第14話・その異臭は芳しく


 金髪の癖っ毛を揺らしながらヒエロが向かったのは、1階の最奥の部屋。部屋の並ぶ廊下は、中央フロアを対象にして平行に2本伸びており、綾坂とヒエロが向かったのはその左側だ。そこはヒエロの部屋ではなかったはずなのだが……。


 ちなみに、右側の廊下の最奥は、先日パウロに殺害された『古い宿泊客/オールド・ロジャー』の部屋であった。今は住む者がおらず空き部屋となっている。そしてそのロジャーの遺体については、昨夜に綾坂が医者の目を盗んで確認した時にはまだ残されたままであった。事件が起きてから既に5日は経過しているが、未だに放置されているのには、何か理由があるのだろうか。


 綾坂の思考をよそに、最奥の部屋の前で立ち止まったヒエロは、ノックを3回。


 「ヒエロです」


 小さく呟かれた声だったが、それでも反応はすぐに返ってきた。

 音もなくドアが開く。

 その瞬間に綾坂が感じたのは、部屋から溢れ出す異臭であった。

 

 「なんだ、この匂いは……?」


 思わず手で鼻と口を覆う綾坂。

 しかも、少し気温と湿度が高い気がした。息苦しいとまでは行かないが、長時間居たくないと本能的に感じる場所だ。

 しかし、ヒエロは鼻を突く異臭をものともせずに淡々と部屋に入っていく。当たり前のように入っていくので、綾坂は訝しみつつも、ハンカチで口元を抑えつつ部屋に入った。ヒエロが向かった部屋の奥には、3つの人影。真ん中に居るのが部屋の主だろう。そこが異臭の発生源であることは明らかだった。ソファに体重を預けきった体勢で、両脇に女性を侍らせている太った男がいる。


 「お久しぶりです……オードロゥ様」


 オードロゥ・カルロス。

 特時の資料によれば、メキシコ系マフィアのボス……だった男とされている。数多の麻薬の密造販売を中心としており、本拠地のある南北アメリカだけに留まらず、東南アジアやアフリカをも影響下に入れていた麻薬王。日本には手を伸ばしていなかったが、特時によって付けられた警戒レベルは最大から1つだけ下のレッドカラーであった。最大限の警戒と対応策を持って接触しなければならない男である。


 しかし、綾坂が口元にあてがったハンカチは何の対策も出来ていなかった。ヒエロに協力を持ちかけるだけのつもりだったからだ。この異臭が有害なもので無いことを祈るしかない。


 「(まさか、監獄内でも様付けで呼ばれてるとは……それにこの異臭、香水か?)」


 香水にしては、部屋に充満しすぎているが、アロマや香を焚いている気配が無い。原因が解らず綾坂は困惑した。


 そうしていると、オードロゥはようやく重たそうに体を動かしてヒエロと綾坂の方を見る。太った顔は油ぎっており、目はこちらを睨め付けるようにギョロリと動いた。人を見下している者がする視線だった。


 「ふぅ、久しいなMs.ヒエロ。お前の分は3日後だと言っていたはずだが、ふぅ、もう我慢できなくなったか? それとも後ろの男が要件か?」


 こもった声で、オードロゥは綾坂を一瞥する。今度は相手を値踏みする目だ。


 「はい……彼が新入りの綾坂綾あやさかりょう、私に依頼があるというのでオードロゥ様の判断を仰ぎたく参りました」


 「ふぅ、依頼か。Mr.綾坂の立場をかんがみるに……ふぅ、監獄の情報を盗み出せと言った具合だろう?」


 オードロゥの言動に、綾坂は思わず閉口した。オードロゥは『立場』と言葉を濁したが、その口調には、綾坂の職業を知っているかのような響きがあった。

 その疑念はすぐに確信に変わる。


 「ふぅ……とはいえ、ようやく日本の警察が介入してきたか。あまりにも遅いが、監獄の隠匿性を考えれば妥当な頃合いだな。ふぅ……さて、Ms.ヒエロを使って、具体的に何を盗むか話してみろ。その内容次第ではMs.ヒエロを貸してやろう」


