夏休みの逃避行

 その晩は千波のところに泊まった。連絡だけはしておけと強く言われて、萩森にメールを打つ。

 ―実の弟といっしょにいたほうが楽しいだろ。そう言われた手前、千波のところにいる、一日彼の実家で過ごすとは言えなくて、だけどおあつらえむきの嘘も思いつかなくて、ただ「友だち」と書いた。わかった、とだけ返事が帰ってきた。友だちがだれを指すのか、見透かされている気がした。

 翌朝、一度荷物をとりに帰ったけれど、萩森は留守にしていた。がらんどうの部屋で必要そうなものをかばんに詰めながら、じわじわとぼくは悟っていた。萩森とぼくのあいだをかろうじてつないでいた糸がぷつりと切れてしまったことを。大きなボストンバッグを持ってアパートの下まで降りていくと千波は気安い様子で待っていて、それが救いだった。

 乗りこんだ電車はがらがらで、クーラーがよくきいていて、天井で扇風機が回っていた。ふたり並んで席に座り、窓の外を見る。抜けるような青とまばゆいみどり、あざやかな夏の景色がうしろに流されていく。がたんごと、がたんごと、する音といえばそれだけの静寂。床に落ちるくろぐろとした影。

 だんだん海が近くなるのがわかった。どこかなつかしく思える家並みに、潮風との親しさを感じる。千波がもうすぐだ、とささやいて、あっと思ったときには、きらめく水面が顔をのぞかせている。

 駅がホームに入り、停まった。降りるなり、町中より心なしかまぶしい光が降り注いだ。かすかに潮のにおいがする。ほんとうに海が近いのだ。

「やっぱり海で泳いだり、した?」

「した。母さんが好きだからよく行ったんだ」

 連れぞって曲がりくねる道を行く。ほどなくして、住宅街のなかの一軒家にたどりついた。


 *


 千波が玄関でただいま、と大声を出すなり、大勢の人間が出てきたので面食らった。聞けば夏休みということで親類縁者が集っているらしい。久々に千波が帰ってくるということで、近所に住んでいる親戚もわざわざ出向いてきているのだそうだ。

 荷物を置いてすぐ、みんなで昼食になった。畳敷きの部屋に置かれた低い長机ふたつが、食事の皿でいっぱいになっている。こんなに大量に作って食べきれるのだろうか、という懸念はすぐに解消された。

 食卓につくひとの数を、数えてみる。いち、に、さん、し……。……十二人。ぼくと千波を入れて、十四人。

 数を認識して、我ながらおもしろいくらい、怯んだ。しょうがないだろ、とくになにごともない親類縁者の集まりでこんな大勢の人間が集まるだなんて知らなかったんだから。

 このひとたち全員、血がつながってるのか。

 くらくらする。

 思わずこめかみを押さえていると、ふと気づく。食卓についたひとたちの視線が、思いっきり、ぼくに刺さっている。遠慮なんかこれっぽっちもない。顔をひきつらせていると、子どもの声が飛んだ。ちー兄、それだれ。

 となりに座った千波は、紹介するよ、と全体を見回した。

「こちら弦本清くん。学校の友だち」

「……あ、えっと、弦本です。か、家族水入らずのところにお邪魔しちゃってすみません」

 声を詰まらせながら言う。そのとき、すうっと部屋のすみのふすまが開いた。

「気ぃ使わなくていいのよ」

 現れたのは初対面のはずの女性だが、見覚えのある顔をしていた。千波によく似た凛々しくうつくしい面差し。母が遺した写真にうつっていた、そのひとだ。

「千波の母の、凪紗です。なぎささん、って呼んでくれると嬉しいな」

 写真は十年以上前のものだから、もちろん、それよりは少し年をとっている。けれどずいぶん若々しい。くろぐろとした髪が、タンクトップから出た肩にかかっている。千波と同じによく日に焼けた健康的な肌。笑顔になると、白い歯がのぞいた。

 凪紗さんの号令で食事が始まる。麦原家のひとびとについて、すぐにわかったことがひとつある。みょうに人懐っこい。千波はなかでも落ち着いているほうで諌め役に回ることが多いらしく、質問攻めされて困っているとフォローしてくれる。親兄弟の話になってぼくが口ごもると、それとなく話を逸らしてくれた。そのうちに彼らもなにかを悟ったのだろう、今度は自分のことを話しはじめる。

 千波の伯父であるという五十がらみの男性は、小さな漁船の船長をしていると言った。

「おれが海に出るときは、いつも波が穏やかなんだ」

 空になったぼくの皿に鳥のからあげを盛りながら笑顔を見せる。さっきから入れかわり立ちかわり、こうしてものを食わされて正直もう胃が辛いのだけれど、厚意を無碍にもできずにだまって受け取る。

「きっとご先祖さまの加護だろうな」

「みんな海とか、水とかに関わる仕事なんですか」

「全員じゃないがな。でも適性があるからさ。千波だって泳ぐの早いだろ」

 そう、千波に水を向ける。好物のポテトサラダを盛りに席を立っていた千波は、皿片手に座りながら言った。

「伯父さんのは、たんにちょっとでも波が荒かったら出ないってだけのことなんじゃないの」

「なんだよ、面白くないこと言うなよな。そんなことよりおまえ、あいつとはどうなんだ」

「あいつって?」

「あー……なんつったか。コメダだかなんだか、おまえのライバルだよ、水泳の! 追い抜かされてねえだろうな」

「菰田のことか」

 そう、菰田! と伯父さんは勢いこむ。千波は湯呑をかたむけて、お茶を一口飲むと遠い目をした。

「おれが練習出てないからなんとも。ただあいつ、自己ベストは更新したって」

「なに!」

 伯父さんは顔を赤くして叫ぶと、千波を叱咤する。ちょっと酔ってるのかもしれない。手元を見たら案の定、さっきまで卓になかったビールの缶が握られている。

「ちょっと兄さん、昼間っからお酒飲まないでよ」

 凪紗さんが現れて、伯父さんから缶を奪い取る。たちまちブーイングが飛んだ。だって休日だし、鳥のからあげだし。これが飲まずにいられるかってんだ。けれど凪紗さんは頑として首を縦に振らなかった。

