夜にとけゆく煙

 千波はこのまま小学生たちを風呂に入れると言った。あの嵐のような子どもたちに体を洗わせしっかり湯船につからせるなんて、想像するだけで疲れる。大家族初心者のぼくには荷が重い。それで、千波を残して一足先に風呂を出た。

 ぶらぶらと家の外に出ると、あたりはもうすっかり暗い。夏の夜らしい、どこか香ばしい夜気があたりを満たしている。遠く、海の音がした。少し歩けば砂浜に出るのだ。夕飯まで時間もあるので行ってみることにした。

 両側に草木の生い茂る細い道をゆく。反り返った花弁の白い花がぽつぽつと咲いていて、そこだけぼんやり明るく見えた。あれはたしか浜木綿だったか。

 あるときざっと視界が開けて、夜にぼやけた水平線が見える。たよりない砂地を踏んで少し歩くと、ほのじろい紫煙をくゆらせる人があった。

 凪紗さんだ。あぐらをかいて座り、煙草を吸っている。ぼくを見つけて手招きするので、うながされるままとなりに座る。

 煙草の先にともったあかい火が、ゆるやかに明滅する。暗い海辺はモノトーンで描いたようで、火の色はことにあざやかに目にうつった。宙にあらわれる不定形の曲線は、風もないのにやわらかく空気に溶けて、消えてゆく。凪紗さんはしばらく、物言わぬまま煙草をふかしていた。

 それは今日一日でいっとう静かな凪紗さんの姿だった。ぼくもなんとなく口を閉ざしたままで、紫煙を追うばかりになる。

 どれくらいのあいだそうしていただろうか。沈黙を破ったのは凪紗さんだった。

「弦本くんさ。腰にほくろあんのね」

 え。ぼくは消えゆく紫煙を追うのをやめ、凪紗さんを見る。

「さっきバスタオル持ってったとき、見えちゃって」

 凪紗さんもまた、ぼくのほうを向いていた。彼女ぼくの頭のてっぺんからつまさきまでを、視線で撫ぜた。ひどく落ち着かない気分になる。受け流すには、その目は千波と似過ぎていたから。

 彼女はなにかに気づいたのだろうか。

 それともなにかを、知っているのだろうか。

 不規則なリズムの波の音がやたらと耳について、知らずその回数を数えている。いち、に。数が増えるほどに、鼓動が早くなった。

 彼女は小首をかしげる。

「それ以外はあんまり、似てないかな」

 わななく唇で問う。

「……だれと、ですか」

「千波と」

 ひときわ大きな波が、浜に打ち寄せた。

 薄い色の口唇が動くのが、みょうにゆっくりに見える。弦本くんは、お母さん似なのかな。ああ、思いっきり母似ですね、だなんて軽く返すことはできなかった。

「知ってたんですね」

「ああ、やっぱりそうなんだ」

「……もしかしてカマかけ?」

「ああ、うん。女の勘にもとづくカマかけ……きみのお父さん、どうしようもない自由人?」

 ですね。クズとも言うと思います。返すと凪紗さんはおかしそうに笑った。はじけるような笑声にぼくは安堵する。疎まれてはいないみたいだ。

「女の勘っていうのは、どういう」

「あなたあんまり千波にご執心だからなにかあるのかなって。そこであのほくろ見つけて。でもびっくりだな、いざこうして当人を目の前にすると」

 予想はしてたのよ、と凪紗さんは言う。あんな人だから、ほかにもどこかに子どもはいるんだろうなって思ってた。

 だがぼくはそれどころじゃない。千波にご執心? そんなにダダ漏れだったのだろうか。

 妙な顔をしていたのだろう。凪紗さんがぷっと噴き出す。なんで笑うんですか、とふくれるうちに、鼓動はいつしか収まっていた。

 凪紗さんはジーンズのポケットから携帯灰皿を取り出すと、煙草の火を消した。たちこめていた煙臭さは、しだいに潮のにおいにかき消されていく。

「千波は知ってるんですか。自分に兄がいるって」

「ちゃんと言ったことはないかなあ。少なくとも弦本くんがそうだとは、知らないと思うよ」

 自分の直感の正しさを確認する。やっぱりそうか。千波のぼくへの屈託のなさは、やはり知らないがためだったのだ。と、気づいた。凪紗さんが笑みを収め、ぼくをじっと見ている。深い湖のような、静かな目で。

「言わないの? 自分がお兄さんだって」

 一瞬、ことばにつまった。だけど答えなんて決まっている。

「言えないですよ。打ちあけたらもう元には戻れないし。もしそれでつながりが切れてしまったら……ぼくは完全にひとりぼっちになってしまう」

 なにせ、ぼくにはもう千波しかいないのだ。

 水は高いところから低いところにしか流れない。一度流れ落ちた水がもとの場所に戻ることはない。臆病になるしかなかった。

「言いたくは、ない?」

 言いたいに決まってる。

 強く目を閉じると、まなうらの闇に星が光る。三角形をえがく、点と点と点。あいつの腰にはりついて、ぼくとを結ぶ黒い刻印。

 気遣わしげに、凪紗さんは教えてくれる。父親のことを親子で話したことは、あまりないのだそうだ。だから彼が父親のことを憎んでいるのか、それともなんとも思っていないのかは母親といえどわからない。

 参考にならなくてごめんね、と謝られて、首を振った。いたわるように肩を抱かれる。今日会ったばかりのひとなのに、その手のひらはふしぎと安心できるぬくもりを持っていた。

 そしてぼくらは、座って海を眺める。そろそろ帰ろうか、と凪紗さんが切り出すまで。

 家に入る前、彼女は思い出したように告げた。

「話すにせよ、話さないにせよ……このこと、逃げ道には使っちゃダメね」

 それも女の勘、だろうか。なにもかもを見透かされているみたいで、なんだか恐ろしかった。

 逃げ道。

 たしかにぼくは、ここへ逃げてきたのだった。あのひどくさびしいアパートの一室から。

 凪紗さんの言うとおりだということはわかっていた。ぼくは千波の兄でありたい。だけど萩森を捨ててそれを手に入れたところで、禍根は残るだけだ。

 萩森はなにを思って、寮に入ることを提案したのだろう。

 ぼくにはあいつの心がわからない、だってなにも話してくれないから。わからないままことばを交わしてもすれ違うばかりで、だからぼくから話すのも怖くなる。どんどんひとりぼっちになる。あの暗いアパートの一室で。

「清」

 ふいに頭上から呼び声が降ってくる。見上げると、二階のベランダに千波が立っていた。いとこたちは無事に風呂へ入れ終えたのだろうか。疲れた様子もなく、柵に頬杖をついている。

「なにしてんの」

「海。泳ぎたいなって、見てた」

「……もうすぐだろ」

「だな」

 明日には、またもとの町に戻る。ぼくは萩森に会わなくてはならないし、千波の休部期間も終わる。このままじゃいられない。ぼくは考えなくてはいけなかった。どうするのか。どうしたいのか。

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