三
プールサイド
また来たらいいわ、いろいろとケリがついたらね。そう言って、凪紗さんはぼくを送り出した。
来た道を戻るのはなんだかあっという間で、夕方には町に帰ってきてしまった。ふたりして駅に降り立ったとき、ぼくは内心途方にくれていた。考えなくちゃいけないはずのことに、まったく答えが出ていなかったからだ。そりゃそうだ、二時間ちょっとでぽんと結論づけられるようならはなっからここまで悩んじゃいない。
切羽つまって、駅を出たところで別れようとする千波を、思わず呼び止めていた。
「スイカ!」
「え?」
「スイカの様子、見に行かないか。収穫までそろそろのやつ、あるだろ」
小賢しい時間稼ぎ、かつ現実逃避である。どんな顔をして萩森に会ったらいいかわからないだけなのだ。それでも千波がうなずいたから、ぼくはそれに甘えた。
校門まで来たとき、千波が先に畑に行っているように言った。
「おれ、いったん理科準備室行く。標本に会ってくるよ」
手は服の上から下腹部に触れている。もうすぐ、だから、なにか聞きたいことでもあるのかもしれない。ぼくはうなずき、校舎の前で彼と別れた。またあとで、と言い交わして。
校舎の角を曲がって少し歩けば、そう広くもないぼくたちの畑がある。だいだいに染まるその場所は、数日前と変わらずぼくを待っていた。スイカはまるまるとふくれて、葉のかげに転げている。
いつだったかそれを生首のようだと思った。こんな夕暮れどきには影が濃く長くのびて、その暗がりになにか得体のしれないものが潜んでいる気すらしていた。毎日世話をしておきながら、いとわしいとすら思うことがあった。
だから、このスイカを前にしてこんな気持ちになるなんて思いもしなかった。愛おしい。前々から目をつけていたひとつは、ひとびとの喉を潤すべき存在として結実していた。
しゃがみこみ蔓を切ったところで、あ、と思った。千波が来てからにすればよかった。はしゃぎすぎだって叱られるかな。苦笑しながら、千波が来るのを待つ。
けれど待てど暮らせど、彼は現れなかった。
なにかあったのだろうか。行き違いになるかとも思ったけれど、スイカを持って理科準備室に行ってみることにした。
夏休みの夕方ということもあって、校舎のなかは人気がない。理科室に歩み入り、あれ、と思う。準備室の扉の鍵はあいていて、さっきまでここにだれかがいたことはたしかだ。けれどいるのは、ガラスケースのむこうからからっぽの眼窩で見返してくる人魚ばかり。
「千波、どこ行った?」
聞いたところで答えは返ってこない。いや、答えてくれていたかもしれないけど、ぼくには聞こえなかった。
教室を出る。と、校舎の外から声がした。理科室のある棟のすぐ外は駐車場になっていて、そこに一台、小型のバスが停まっている。ジャージ、あるいは体操着姿の少年たちが車両を取り囲むようにして群れ、談笑している。
はじめはなんとなく声を聞いていただけだったけれど、やがてぼくは、その場から動けなくなる。
会話からぼくは知る。彼らは水泳部であること。記録会が今日だったこと。
そして菰田が記録会で優勝したこと。
……いっさんに、ぼくのなかで記憶がほとばしった。菰田を前にして固く握り締めていた拳。実家の食卓で見たどこか遠い目。早く泳ぎたいと海を見つめていた、ベランダでの立ち姿。
千波がどこにいるのか、わかる気がした。重いスイカを抱えたまま、ぼくは走り出す。暮れなずむ校舎を駆け抜け、上履きのまま外に出る。畑の前を素通りして校舎の角を曲がると、前方に見えてくるのは―プールだ。
脇の扉を押し開けて、脱衣所とシャワールームを抜ける。短い階段を上がると視界が開けて、プールサイドの景色が広がった。
果たしてそこに、麦原千波は立っていた。プールのふちぎりぎりに立って、静かにゆらめく水面(みなも)を見つめている。伏せたまつげがほほに影を落として物憂げだ。思いつめた様子をほうっておけるはずもなく駆け寄ると、千波はついと顔を上げた。
「清。……スイカ、持ってきたのか」
ぼくが両手に抱えたスイカを見やり、彼は力なく笑った。勝手に収穫して叱られるかななんて思ったけれどとんでもない。いつもどこか凛とした静けさを保っている彼のそんな顔を、ぼくは初めて見た。
「……さっき理科室の前にいたら、聞こえた。菰田が記録会で優勝したって」
「ああ」
千波はしゃがみこむと、ぼくを見ないままに告げる。
「あいつさ。おれとタイム、近いんだ。けど少しのところで抜かれたことはなくて」
手がのびて、水面に触れた。ぱしゃん、ぱしゃん、と手遊びにもてあそばれた水が跳ねる。西の空に沈んでいく夕日が、水滴をきらめかす。千波はそのきらめきをじっと見つめたまま、物思いに沈みこんでいるようだった。
「中学入ってから、どっちも表彰台に上ったことはなかった。だけどいつかはおれのほうが先にって」
ぱしゃん。ぱしゃん。
「まだなにもできてないのに、こんなことにかかずらって」
そして指先は、水のなかにとどまったまま、止まった。
もう片方の手は腹を押さえている。それで〝こんなこと〟がなにを指すのか知れた。
ぼくはその場に縫い止められたように、動けなくなる。ちゃんと責任をとりたいと言った誇り高い千波は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。なにかの気の迷いなのだと、思いたい。けれど彼は苦悩を浮かべたまま言うのだ。
「たとえばおれが人魚を海に返して、で、部に戻って。でももうぜんぜん歯牙にもかけられないとしたら、どうだ」
「……そんなこと、ありえないだろ」
「ありえる。だっておれ、中学入ってから一度も練習休んだことない。背だって低いから不利だし……いままでうまくいってたのが、まるっきり、偶然だったとしたら?」
……どこかに行ってしまったわけじゃない。きっとこれは、千波が常から抱えていた懊悩だったのだ。いつだって練習熱心で、ストイックを絵に書いたようだった彼は、けれどずっと不安にさらされていたのかもしれない。
不安が黒い影になって、千波の目を曇らせている。
「今後水泳で結果を残せなかったら、みんなおれのこと、人魚の〝母親〟って呼ぶ。だれもおれのこと、麦原千波としては見ないんだ」
ぼくは彼になにをしてやることもできないまま、立ち尽くしていた。スイカ持ったまんま。間抜けだ、とどこか他人事のように思う。
千波がやっと、ぼくのことを見た。泣き笑いのような顔だった。
「どうしような、清。おれいま、すごく……自分が嫌だ」
こんなに蒸し暑いのに、ぞっと、悪寒が背を駆け抜ける。ああ嫌な予感がする。それ以上、言わないでくれ。
「この体に流れてる血が嫌だ」
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