二
血のつながった他人のところ
明日から夏休みに入る、という日。どこか浮ついた空気が学校全体にただようなか、畑に出るとスイカはいよいよ収穫間近という大きさまでふくれていた。いちばん育ちのいいスイカを見つめていると、かたわらに影が差す。
「清」
「千波。見ろよこれ」
麦原―千波だった。はじめていっしょに委員の仕事をした翌日、彼はぼくのと同じような麦わら帽子をかぶって現れた。今日もつば広のそれをかぶって、首にはタオルを巻いて立っている。すっかり園芸委員の出で立ちである。
千波が横にかがんで、ぼくの手元にあるスイカを覗きこむ。ずいぶん大きくなったな、もうすぐ収穫じゃないか、なんて言う声は、ふだん冷静な千波にしては嬉しそうな色がにじんでいる。
ぼくはささやいた。これ、もう少し大きくなったらさ。
「いちばんにふたりで食っちまおうぜ」
「いいのか?」
学内でとれた作物は、学食で生徒に振舞われるきまりだ。ばれやしないさ、とぼくは笑った。ここまで苦労してふたりで育てたのだ。一足先に味見したって罰は当たらないだろう。
このスイカたちに対してそんな思いを抱く日が来ようとは、夢にも思わなかった。千波がこの畑に現れたあの日まで、こいつらはその身でもって嫌になるくらいぼくを責めたてていたのに。
「萩森先生はいいのか」
考えに耽っていたら、思いもしない人物の名を出されて我に返る。
「え、萩森? 萩森は……。持って帰った日、家にいるかわからないから」
あいまいに笑ってごまかす。千波はもの言いたげな顔でこちらを見ていたが、ぼくは気づかないふりをした。
「暑いな、今日」
「ああ、おれ、水筒取ってくるよ。また倒れられちゃかなわない」
話を逸らすためのことばだったのに、千波はひょいと身軽に身を起こし、駆けていく。いちばんはじめに盛大にやらかしたからか、この点に関して千波は心配症だった。あいつが来るまでひとりで立派にお役目全うしてたんだけどな。実際以上に虚弱だと思われている気がする。
ともあれ心配されて悪い気はしない。どこか面映い思いで足元の草をいじる。と、炎天に揺らぐ道の向こうから、まっすぐにこちらに向かってくる人影が目に入った。
知らない顔だ。背が中学生離れして高く体つきががっしりとしていることが、遠目にもわかった。ということは先輩だろうか。なんの用だろう。
「おーい」
と、陽気に声がかかった。ぼくですか、と問うとうなずきが返る。
「麦原、いる?」
背の高い少年は畑に踏み入り、ぼくの前に立つ。よく焼けた肌をしていた。毛足の長い髪は色素が薄く、光をはらんでほとんど茶色に見えた。
ぼくが問いに答えるより早く、水筒をもって千波が帰ってくる。背の高い彼も気がついて、よう、と気軽に片手を上げた。
「菰田。おまえ、水泳部の練習は」
ということは、彼は千波の部活仲間か。話す口ぶりからして同級生らしい。びっくりだ。こんな中学二年生がいるものだろうか、ひょっとしたら外国の血が混じっていたりするのかもしれない。じい、と菰田の顔に見入る。……どうだろう。心なしか、平均より鼻が高い……彫りも深いような?
