握る寿司屋
響きハレ
握る寿司屋
会議で昼食をとる暇を失ってしまった。だがやっとつかんだ大口契約。私は達成感に包まれていた。
駅に向かう途中で寿司屋が目に入る。気が付いたときには暖簾をくぐっていた。
清潔な店内には客がいない。時刻は午後3時を過ぎ。
「へいらっしゃい」と威勢のいい大将。にこにことした笑顔が今は心地いい。
「お客さん、何か良いことでもあったんですか」
「まあね」
などと交してカウンターに座る。壁のメニュー版には値段が書かれていない。
「何にしましょう」
笑顔の大将がじっと私を見つめる。
「そうだね、おすすめは?」
「何でも握るよ。みんなおすすめ」
返答に困る。おすすめがあればよかったのだが。
「じゃあ適当に」
何万円も取られることはないだろうと高をくくる。
「分かりました」と威勢のいい大将。手際よく握っていく。
「まずはこれね」
艶々とした赤いマグロ寿司が目の前に置かれる。口に放り込むと良い香りが広がった。うまい。
寿司はどれもうまかった。
そろそろ満腹というところで話しかける。
「ありがとう、もう十分。おいくらかな」
「もうおしまいですかい? うちは最後に握るものが決まってるんですよ」
「いや、もう十分。お勘定は?」
「お気持ちで結構ですよ」
面食らう。
「ちゃんと払わせてくれ」
「まあまあ急がないで。最後にこれを握らなくちゃあ」
といって大将が下駄の上に置いたのは数枚の写真だった。会社の口座の通帳の写しと、私が伊勢丹で女性と買い物をしているところ、そして妻と娘の写真。
「これは……!」
「全部知ってますよ」
写真を持った手がぶらりと垂れ下がる。ぱらぱらと写真が床に落ちた。
「お気持ちで結構ですよ」
震える手で財布を取り出し、入っていた5万円を大将に渡した。笑顔の視線が私を貫く。
「今はこれしかないんだ……」
「これが、お客さんのお気持ちなんですね。毎度あり」
へへっと大将が笑う。
私はおそるおそる立ち上がって店を後にした。駅へ向かう足には力が入らなかった。
握る寿司屋 響きハレ @hibikihare
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