割れたスイカ
背筋が凍り、ずしりと、手に持ったスイカの重みが増した。鉛のようだ。なにごとかを言おうとした唇はわなないて、やっと吐き出せたのは、
「そんなこと言うなよ」
そんな力ない懇願にすぎない。
「頼むから言わないでくれ。だって……おれは、どうなるんだよ」
「なんで清がそこまで言う。おまえにとっておれなんて、ここ数週間でつるみだしただけの浅い友だちだろう」
次の瞬間。耐えかねて、ぼくはそれを、大切だったはずのそれを、思いきり地面に叩きつけていた。
「あほ!」
ばしょん。そんないささか間の抜けた断末魔をさいごに、いびつな球果はくだけた。なかから赤く水っぽい果肉が漏れ出し、にわかに足元から甘いにおいがたちのぼる。
「あほかおまえ。人魚とかそんなの、そんなの関係ねえよ、だって」
プールサイドのタイルのみぞを薄赤い水が広がっていく。割れたスイカと、なにがしかの体液にも似たそれを見ていたら、むしょうに腹が立った。ふつふつと腹の底が煮えたぎり、熱が胃の腑を、胸を喉を、頭をあぶっていく。
視界が明瞭に冴える。千波があっけにとられてぼくを見ている。あんなに動かなかった口がなめらかに動いた。制御を失ってことばを吐き出しはじめる。だって。だって。
「だってずっと見てたんだ、中学入って、一年とき同じクラスなってからずっと、おまえは知らないかもしれないけどおれは見てた」
「清?」
「好きな食べ物も初恋がいつかも知らなかったけど知ってることはあったよ。右腰のほくろとか」
止まらない。ぎゅう、と自分の右腰をつかむ。
「おれも同じとこにほくろがあるよ。父親はとんだクズ野郎だよ、」
千波が息をのんだのが、わかった。もう後戻りはできない。
―だったらせめて、言いたいこと全部ぶちまけてやる。
「千波は、千波だよ、だっておまえは」
腐り落ちる果実のような落日に目がくらんだ一瞬、叫んだ。
「弟だから。たったひとりの、弟だから!」
だから千波が千波以外のなにかになるわけないじゃないか。
秘め続けてきたことばを投げつけたせいなのか、手足から力が逃げていく。ぼくは衝動のままに、その場に寝転んだ。服が湿り気とスイカの果汁で汚れるのにもかまわずに。もう、どうにでもなれ。なげやりな思いだった。
東の空のかなたから、急速に夜が迫り来ている。風がプールの水面にさざなみをたてて去るのを見届け、目を閉じた。
そうしてどれくらいの沈黙が、流れただろう。
「……おまえが兄貴ってなんの冗談だ。せめておれが兄のはずだ」
思いのほか、ぼくの内側はからっぽで、静かだった。吐き出したことばがよほど大きなスペースを占めていたのだろう。あるいはなかば自棄というか、なんもかんもがどうでもよくなっていたのかもしれない。それ、どういう意味だよ。だなんて軽い調子で返している。問えば千波は、至極真剣な声で返す。
「清は頼りない」
「おれのほうが背は高いけど」
「関係ない。これから追い越すし」
「じゃあ言ってみ、おまえ何月生まれよ。おれ四月」
「……八月」
「だよな。知ってた」
出会ったすぐ後、調べたからな。自分で自分を笑っていると、まなうらの薄ぼんやりした視界に影がさし、ほんのわずか暗さを増す。目を開けると千波がぼくを覗きこんでいた。
「ほんとうに?」
「こんな嘘、つくかよ」
やたらめったら甘いスイカのにおいがプールの塩素のにおいと混じって、みょうに鼻にしみた。
「こんな嘘……」
吐息がこぼれて、こめかみをなまぬるい感触がつたった。耳は濡れて、風が吹くとそこがつめたくなる。そのくせ目頭は熱くて、もう、上は大火事、下は洪水っていうか、千波の顔がにじんでにじんでしかたがない。
そうしてはなはだ不名誉な液体を垂れ流しにしていると、燃えるように熱いてのひらがほほに触れた。ぎこちなく肌をぬぐわれて、だけど後から後から、あふれてくる。
「スイカ、だめにしちゃったな」