 オードロゥは知っていた。

 相対するのは初めてで、綾坂の身分は情報屋にだって話していない筈なのだが、如何にしてか綾坂の情報は麻薬王に渡っていた。

 面白くない展開だなと、綾坂は歯噛みする。警察という身分は、犯罪者だらけの監獄において隠しておきたかったと言うのが本音だ。

 しかし、バレていたのなら仕方ない。誰から聞いた情報で、どこまで拡散しているのかは後に調べなければならないが、この際置いておく。

 手早く話を進めて、この気味悪い部屋から早々に退散したいところだ。問題は、ヒエロに依頼するのと、オードロゥの判断を仰ぐのには何の因果関係があるのかということ。


 「なぁヒエロ。俺はお前に用が合ったんだが、どうしてこのオッサンに許可取らなくちゃならないんだ?」


 綾坂は、あえてオードロゥを無視してヒエロに話しかける。オードロゥと話していると、会話の主導権を全て持っていかれる気がしたからだ。


 しかし、肝心のヒエロは目を伏せてしまい、返答したのはオードロゥだった。


 「ふぅ、監獄内の勢力図くらいはもう把握していると思っていたのだが……Ms.ヒエロは、私の派閥なのだよ。ふぅ……『戦争』くらいはもう耳にしているんじゃないか?」


 派閥に『戦争』と聞いて、綾坂は合点がいった。静葉やアルメンドから聞いたことがある。1年前に監獄内で勃発した2大派閥の抗争だ。最終的に壊滅したのがオールド・ロジャー率いる派閥だとは知っていたが、麻薬王オードロゥの言い方から察するに、勝利した派閥がオードロゥなのだろう。その一派に、ヒエロも含まれているというわけだ。ロジャー派閥が壊滅し、先日ついに死亡したと言う事で、監獄内の派閥はオードロゥの一強になっているのだろうか。


 「あぁ、なるほど。ヒエロに依頼するってことは、オードロゥ派閥に依頼するってのと同じなわけだな。分かった、場所を変えて話をしよう」


 綾坂は、オードロゥ派閥側の事情を呑みつつ、この部屋からの脱出を試みる。ここに来てから数分も経っていないが、既に思考にもやがかかり始めた。麻薬王と呼ばれるだけあって、この異臭にも違法な薬物成分が含まれているのだろうか。綾坂の感情は、長居したくない、から、長居してはいけない、に変化していた。


 その様子を見て、オードロゥはため息を吐く。額から流れる脂汗を、両脇に控える女性が恭しく舐め取るのを満足そうに堪能してから言葉を紡ぐ。


 「ふぅ、却下だ。この娘たちもこの通り私に夢中でな、ふぅ、置いていくことなど出来んのだよ」


  「「あぁ、オードロゥ様。お慕いしております」」


 オードロゥに寄りかかる2人の美女は、恍惚とした表情で声を揃えた。その目は胡乱で周囲の状況など見えていない。オードロゥの口の端から垂れる涎をも、2人の女性はその唇で吸うように受け取っていく。

 ほぅ、と満足げにため息を漏らす女性2人の様子に、綾坂は不快感を隠せない。

 

 「気味が悪い……ここにいると、頭がおかしくなりそうだ」


 その異質な関係性は勿論、この妙に高い湿度と気温も、綾坂のストレスを増大する要因になっていた。じんわりと滲み出る汗に居心地の悪さを感じる。監獄内のどこにいても、快適な空調が効いていたのに対して、オードロゥの部屋だけ何故か違っていた。


 「ふぅ、遺憾だよ。私から出る体液は全て、麻薬同様の快楽と中毒性を与えられる。この汗も、唾液も……ふぅ、血液から精液に至るまで……全てがこの娘たちにとって至高の1滴なのだよ」


 「……?」


 「ふぅ、生まれつきの体質でな。私を求めて群がるものは後を絶たなかったよ。王になるべくして、麻薬王になったと言っても過言ではないだろう?」


 「なんだ……それ」


 突拍子もないオードロゥの暴露に、綾坂は困惑する。

 そんな綾坂を置いてけぼりにして、オードロゥは自らの汗を指で拭い眺めて言う。


 「ふぅ、Mr.綾坂。この汗を蒸発させれば、その濃度によっては吸い込むだけで同じ効果が得られるのだよ。Mr.綾坂も、部屋に入ったときに感じたはずだ……ふぅ、そろそろ世俗の雑事などどうでもよくなって来たのではないか?」


 マズイ!? 綾坂は異臭に慣れて離れかけていたハンカチを、再度口元に強く押し当てる。


 やはり最初に感じた異臭の発生源はオードロゥだった。この部屋だけ異様に高い湿度と気温は、オードロゥの発汗で空気を変質させるため。部屋にいるだけで薬物を摂取吸引するのと同等の効果を、問答無用で全ての人間に与える空間。