呑気に目を眇めて観察しているあいだに、ふたりは話を続けていた。
「なあ麦原、いつ戻ってくるんだよ」
菰田の声が耳に入る。千波の柳眉がぴくりと動いた。
「おまえがいないと張り合いなくてさあ。来週の記録会、ほんとに出ないんだ?」
菰田はへらへらと笑っていたが、ぼくにはわかった。ふたりのあいだにたちこめる空気が、わずかに張り詰めるのが。千波は平素の静かな表情を動かさなかったように見えたけれど、その実まつげが落とす影が濃い。
「出ない。ケリがつくまでは戻れない」
絞り出した声にふうん、と菰田は返した。そこで満足したらしい。帰るわ、と言って踵を返す。
けれど彼は畑を出ようというところで立ち止まった。くるりと振り返り、高らかに言う。
「おれ。このあいだ自己ベスト更新したよ」
挑発的な獣の笑みを残し、彼は去っていく。闘争心を煽るやりかたを、十二分にわかっているのだった。千波は顔色を変えなかったが、代わりにぎゅうと手を握り締めていた。爪が食い込み痕になるだろうというくらい、強く。
一度承諾したことだから最後まで責任をとりたい。それが彼の意志だった。だけど同時に、練習できなくていいのかと聞くぼくに、こうも言ったのだ。
よくない、と。
ぼくに彼の気持ちはわからない。好敵手を前に足止めを食うもどかしさはいかばかりだろう。
つとめて明るい声で、沈黙を破った。
「千波。これ終わったらさ」
ぼくにできることと言ったら、気晴らしにファミレスに誘うくらいのものだった。
千波は誘いに乗り、ぼくたちは委員会の仕事の後の時間をともに過ごした。他愛のない話を、した。麦原千波の好きな食べ物はポテトサラダに湯豆腐、あと鶏肉。他愛のないことだけれど、少し前までの自分を鑑みれば夢のようだった。
だから少しぼくは有頂天になっていたのだと思う。
ファミレスを出て千波と別れたときにはもう、遅かった。とっさにそのことを思い出し、携帯で日付を確認する。
ああ、やらかした。今日はぼくが食事当番の日だ。
近頃外食しては遅くに帰ってくることの多かった萩森は、今日に限って在宅だった。息せき切って帰宅すると案の定、部屋の明かりがともっている。廊下を抜け、リビングにつづく扉を開く。萩森は食卓の椅子にすわり、ぼんやりとテレビを眺めていた。
「ごめん、すぐ支度するよ」
ただいまも言わずに冷蔵庫の扉を開く。上段から下段へさっと視線をはしらせ、すぐにできそうなメニューを脳裏に思い描いた。
後ろから声がかかる。
「麦原といっしょだったのか」
声に怒気はなく、少し安心する。うんまあ、と答えながら、ひとまず、あたりをつけた材料を調理台の上に出した。おとつい安かったから多めに買った牛肉。キャベツ、人参、もやし―。
「おまえ、寮に入るか」
「野菜炒めでいい?」
背中越しに問うてから、あれ、おかしいな、と思った。
なにかいま、聞き捨てならないことばが聞こえた気がする。振り返ると、疲れた顔がこちらを見据えていた。萩森は、はつらつとした男とは言い難い。けれどいまは、いつもよりずっと老けて見えた。
「寮に入るか。なんなら、夏休み明けから」
ゆっくりと、今度こそそのことばが食卓に投げ出された。バラエティ番組の白々しい笑い声が、テレビから響く。寮に入るか。意味はわかる。わかるけど。
「どういうことだよ」
「この家出てくか、って言ってる」
「なんでそんな、急に」
「友人といるのに忙しいなら出て行っても構わない、ってことだ」
「怒ってんの。飯当番忘れてたこと」
「そういうわけじゃない。ただ、この暮らしが窮屈なのかと思っただけだ」
テレビの声がうるさい、邪魔だ。食卓の上にあったリモコンの赤い電源ボタンを押し込む。勢い余ってリモコンはシーソーのように跳ねたが、テレビは消えた。ばん、とリモコンが食卓の天板を打ったのを最後に、部屋には静寂が訪れる。
その実、耳鳴りが止まない。真夜中の冷蔵庫がたてる唸りみたいな音が頭のなかに反響して、冷静になることを阻む。どうしてこんなに心が騒ぐのだろう。それすらわからないのに口は勝手に動いた。
「急に出てけなんて。ぼくが邪魔?」
「出てけとは言ってない」
テーブルをはさんで対峙するひとの顔は、憎たらしいくらい冷静だった。
耳鳴りがひときわ強くなる。