 そんなやりとりを眺めてぼくは笑っていたのだけれど、ふと気づく。となりに座った千波が、ふっつりと黙りこんでいる。黒い目はぼうっとして、どこかここじゃない場所を見ているようだった。


 *


 にぎやかな宴が終わり、ぼくは食べすぎてつらかったので客間を借りて一服させてもらうことにする。千波は小学校低学年くらいのいとこたちにつかまっていた。外からはしゃぎ声が聞こえるなか昼寝をしていたらそのうちたたき起こされて、ぼくも鬼ごっこだのキャッチボールだの蝉取りだのにつきあうはめになる。遊び回るうち、あんなに高かった日はずいぶん傾いた。

 そして、汗だくで戻ってきたぼくたちに下されたのは、

「人数多いからいっしょにお風呂入っちゃって」

 なる、有無を言わさぬ家長の命令である。ぼくは千波といっしょに脱衣所に押しこまれてうろたえた。千波のほうは平然と服のすそに手をかけている。ぼくの視線を受けて、いぶかしげに首をかしげる。なんの疑問も抱いていない。そりゃあ、男同士だしおかしくはないけど。家庭用の狭い風呂にわざわざ友だちとふたりで入るっていうのがぼくにははじめてのことで。

 とはいえここで逃げ出すのも女々しい。意を決してぼくもシャツを脱ぎ捨てた、そのときだった。

「バスタオルここに置いとくよ」

 背後でがらりと引き戸が開き、凪紗さんが顔を出した。背筋が震え、二センチほどは飛び上がっただろうか。

「母さん!」

 千波が大声で咎めた。凪紗さんはいたずら好きの少女のようにごめんごめんと舌を出し、去っていく。ふたたび扉が閉じて、沈黙が流れた。ぼくと千波は上裸のまま見つめ合っていたけれど、やがて彼が口を開く。入るか。そうだね。

 風呂はぼくたちふたりが優にくつろげるだけの広さがあった。とはいえ並んで湯船に浸かるのもなんだ。まずはぼくが湯船に浸かり、そのあいだに千波に体を洗ってもらうことになった。

 かけ湯をしてゆっくりと体を沈めると、自然と息がもれた。酷使した体に、熱めの湯がしみわたる。

 プラスチックの椅子に腰掛け、シャワーヘッドを手にとりながら、千波が聞いてきた。

「疲れた?」

「うん……でも楽しい。おれ、親類の家に遊びに行ったこととかないから」

 親類の家じたいが存在しないからあたりまえだ。母さんが生きていたころはもっぱらふたりきりで過ごしていたし、萩森と暮らしはじめてからは、ふたりですらなくなった。萩森の家族のことは、あまり詳しくは聞かされていない。ただひとつだけたしかなのは―彼もまた、家族にはめぐまれていないということだ。両親は他界して久しい、らしい。

 そんな調子でぼくのまわりに親類縁者のたぐいは影もかたちもなかったので、こんなににぎやかなものなのか、というのがとりあえずの感慨だった。

 ぼくがこのにぎやかさを知らなかったように、麦原家のひとたちは、きっと、知らない。……だれもいない家に帰ってきてひとりで食事を食べるとき沸き起こる感情を。

「清、湯船で寝るなよ。溺れる」

 知らず目を閉じていた。大丈夫、寝てないよと応じて湯のなかで身を起こす。千波はさっさと頭を洗ってしまったようで、今度はタオルで石けんを泡立てている。

 体の裏側を洗うのに立ち上がったとき、気づいた。

「……腹」

 浴室にたちこめる白い湯気のむこうに、均整のとれた肉体がある。はだかになってしまえば、より速く泳ぐために鍛えられた筋肉のありようがはっきりと見てとれた。少年なりの細さはあるものの、胸や肩のあたりはぼくなんかよりよっぽど厚みがある。千波はひとふりの刀のようだった。

 ―体の線を崩す腹のふくらみさえないのなら。

 水泳パンツのかたちに白く浮き上がる肌のほんの上からみぞおちにかけてが、ゆるやかな弧をえがいている。いつだったか保健室で見た平らかな腹ではない。服を着てしまえばわからない程度ではあるが、たしかにふくらんでいた。赤い線だけは変わらず、なまなましく、温まって上気した肌の上をはしっている。

「さいきんになって、急にな。たぶん、もうすぐだから」

「怖くない?」

「人魚を見捨てたなんて言ったら、みんなに怒られる」

 千波はシャワーヘッドを手に取ると、湯を出した。体にまといつく白い泡を洗い落としながら、言う。

「伯父さん、得意げに言ったろ。ご先祖さまのおかげだ、って。うちの人間はみんなそうだ。血に誇りを持ってる」

 ざああ、という水音にまぎれることなく、そのことばはぼくの耳にとどいた。脳髄を痺れさせる甘さをもって、響いた。

 血に、誇り。

 目の前の少年の体を水がつたい落ちていく。右の腰に、みっつ、ほくろがある。星座のように三角形を描く、ほくろ。

 そこから目を離せないまま、ぼくは考える。

 ……もしも。あくまで、もしもの話だけれどぼくが打ち明けたとしたら。ぼくはきみの兄だと打ち明けたとしたら、千波は受け入れてくれるだろうか。ぼくはそんなつながりを手に入れることが、できるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る