まるで自分がやったみたいな言いかたするなよな。ぼくの癇癪が爆発した結果だっていうのに。まあそうなんだけど、と千波は笑う。
そしてふいにまじめな顔になった。
「正直さ。実感が、わかない。清が兄貴だって言われても」
「……うん」
「でも励ましてくれたのは嬉しかったし、たぶん、おれはこれまで通りだと思う。先のことはわからないけど、少なくともしばらくは」
―充分だ。
いっそう目頭が熱くなる。腕で顔を隠すぼくに、千波は言った。ありがとう、ちょっとやけになってたみたいだ、と。体の芯から力がわいてきて、ぼくは上体を起こした。したたるしずくが、タイルの上で薄赤い液体と混ざった。
砕けたスイカが、無残な傷口を晒しているのが目に入る。
「あのスイカ、種なしだったのか」
黒い種の混じらない、のっぺりとした赤がぼくを見ていた。ずっと育てていたのに千波は知らなかったらしい。学食に出すときそのほうがゴミの処分が楽だからって理由だと、顧問の先生は言っていた。それにしてもみごとに飛び散ったものだ。派手にスイカ割りでもやったみたいな状態である。
「掃除しなきゃな。道具取ってくるよ」
千波は立ち上がると、水泳部の部室に足を向ける。後ろ姿が、夕日を遮ってくろぐろとした影になる。目が覚めるような昂揚の色をいっしんに受けるその姿に、ぼくはぼうっと見蕩れた。まだ少し、夢見心地だった。千波が変わらず友だちでいてくれることを思い、じわじわと胸が熱くなる。
そう、夢見心地、だったのだ。……起こったことに、すぐに反応できないくらいに。
―黒い影が、落日を前にくずおれてゆく。まばたきの間にぼくが見蕩れるそのひとはひざをつき、苦しげに背を丸めていた。
胸を高鳴らせる熱がたちまち質を変え、じっとりと嫌な汗を産むのが、わかった。
「千波!」
叫び、駆け寄る。ひざをついているのすら、辛いのだろうか。千波は胎児のように転がり、腹を押さえた。
「いたい」
搾り出すように吐き出されたことばに、息をのむ。ついにそのときが、来た、ってことなんだろうか。だけどそうだとして、どうすれば。ぼくになにができる?
震える手がのびてきて、ぼくの手首を握った。目をみはって硬直していると、引き寄せられ、てのひらを腹に押し当てられる。なだらかな丘になったそこは燃えるように熱かった。布ごしに、なにか硬いものの感触がある。ぼくはためらいながらも、シャツの布をまくりあげた。
肌が露出した瞬間、光が反射する。下腹部を横ぎっていた赤い線が、様相を変えてそこにあった。赤銅に焼けた皮膚に映える銀色のきらめき。ぼくは目を疑ったが、何度まばたきしても見えるものは変わらない。
ファスナーだった。かたく閉じ、はしに引き手がついている。千波が荒く息をするたびに腹が上下し、引き手も揺れた。その揺れが告げているような気がした。開放せよ、と。
「開けていいの?」
聞くと、千波は苦しげに目を閉じたままうなずいた。ぼくは口のなかに溢れる唾液をのみほし、ゆっくりとファスナーに触れる。肌は熱いのに、ファスナーの金属は冷えていた。触れた瞬間、千波の腹筋がびくつく。返ってくる反応に不安になったし、開いたさきになにがあるのかを思えば指先が強張る。だけど千波を早く楽にしてやりたくて、指を動かした。
じ、じじ、と蝉が低く鳴くような音をさせて、ファスナーは開く。わずかずつ大きくなる隙間には、夜空のような虚空があった。臓腑がのぞかないことに安堵しながら手を進めてゆく。ファスナーの音と千波の喘ぎ声が混じり合い、プールサイドにこだまする。
半分ほどが開いたときだった。小さな音と突っかかるような手応えを最後に、手が止まってしまう。止めたくて止めたんじゃない。動かないのだ、ファスナーの引き手が、それ以上。
「どうして」
むりに引こうとすれば、千波がうめいた。かといって、手を離していれば千波の呼吸は荒くなり、ただならぬ音が混じり始める。
