわ」
三谷は素直にうれしい。
「タロウさんのおすすめスポットって、あそこのこと?」
「そうだよ。今、世界の注目を集めてるんだ」
「へえ」
「アメリカのCNNが『日本の絶景31選』に認定してから、SNSで広がって、今ではかなりの観光スポットになっている」
「やっぱり、SNSの力って、どこに行ってもすごいのね。逆に、東京を離れるとよく分かるわ」
「さすがに東京にはかなわないだろ?」
「ううん。東京にいると情報が多すぎて、いろんなことに対して鈍感になってる気がするのね。その点、地方に来てみると、見るものすべてが心に入ってくる。しかもすごく新鮮な形で」
「そんなもんかなあ」
「そもそも東京にいると、地方創生なんて他人事みたいに聞こえるもの。ここの海も空も、東京湾とか新宿の空とは、全然違うわよ」
駐車場にランドクルーザーを停め、2人は外へ出る。
「ああ、空気がおいしい。身体の隅々にまで行き渡る」
潮風が、彼女の黒い髪と白く薄いワンピースを揺らす。
少し歩くと、眼下には、深く青い海がどこまでも広がり、その手前に真っ赤な鳥居の連なりが姿を現す。今日は海の青と鳥居の赤のコントラストがことのほか鮮やかだ。多くの参詣客たちはスマホをかざして風景を撮影している。
「ここが、
三谷はすっかり自慢げになっていることを自覚する。
崖の下まで降りてみると、稲荷神社の無数の赤い鳥居は、まるで日本海から這い上がる龍のようにも見える。
「すごい、すごすぎる……」
奈緒美は何度も言い、全景を見上げる。興奮気味にスマホのシャッターを切る。まるで少女のようだ。
最初の鳥居をくぐり、その中に続く坂を上っていく途中、鳥居の隙間からは、轟音を上げて断崖に打ち寄せる白い
頂上をきわめると、こぢんまりとした本堂がある。2人は両手を合わせて、各々の願いを心に唱える。
「タロウさんはどんな願い事をしたの?」
「今年花園に行けるように、それと、奈緒美とたくさん会えますように、と願ったよ。奈緒美は?」
「秘密よ」
「なんだよ、教えてくれよ」
彼女は何も答えずに、海を眺めている。
本堂から駐車場に向かうところには、行列が連なっている。5メートルはありそうな鳥居の高い所に設置された賽銭箱に小銭を投げ入れているのだ。
「ここの名物だよ。あの中に1発で賽銭が入ったら願い事が叶うって言われてるんだ」
「どうしよう、やってみようかしら」
「やってみなよ」
「でも、もし入らなかったら、不吉な予感がするじゃない」
「大丈夫だよ。ほんの遊び感覚でやってみたらいいんだ」
奈緒美は小銭入れから5円玉を取り出し、額の前で何かを念じた後、全身を使ってそれを放り投げる。
5円玉は少し左に逸れたように見えたが、潮風と陽光を受けてきらりと輝き、そのまま吸い込まれるように賽銭箱の中へ消えた。最後は、ガチャという音がした。
「やったー」
奈緒美は白いワンピースをはためかせながら、飛び上がって喜ぶ。周りの参詣者からも拍手が上がる。こんな無邪気な奈緒美は、これまで見たことがない。
「願いが叶うかもな」
三谷がそう言うと、奈緒美は黙って微笑み、前髪をかき分けた。
❷
午後からは長門市内を巡る。
まず、童謡詩人・金子みすゞの家があった
「この
奈緒美は直筆の詩に目を落としながらつぶやく。
「実は俺もここに赴任した後で知ったんだ。国語教師なのにな」
「それにしても、金子みすゞの人生って、せつないわね。結婚生活も悲劇的だったのね。当時の女性って、こんな人生が多かったのかなあ。きっと、この方のやさしい言葉は、人生の苦しみから紡ぎ出されてるのね」
奈緒美の言葉にはなにやら実感がこもっている。
「この詩人は、言葉の世界にユートピアを求めたんだと思うね」
「そう考えると、言葉の力って、大きいわね。私、最近、特にそう思うわ」
奈緒美はうつろな瞳で金子みすゞの肖像に目を遣っている。一瞬、金子みすゞが、奈緒美に見えた。
❸
記念館の外で瓶のラムネを飲んでひと息ついた後、次は洋画家・
「ちょうど先週だったかしら、NHKでこの画家の特集をやっていたわ。『シベリアシリーズ』を描いたのよね。あの独特の顔をした捕虜が並んでいる油絵ね」
「さすが奈緒美だ。よく知ってるね」
「家にいる時はテレビばっかり観てるのよ」
辺りには緑の香りが立ちこめている。この
こぢんまりとした瀟洒な美術館には、その《〈私の〉地球》と題する油絵が展示してあり、作品に寄せた画家の言葉が添えられている。
私の手が中央にあり、その周囲に三隅の町を描きこんだ。三隅川があり、日本海があり、
「香月泰男にとっては、ここが地球の真ん中だったわけね」
奈緒美は膝に手をやり、言葉を味わっている。
「たしかに、よく考えれば地球は丸いんだから、今いる場所こそが真ん中だという論は成り立つかもな」
「東京が中心だっていう考え自体が1つのステレオタイプなのかもしれないわ。シベリアシリーズも、もしかしたら東京じゃ描けなかったかもしれないわね。ここだからこそ、香月はインスピレーションを感じたのかもしれない。そうなのよ、今いる場所こそが、地球の真ん中なのよ」
奈緒美は自らに無理矢理言い聞かせているようでもある。
彼女は視線を絵に移す。
黄土色の中央だけ漆黒で塗り固められ、よく見るとそこに手の形が刻まれている。その黄土色と黒い手の隙間に描かれる小さな亀裂のような青色が、哀しいくらいに鮮やかだ。元乃隅稲荷神社で見た空と海の
ナガト・ブルーとでも言えそうなほどの青だ。
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