彼の事情
そうして帰路につきながら、麦原が語ったことには。
ことの始まりは、二週間ほど前のことだという。その日、日直当番だった麦原は、理科の宿題を集めて理科準備室に持っていくように命じられた。山積みの問題集を持ってあの薄暗い校舎へ赴き、借り受けた鍵を使ってなかに入った。
机の上に問題集を置いたところで、話しかけられた。若い女の声だった。周囲を見回したがだれもいない。空耳かと退出しようとしたところでもう一度声をかけられ、そこで気づく。
人魚の標本から声がしている。
「まじで。おれ話しかけたけど、返事なかったよ」
「話しかけたのかよ。……そうだな、たぶんそれは、弦本が人間だから聞こえなかったんだ」
「なに、麦原。おまえ人間じゃないの」
「いや、まあほぼ人間だよ。けど、母方の血筋に人魚の血が混じっているそうだ」
「む、麦原の母さん、足あったけど」
「尾びれがあったのは昔の話だ」
人魚の子孫。麦原が。だからあんなに泳ぐのが好きなのか。制服の下に水着着ちゃうんだな。
「引いた?」
まさか。首を左右に振るぼくに麦原は淡く笑い、続ける。
理科準備室に人魚の血筋をひくものが現れたのは、彼女が標本になってからはじめてのことであったという。人魚は言った。驚かせてすまないが、こんな僥倖に恵まれることはそうない。ついてはひとつ頼みがある。
わたしの体をおまえに育ててほしい。
埃っぽい部屋でガラスケースに篭められて、陰気な教師にねっとり執着されるのにはもう飽いた。純血の人魚は不死だ。あらゆる生き方に退屈し、標本の身に落ちるのも一興かとこれまで過ごしてきたがそろそろ水が恋しい。とはいえ、骨だけの身では動くこともままならない。骨とたましいはここにある。ならばあとは肉体だ。おまえがしかるべき肉体さえ育ててくれれば、水中での暮らしに戻れる。
「それで、承諾したのか」
「迷ったけどな、そりゃ。……だけど、泳ぎたいって気持ちは、わかる気がしたから」
こわごわと、麦原は標本の頼みにうなずいた。すると突然、彼の身を強烈な眠気を襲った。抗えず眠りこみ、つぎに目を覚ましたときには寮の自室で寝ていた。
夢かとも思ったが、風呂場で鏡を見て気づいた。腹に一文字、赤い線が引かれている。腰の奥が重たく、下腹部に触れるとひくりとわなないた。そこになにかがあると思った。
かくして麦原千波は、理科室の人魚の骨格標本の〝子〟―厳密に言うならば体をその身のうちに宿した、というわけだ。なるほど変な勘ぐりをする要素はないわけだ。さながら麦原は聖母マリアだった。
「休部しなきゃいけないほどとは、正直予想外だったけど」
「いいのか? 練習できなくて」
「よくない。だけど一度承諾したことだから。最後までちゃんと責任をとりたい」
そう言って夜道のさきを見据える麦原の横顔は、打ったばかりの刃物のように美しかった。道端の街灯の光を受けて、輪郭が淡く光っている。じっと見ていたら蹴躓いて、あげく家の前を通り過ぎそうになった。
「あ、おれんち、ここ」
学校から徒歩十五分、築十年の小さなアパートを行き過ぎた麦原を呼び止める。戻ってきた麦原を前にして、それじゃあ、と言おうとして―なんでだか、言えなかった。
これから帰る部屋のなかの情景が、脳裏をよぎっていた。沼の底で孤独に沈んでいるような昏い部屋、そこに無理やり新しい風を招き入れて、蛍光灯で明かりをともす。だけどそうして居室を快適に整えたところで、ぼくがひとりで食事を摂るという事実は変わらない。
帰らないでくれと、言いたい気がした。だけど今日はじめて会話らしい会話をした麦原にどうしてそんなことが言えるだろう。
だからおとなしく別れようとした、そのときだった。
ぐう。
獣が情けなくうなるような、そんな音がした。見れば麦原が腹を押さえている。
なんだかそのしぐさがかわいくて、おかしくて、自然とことばが出ていた。
「夕飯、食べていかないか。萩森、今日遅くなるって言うし」
*
リビングで宿題に手をつけていたら、萩森が帰ってきた。手を洗いに台所に立ち、背中を向けたまま聞いてくる。
「だれか来てたのか」
洗って乾かしている最中の食器がふた組あるのに目ざとく気づいたのだろう。ぼくは手ごわい数式をいったんわきに置いて顔を上げた。
「うん、麦原。知ってる?」
「知ってるに決まってるだろ、おまえらのクラスの授業だって持ってるんだから」
「なんか先生みたいなこと言ってる」
「あいつと仲良かったか」
「いや、そうでもなかったんだけど……」
いっしょにスイカの世話をすることになったてん末を語ろうとしたそのとき、無粋な電子音が響き渡る。萩森はズボンのポケットから携帯を抜き出し、ディスプレイを確認すると寝室に入ってしまった。
ひとり取り残されて、思う。麦原の懐胎のことは、萩森には話せない。
だって麦原が無事に人魚の体を育てきったそのとき、標本は萩森の手を離れるのだから。
……もっとも、あいつがぼくの話をゆっくり聞く機会なんて、ありはしないのかもしれないけれど。あるいはこれは、人魚ばかりにかかずらう同居人への淡い復讐だった。
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