手を汗が濡らした。どうしよう。だれか助けを呼びに行こうか。そう思ったところで、さっき理科室へ行くまでのあいだに前を通った保健室が閉まっていたことを思い出す。夏休みの、日も暮れようかという時間帯だ。たいがいの部活は終わっており、生徒たちも引き上げているだろう。
救急車。そんなことばが脳裏にひらめいた。けれどズボンのポケットにつっこんだ手は裏地に触れただけだった。携帯、荷物のなかだ。なんでこんなときに! 間の悪い自分に舌打ちする。
だれか助けてくれそうなひとを探すしかない。千波を置いていくのは心配だったけれど、背に腹は変えられないと立ち上がる。待ってて、と告げて身を翻す。
駆け出そうとした、そのとき。
ざ、と風。プールをぐるりと取り囲むフェンスごしに、目が合った。どこか不機嫌そうな色をたたえた目と。
視線が交錯するほんの一瞬のあいだ、その目の色以外は目に入らなかった。追って、その人物の顔、着ている服、周囲の光景が認識される。
「萩森……」
そこに立っていたのは、萩森だった。おとといの夜別れたきりの、男だった。
フェンスをはさんであちらとこちら、見つめ合う。萩森は仮面をかぶったような、なんの感慨も浮かばない顔でぼくを見上げている。いつもとなんら変わりのない格好。授業もないのに白衣で、なかは少しくたびれたシャツ。ネクタイはしていない。足元のスリッパは古びて、裏がずいぶんすり減っているから歩くたび妙な音がする。
そんな彼を見た瞬間、胸を衝いたのは、気まずさとか憎しみとか、そんなんじゃなかった。
まぎれもない―安堵を、おぼえた。
「助けて」
自分でもわからなかった。なんでつい二日前に喧嘩別れをした男と対峙して、こんなに安心しているのか。萩森は怪訝な顔をしていたが、その位置からでもぼくの背後にいる千波が見えたのだろう。早足になって、プールの入口に回った。
うずくまる千波のかたわらに屈み、腹のファスナーを見て、萩森は目を瞠る。
「どういうことだ」
説明のために口を開きかけて、そのまま固まった。
ずっと黙っていた。萩森の大切な標本が、彼のもとを逃げ出そうとしていることを。言う機会はあったのに、意図して口を閉ざしたのだ。
けれどもう隠しだてできない。
「千波が……萩森の大事にしてる標本の体を育ててたんだ」
ぼくは千波から聞いた話を伝えた。いまなにが起こっているかも。突拍子もない話だったろうが、萩森は黙って聞いていた。目の前にじっさいに腹を抱えて苦しむ千波の姿があったせいかもしれない。
語り終え、ぼくは深く頭を下げた。
「黙ってたことは謝る。だけど、お願い。千波を助けて」
身勝手な懇願だった。だが、すがらずにはいられない。どうか、どうか。
永遠にも等しい沈黙が流れた。頭を下げたままでいると、萩森の長くのびた影が視界に入る。小揺ぎもしないそれをじっと見つめ、ぼくは祈っていた。
ゆらり。影が動く。
「標本を連れてくる」
顔を上げると、萩森は立ち上がっていた。ぼくの視線を受け、仏頂面のまま応じる。
「おれにだってどうすればいいかわからないからな。麦原に標本から直接聞いてもらうしかない」
常と変わらない偏屈そうな顔だから、じわじわとしか理解が及ばなかった。だけど、これはつまり、そういうことだよな?
助けてくれるのだ。ぱっと顔を輝かせるぼくを見もせず、彼は千波に声をかけた。
「おい、聞こえるか。ちょっと待ってろよ」
千波は弱々しくうなずく。萩森はぼくに千波を見ているように言うと、小走りでプールを出て行った。
十数分後、大きなガラスケースを台車に乗せて、萩森が帰ってくる。ぼくも手伝って、ふたりでプールサイドまで運んだ。千波に対面させるように置くと、彼の伏せていたまぶたが開かれる。
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