 食虫植物の様に、匂いに誘われて迷い込んだ対象を取り込む。呼び寄せられたと気づいたときには、中毒となり自らオードロゥの配下にならざるおえないといった流れだ。オードロゥの両脇でしな垂れる美女2人は、そうして監獄内でオードロゥの薬物で廃人にされ派閥入りしたのだろう。

 オードロゥ派閥が監獄で一番大きい理由がわかった。オードロゥ産の薬物に対する中毒症状で、縁を切れないのだ。しかもオードロゥの体液は、当然オードロゥからしか出ないため、他で代用が効かない。にも関わらず生産入手が容易すぎる。量が限らるとはいえ、オードロゥが生きている限り発生し続け、且つ液体なので使用が簡易なのは明白だ。知らず知らずのうちに、飲み物に入れられ摂取してしまう場面など容易に想像出来る。


 綾坂自身も、オードロゥと話している途中から思考にもやがかかっている気がしていたが、まさかオードロゥから発生した薬物の影響だとは思いもしていなかった。部屋を出ずに引き止めようと、無駄話を続けたのもそれが理由か。


 「ますます気味が悪い。生まれつきとやらの体質じゃないぞ……それを悪用し悪びれない性根のことだ。加えて特時を舐めるなよ。正体不明の監獄なんて所に忍び込むんだから、薬物耐性くらい高めて来ているさ。それに、この程度の薬物ならメンタルで耐えられる」


 本音としては危ういが、敢えて気丈を振舞う。

 そして再度言った。


 「お前の体質など今はどうでもいいんだよ。本題は、ヒエロの技術を借りたいという一点に尽きる……ったく、これだけの事に余計な時間割いてんじゃねえよ」


 「ふぅ……Mr.綾坂の言い分はよく分かる。何も協力するつもりが無いとは言わないよ。ふぅ、ただ私にも計画があってね。Ms.ヒエロの力を借りたいというのなら、Mr.綾坂も私の計画を幇助ほうじょして欲しい」


 「幇助……つまり犯罪の手助けか。はっ、相手が警察とわかっていながら言う台詞とは思えねぇな。そんな話、受けると思うか?」


 悪態をつきながらも、面倒な話を持ちかけて来やがったと、綾坂は歯噛みする。一刻も早く部屋を出たいのだが、ヒエロとの話にも決着を付けなければならないと葛藤していた。無下に断るには早計な気さえする。

 そんな折に、今まで黙っていたヒエロが思い出したかのように口を開いた。


 「オードロゥ様。お言葉ですが……この男を協力者にするのは、リスクが高いのでは?」


 「ふぅ…Ms.ヒエロの心配はもっともだ。だけど心配はいらないよ。やってほしい事は単純な事でね……ふぅ、食堂に備え付けられているウォーターサーバーを破壊してほしいのだよ。なに、故障させるだけでもいい。何しろ使えなくすればそれだけでも、私にとっては意味がある」


 オードロゥがいやらしく笑うと、先程反対しようとしていたヒエロも再び口を閉ざした。


 さて、交換条件は提示された。

 問題は、その破壊行為が、彼らにとってどのような意味があるのか。綾坂自身が負うリスクは、どれほどの物なのか。派閥外の人間に事を起こさせる彼らのメリットとは何か。


 リスクとリターンを検討しようと、問題を羅列してみるが、上手いこと思考が纏まらなかった。


 だが1つだけ言えることがある。


 「おーけー。何にせよウォーターサーバーが使えなければ、お前たちはそれで良いわけだ。分かった受けよう」


 ウォーターサーバー。

 タイムアウト事件を精査していた綾坂にとって、深い意味のある言葉だ。監獄にあるウォーターサーバーが、システムなのかどうかも合わせて調べなければならない。

 綾坂は首を縦に振り、オードロゥとの取引を成立させる。犯罪者だらけの監獄で、品行方正に捜査を進めるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しいとまで綾坂は感じるようになってきた。

 さて、この芯のブレる思考はオードロゥの薬物による物なのか。今の綾坂には判断がつかない。


 「ふぅ、Mr.綾坂。そう言ってくれて私も幸運だ。ヒエロは貸してやる。決行は3日後の消灯前……ふぅ、それ以外はMr.綾坂の判断に委ねよう」

 

 それだけ聞き届けると、綾坂は「了解」とだけ言い残し部屋を去る。白い廊下の空気が、今まで以上に気持ちよく肺に流れ込んできた。

 

 「3日後か。後で改めてヒエロとも話を合わせないとな……」


 

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タイムアウト2『監獄は揺蕩う』編 夏葉夜 @arsfoln

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