6 伝えることをやめたらすべてが終わる

 明くる日の朝、鉛のような心を引きずりながらグラウンドに出る。部員たちの姿はまだ見えない。

 ケヤキの下のベンチには宇田島が足を組んで座り、爪楊枝のようにタバコをくわえてスマホをなぞっている。

 挨拶すると、のっそりと立ち上がる。

「どうですか、先生、ちょっとは慣れましたか?」

「慣れないですね。っていうか、慣れる日が来るんでしょうか?」

 三谷は宇田島の隣に腰を下ろす。

「そりゃ来ますよ。ワシも会社時代は何度も転勤させられたけど、どこへ行っても最初はしんどかったですわ。気疲れするんですな」

 思わず昨日のパワハラを宇田島に話そうとするが、直前で思いとどまる。人間関係はどこでどうつながっているか分からない。

「この学校の先生がどんなことを考えているのかがすごく読みにくいです」

「まあね、教員の世界は狭いから。しかもここは私立で、入れ替わりも少ないしね。埼玉じゃ、やっぱり私立の方が教育も生徒もレベルが高かったですか?」

「差はほとんどなかったですよ」

「大阪は私立が強かったですねえ。勉強もスポーツも。花園に出る高校は、毎年私立やし、野球もサッカーも府立の学校が上がってくることはまずないですわ」

「山口はどうなんですか?」

 宇田島は極限まで短くなった煙草を、UFOキャッチャーのように空き缶の中に落とす。

「圧倒的に県立ですわ。ここんとこ連続で花園に出とる周防すおう高校なんかは、勉強もトップクラスやしね」

「じゃあ、この向津具学園って、ざっくり、どんな高校なんですか?」

 突然カッコウの鳴き声が聞こえる。宇田島のスマホにメールが入ったらしい。宇田島は頓着することもなく新しいタバコに火をつける。

「言うなれば、普通の田舎の私立ですわ。ただ、伝統はあるんです。戦争の直後に、この長門ながと市の海にニュージーランド兵が入ってきたらしくてね、暇つぶしにラグビーができるようにって彼らが切り開いたのがこのグラウンドのようですわ。で、せっかくこんな立派なグラウンドができたんやから、ついでに高校を作ろうってことになって、地元で金を出し合ったっていう話を、昔の先生たちはおっしゃってましたなあ」

「じゃあ、ラグビー部も伝統があるんですね?」

「そうですよ。たぶん、県内じゃ1番古いんやないですかね。OBも多いし熱心ですわ。昔は活気がありましたわな。それが、このひどい少子化でしょ。今や長門市も消滅可能性都市って言われてますからね、全く寂しゅうなったもんですよ」

「生徒のっていいますか、そういうものはどうなんですか?」

 思わず聞くと、宇田島は1度煙草を吹かしてから答える。

「変わっとらんですよ。そもそもうちの学校は、卒業生の子供が多いんです。せやから、愛校心もあるし、なにより素直ですわ。やっぱ、大学生でもそうやけど、最後には、やる気のある素直な子が伸びるんですよ」

 ちょうどその時、河上屋と石巻の2人が部室から出てくるのが見える。

「あの子らもほんとは素直なんですよ。でも、去年までの指導者がデタラメやったから、そのままデタラメになってしもうただけです」

 宇田島の言葉に、三谷の心にはかすかな光が差し込む。見上げれば、空は今日も青く、カモメたちものんびりとも宙を漂っている。

 

 最初の公式戦は、いきなり4月11日に組まれている。始業式の3日後だ。冬の花園予選の組み合わせにも影響する重要な大会だが、その割にはずいぶんとタイトなスケジュールだ。

 だが、三谷にさしたるプレッシャーはない。7人制の試合に限っては、花園予選とは無縁だからだ。

 それより、試合を間近に控えているにもかかわらず、時間通りに練習が始まらないことに腹が立つ。部員が出てきたのは、今日も予定よりも30分後だった。

 彼らは広いグラウンドの真ん中で小さく集まって、思い思いにストレッチをしている。外周ではブルーのジャージを着た陸上部が並んでジョグをし、その手前ではソフトボール部が声を揃えてキャッチボールをしている。時折、そのボールが転がってくると、ラグビー部の部員はストレッチをやめて立ち上がり、走ってボールを拾いに行ってやる。ソフトボール部の女生徒は帽子を取って大きな声で礼を言う。そんな光景が繰り返される。


 そのうちパス練習が始まる。時折笑い声を上げながら和やかに練習が進む。これが彼らの言う「楽しいラグビー」なのかと思う。

 20分ほど動いただけで彼らは息を切らし、休憩に入る。色褪せたラグビージャージを着た彼らは、三谷の前を素通りしてマネージャーの用意した水を飲みながら、昨日のテレビ番組の話で盛り上がっている。

 今日も3年生は、河上屋と石巻と秋元の3人だけで、あとは2年生が5人いる。3年生が全員揃わないのはどういうことだろうと河上屋に聞くと、そういえばあいつら、春休みに入ってから顔を見ませんね、と返す。

「だいたいサボることが多かったし、実力的にも2年生に抜かれてるから、やる気をなくしてるんでしょうね」

 河上屋の言い方に、こみ上げてくる憤りを鎮めようと息を殺す。今ここでキレてもしかたがない。

「試合には、全員揃うんだろうか?」と三谷はストレスを吐き出すように聞く。

「わかりませんね」と河上屋は解説者のように答える。

「これまで彼らが試合に来なかったことはあるの?」

「たしか休むやつもいたと思いますよ。7人制だから人数は足りますし、雑用はマネージャーがやってくれますしね」

 三谷は今すぐにでも練習を変えたいと思っている。少しの工夫で、彼らはぐんと良くなるだろう。今よりも「楽しい」ラグビーになるのは目に見えている。

《来たばかりの先生に、あまり余計なことはしてほしくない》

《僕たちを尊重してほしい、教師なら》

 だが、3日前に突きつけられたそれらの言葉が、昨日の重岡の罵声と相まって錆びのように胸の奥に広がり、前に進もうとする気持ちにストップをかける。

 状況を打破するための妙案など見つからない。新たなことを考え出すために必要な心のエネルギーが欠如している。


「先生が思うようにされたらええんやないですかね。な練習をされて腹が立つのはワシも同じですわ。このままやったら、いつまで経っても15人制の試合にも出られませんしね。先生のやりたいようにやればええですよ」

 宇田島の言うとおりだ。とはいえ、赴任したての身には練習を組み立てるための判断材料が乏しい。補佐役の教員もいない。名ばかりの部長はラグビーのルールすら知らず、グラウンドにも姿を見せない。

 鬼ごっこのような練習をしている部員たちが楽しそうに笑う声が嫌みのように響き渡る。子猫同士のようにじゃれ合っている部員もいる。

 とにかく、彼らが何を考えているのか彼ら全員の声に耳を傾けることから始めよう。すべてはそこからだ。


 練習が終わった後、河上屋を呼び、その旨を提案する。すると、すぐに言葉が返ってくる。

「時間がもったいないでしょう」

 三谷の心はたちまち凍り付く。

「だって、今週末試合ですよ。ミーティングなんかしてる場合じゃないですよ。練習しないとまずいでしょ」

 先生、あんた、本気でそんな無駄なことをするんですか、とでも言わんばかりの表情がさらに追い討ちをかける。心の中では様々な感情が行き場を失い、口に出すべき言葉をことごとく塞いでいく。

 河上屋は、鬼の首を取ったような満足感を漂わせながら、くるりときびすを返し部室の方へと歩み出す。その先にはカバンを提げた石巻が待っている。

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