12 こんなにも人を好きになったことはなかった
❶
「というわけで、そっちに行けそうにないんだ」
三谷は申し訳なさで押しつぶされそうになりながら口を開く。奈緒美はしばし沈黙した後で、こう返す。
「何となく、そんな気もしてたけどね……」
彼女は笑ったつもりだろうが、それはほとんどため息だ。
「ごめんな、ほんとに。ラグビーだけじゃなくて、テストも作らなければならないんだ。この学校は教員が少ないから、作るテストも多くてね、もう自転車操業なんだ」
「まあ、ね、仕方ないのかなあ。そうやって一生懸命になるところがタロウさんのいいところでもあるし」
「ほんとにごめん。夏休みには必ず会いに行くよ」
奈緒美は沈黙した後、こう漏らす。
「でも、やっぱり、寂しいな……」
無理をしてでも上京するべきじゃないかと本気で揺れ始めたとき、奈緒美は開き直ったように言う。
「で、いつなの、3年生の最後の試合って?」
「6月10日だ。本当は15人制で出たいんだけど、あと1人部員が足りないから、7人制での出場になってしまった。だから、どうしてもこれを最後にしたくはないんだ」
「3年生とは話をしたの?」
「いちおうはね。でもこればかりはなかなか難しいんだ。彼らの受験が絡んでるし、なにより出会ってからまだ2ヶ月しか経ってないから、人間関係も出来ていない。でも、ここで3年生が引退してしまったら、花園はおろか、マジで廃部になってしまう。それじゃ、誰も幸せになれないし、俺がここに来た意味もない」
奈緒美は、今度は間違いなく、ふっと笑う。
「じゃあ、タロウさんにとっては、すごく大事な試合になるわけね」
「ある意味、俺がここで監督をするうえで、一番大事な試合になるかもしれない」
「よく分かったわ。あれだけ悩んだ末に、決断してそこに行ったんだから、後悔しないようにしなきゃね」
「ごめんな、いろいろと迷惑かけて」
「いいのよ。それより試合の情報ってウエブサイトで見られるの?」
「山口県・ラグビーで検索したら見られるようになっているよ」
「もちろん、7人制の試合もよね?」
「もちろんだ」
「ありがとう。楽しみにしておくわ。身体には気をつけて、がんばってね。また電話するから」
そう言い残して奈緒美は静かに電話を切る。後にはものすごく深い沈黙だけが残る。
この先も奈緒美が電話をかけてきてくれる保証などどこにもない。彼女は自分には不釣り合いだし、周囲には多くの男性との出会いもある。そんなことを想像すると、今すぐにでも飛行機に乗らなければ済まない危機感に駆られる。
だが、自分は1度決断したのだ。ラグビーの監督を経験しておかなければ、今後の人生において必ず後悔する。3年以内に花園に出場することに今は集中するべきなのだ。
たぶん。
間違いなく……
三谷は缶ビールを一気に飲みし、その後で大きく息を吐き出す。脳裏には奈緒美の幻影が投網のように大きく広がっていく。
❷
中間テストの1週間前からは、部活動も1時間限定となる。この日は雨で、部員たちはトレーニングルームで筋トレをすることになっている。
ワイシャツ姿のまま足を運ぶと、ベンチプレスをしていた河上屋が立ち上がる。隣には見慣れない生徒がいる。
「先生、こいつが今日から入部します」
その生徒は緊張した面持ちで、一礼して自己紹介する。
「
全く予期せぬ待望の新入部員に、三谷の胸はたちまち沸き上がる。
「河上屋の紹介なのか?」
「そうです。こいつ、運動神経やばいですよ。僕が通ってるバスケのクラブのメンバーなんですが、チームの得点王です。それに中学まではサッカーやってて、山口県選抜にも選ばれてるんです」
「どうしてサッカー部のある高校に入らなかったの?」
三谷は素朴な疑問を投げかける。
「近くにサッカーが強い高校がなかったからです。遠くに行って下宿をするのも嫌だったんで」
「いくつかの高校から声がかかったんだけど、こいつ全部断ったんですよ。もったいない」と河上屋は補足する。
「なるほど。じゃあ、なんでラグビーを?」
すると河上屋がさらに答える。
「こいつの兄ちゃんが、東萩高校のスタンドオフだったんです。去年の県決勝で周防高校に負けて花園には行けなかったけど、全国の東西対抗戦のメンバーに選ばれたんです。今年から大学でもラグビーやってて、家族はラグビー一家なんですよ」
「すごいじゃないか。お兄さんはどこの大学に行ったんだ?」
三谷が神村に向けて問うと、「関東大学です」と控えめに答える。
関東大学といえば、大学選手権の常連で、昨年は日本選手権まで駒を進めた実力校だ。三谷も大学時代に対戦したことがあるが、選手層は厚く、外国人選手もいたりして、1度も勝つことはなかった。
「よしわかった。ぜひ一緒にやろう」
三谷が力強く言うと、再び河上屋が口を挟んでくる。
「で、憲治も僕と同じく、週2でバスケのクラブに通うんで、よろしくお願いします」
だが三谷は、あえて河上屋の顔を見ない。
「ところで神村君のラグビーの目標は何だい?」
神村は爽やかな笑顔を浮かべながらも、やや首をかしげて言う。
「いやー、正直、やってみないとわからないですね」
「花園には行きたいか?」
「そりゃ、行きたいです。兄ちゃんからいろいろと話を聞いて東萩高校に行くのをやめたんですけど、向高で勉強をしながら花園に行けるんだったら、そりゃ行きたいです」
「わかった。で、神村君は、バスケもやりたいんだね?」
神村は笑顔のまま、一瞬横目で河上屋を見た後で、ええ、まあ、と答える。
❸
明くる日は、所々水たまりがある中、グラウンドで練習した。
神村のラグビーセンスは、三谷の予想を遙かに超えていた。何度か兄の練習につきあったことがあるということを聞いて多少は納得したが、それにしても、数年かかってもここまで動けない選手もいることを考えると、ただただ驚くしかない。
練習の最後に、コンヴァージョンキックの蹴り方を教えてやる。
ゴールの位置を確認してキック・ティを置き、丁寧にボールを立てる。それからボールまで最適な歩数を数えさせたのち、腹式呼吸で集中力を高め、助走をつけて蹴り出す。
サッカーで培った美しいインステップキックは力強い音を立ててラグビーボールの芯にヒットする。ボールは縦に回転しながら夕陽を浴び、そのままゴールのど真ん中をきれいに抜けていく。後ろで見物していた上級生からはため息交じりの歓声が上がる。
三谷はこの時、満員の花園ラグビー場で神村がゴールを決める瞬間をはっきりとイメージする。観客席には奈緒美もいる。彼女は興奮気味に手を叩きながら応援のまなざしを向けている……
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