「ただ、おまえだって実の弟といっしょにいたほうが楽しいだろう」
…………じつの、おとうと。
萩森は、知らないのだと思っていた。ぼくにたったひとり、血縁者がいること。だってなにも言わなかったから。ぼくが中学に入って千波と同じクラスになったときも、最近になってつるみだしたときも。
「知ってたの」
「むしろなんで知らないと思ってたんだ。おまえの母さんからの手紙に書いてあったよ、全部」
手紙というのは、母さんの死後見つかったもののことだろう。大切なものをしまいこんだ引き出しのなかから発見された手紙は、おさななじみに宛てられていた。萩森久也さま。遺言がぼくと萩森をつないだ。萩森は母の言うとおりぼくを引き取り、以来四年、ぼくたちはいっしょに暮らしてきた。おなじ家で暮らして、おなじものを食べた。だけど。
「おれたちはけっきょく他人だ」
ああ、わかった。寮に入ることを持ちかけられて、どうしてこんな気分になっているのか。
諦めつつもどこかで願っていたのだ。目の前の男と、家族であることを。
「……やっぱりそんなふうに思ってたんだな」
台所の牛肉もきゃべつも人参ももやしもそのままで、ぼくはリビングの扉を開け放った。廊下を駆け、玄関でスニーカーに足を突っ込む。
「清」
名前、久しぶりに呼ばれたな。部屋を出て行く瞬間思ったのは、そんなことだった。
*
血のつながらない家族に見放されたぼくに行くあてがあるとしたら、血のつながった他人のところだ。走って十分の夜道のさきに、慣れ親しんだ学校はある。助走をつけて門に飛びつき、乗り越えてなかに入る。敷地のはずれのほうまで歩けば、寮棟がある。
白く四角い建物に、等間隔で同じ大きさの窓が並んでいた。まだまだ宵の口だ、窓の多くに明かりがともっている。幸い部屋の場所は知っていた。棟の一階、西側の角部屋。外から窓を叩くと、すぐにガラスのむこうに人影が差した。
「清」
いまさっき別れたばかりの人間がふたたび目の前に立っている。そんな事態に目を丸くしながらも、千波は窓を開け放つ。どうしたんだ、とは聞かれなかった。ただ気遣わしげに顔を覗き込まれる。
「入りな。……ひどい顔してるよ、おまえ」
千波の部屋に入るのははじめてだった。学習机と本棚、それからベッドだけでいっぱいになってしまうような狭さだ。ベッドの下に設えられた引き出しが全開になっていて、なかの服が飛び出している。ひょっとしたら片付けかなにかの最中だったのかもしれない。
ベッドの上に広げられた洋服をわきに追いやってぼくを座らせ、千波自身は床にひざをつく。なにがあったんだ、と問われれば、待ち受けていたようにことばがこぼれた。
「萩森に、寮に入らないかって言われたんだ」
膝頭を見つめたまま吐露する。突き放した態度だと感じた。諦められてるみたいで、いやだった。
千波とぼくとの関係に言及できない以上、すべてを語ることはできない。けれど最後の最後に絞りだした感慨だけは、本音だった。
「……家に帰りたくない……」
逃げ出してきたあの部屋へ戻っていって、もう一度萩森と顔を合わせる。そのことがひどくつらく思えた。耳の奥で冷蔵庫の唸り声がよみがえる。知らず、ぎゅうとシーツを握りしめていた。
一時、沈黙が場を支配する。
「……じゃ、おれと来るか」
思いもしない申し出に顔をあげると、すぐそばに千波の顔がある。黒く、濡れたような目。真摯なまなざし。
「さっき清と別れたあと、母さんから電話があった。休部してるなら、一度帰ってこいって」
千波の実家は、電車で二時間ほどの海辺の町だという。すぐに補修授業が始まってしまうから一泊で戻ってこなくてはならないけれど、久々に家族で過ごすつもりだそうだ。
そんな家族団らんの場にお邪魔してもいいのだろうか。不安に思うぼくに、千波はうなずく。たまには友達つれてこいって言われてるから。うそかほんとかわからない。だけど甘えたかった。千波の生まれ故郷。家族の待つ、潮の香りのする町。あこがれに似たほのあたたかい感情が、胸を濡らした。
「……あしたから、夏休みだもんな」
「そう。夏休み。だからちょっとくらい旅行したっていいだろ」
千波はその逃避行を、家出とは言わなかった。
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