人魚の標本

 スイカの世話は園芸委員会の仕事だ。部活動が忙しい場合免除されてしまうので、いまのところぼくひとりでやっている。一時期は顧問の教諭がいたのだけれど、ご老体であるため炎天下に耐えかね、屋内に引っこんで久しい。

 仕事を終えたことを職員室の教諭に報告してから、ぼくは理科室へ向かった。

 特別棟は、ふだんぼくたちが使っている教室のある棟から少し離れていることもあってなじみがない。かつ、理科室のある北側はいつもひんやりとして薄暗く、心なしか湿っぽいにおいまでするようだ。未開の樹海に分けいるような心持ちで引き戸を開くと、ぼんやりと薬臭い空気が鼻腔を満たした。

 入ってすぐ左手に準備室の入口がある。手をかけたが、鍵がかかっていて開かない。ならば、とぼくは扉のとなりに設えられた本棚の前でしゃがみこんだ。一番下、百科事典の第三巻。開くと銀色の薄っぺらい鍵が挟まっている。理科室の主とはもう四年の付き合いになるので、隠し場所はよく知っていた。まめに持ち歩けばいいものを、横着してこんなところにしまっているのだ。

 そうして入りこんだ準備室のいちばんめだつところに、人魚の骨格標本はある。扉の外からも見える位置だから、たいていの生徒はその存在を知っているだろう。机の上に鎮座したガラスケースのむこうで薄く光のもやをまとって、なんだかゆうれいじみている。小柄な少女ほどの大きさがあり、人間の上半身からなめらかに魚の下半身が続いている。

「麦原千波があんたの子どもを身ごもったって、ほんと?」

 ささやく。返事はなかった。空の眼窩に光が宿ることも、歯がかたかたと音を鳴らすこともない。ただほこりっぽい静謐が、準備室を満たしている。

 麦原の懐胎については、一から十までわからないことだらけだった。さりとてぼくと彼のふだんの関係を思えば、ずけずけと聞くこともできない。それならもう片方の当事者に聞けばいい、と思って来たのだけれど。

 ふう、と息をついて、机に体をもたせかけた。そのとき。

「なにしてる」

 準備室の戸口に、白衣をまとった背の高い人影があった。いまいち収まりの悪い髪は半年前から散髪に行っていないせいだとぼくは知っている。細面で彫りの深い男前ではあるのだが、不精と目つきの悪さがたたっていつでも不機嫌に見えた。

 彼こそがこの学校の理科教師、萩森だ。ついでに言えば、親類縁者のないぼくを母の遺言で引き取った人物、つまりは保護者でもある。

「標本を見に来たんだよ」

「ふだんはまったく興味を示さないくせに。いったいなにを企んでる」

 なにも企んじゃいない。だけど、麦原のことを話すのは得策ではないだろう。

「これ、ほんものだったんだね」

 言うと、あたりまえだというように鼻を鳴らし、萩森はガラスケースに目をやった。不機嫌そうな顔はあいかわらずだが、強い光がその目によぎるのをぼくは見逃さなかった。

 部屋の片隅に目をやれば、うずたかく積み上がった本の塚。タイトルを目で追う。『人魚の民俗誌』『水辺の神話』『人魚学事始』……。

 鍵を挟んでいる百科事典の頁は、じつはいつも決まっている。【人魚】の頁だ。初歩とはいえ科学も物理も教えるくせに、こいつはそういうロマンチストなのだ。人魚の標本は宝物、だからその子を生徒が身ごもったなどと聞いてどう反応するか読めない。

 だからぼくが代わりに口に出したのは、まったく別のことばだった。

「……今日の飯なにがいい」

「遅くなる。一人で食ってろ、俺のぶんはいい」

 彼はこちらに視線をくれることさえなかった。ぼくを見ず、ただ、人魚を見ていた。了解、と返しながら冷え冷えと想像する。家に―学校からほど近いアパートに帰る。いまから買い物して帰ったら日は暮れているはずで、部屋は青い闇のなかに沈んでいる。そのくせ、日中の熱を溜めこんで辟易するような暑さだろう。食卓に野菜のつまったスーパーの袋を放り出し、まずは窓を開けて、しばらくクーラーをかける。空気を入れかえてしばらく涼んだら、ひとりぶんの食事の用意をはじめるのだ。

 ため息が出た。

 萩森は母の旧い友人だそうで、血縁はない。親類の存在は聞いたことがなかった。父のゆくえはようとして知れず、ひょっとしたら死んでいるかもしれない。麦原だけだ。ぼくと血がつながった人間はこの世に麦原しかいない。だからほかならぬ彼が身ごもったという事実は、うさんくさいけれど、ぼくにはうれしいのだ。


 *


 とはいえ、ぼくと麦原は友だちではない。同じクラスで顔見知りだし必要があればことばを交わす。だけどぼくは麦原の好きな食べものすら知らない。だから彼の身に起きたことがどれだけぼくに喜ばしくとも、いままでどおり、なんくれとなく彼を気にして、陰から見つめて過ごすだけだ。笑いたきゃ笑え。

 ……と、そう、思っていたのだけれど。

 あくる日の放課後、いつもどおりに体操服に着替え、首にタオルを巻き、つばの広い麦わら帽子をかぶって畑に向かうと、ひとりの少年が立っていた。

 麦原だった。体操服を着て、軍手をして立っている。

「えっと……なんで?」

 その格好、まさか手伝いに来たのだろうか。我ながらおもしろいまでに動揺していたが、対する麦原は静かに答えた。

「休部するなら免除されていた委員会の仕事をやれ、と言われて」

 ……園芸委員だったのか。長いことひとりっきりでやっていたから、同じクラスの委員がだれかも知らなかった。

「水泳部休んでるんだっけ。木梨から聞いたよ」

 だっけ、って、白々しい。さもいま思い出しました、みたいな自分の口ぶりが笑える……笑えない。ふたりでスイカの世話って、なにを喋ればいいのやら。

 とはいえ委員の仕事で来たというなら追い返すわけにもいかない。まあどうぞ、と畑に招き入れ、気づく。盛夏だ。空は高く晴れ、強い日差しが肌を刺す。

 かぶっていた麦わら帽子のあごひもを緩める。右手でとって、少し低いところにある麦原の頭にかぶせた。麦原は帽子のつばを押さえ、訝しげな顔で見上げてくる。

「暑いから」

 やっとそれだけ言えた。

「おれが借りてしまったら、そっちが暑いんじゃ」

「いいんだよ慣れてるから」

 どんな理屈だ。でも引けなかった。身重の体に無理させるわけには、なんて思いがぐるぐる回っている。麦原はしばらく逡巡していたけれど、ぼくが黙っているのでけっきょくは帽子を借りることにしたらしい。帽子の位置を調整し、あごの位置でひもを締める。帽子をかぶった彼を見て、ぼくは少し安堵した。

「……で?」

「え?」

「なにから始めるんだ」

「あ、うん、まず水やり」

 せっつかれて、麦原を畑の脇の蛇口のところに案内する。水はあんまりいらないからさっとでいいよ、と説明したきりものを言えなくなった。ふだんのぼくならべらべら喋っていただろうに。スイカはもともと砂漠の植物だから水やりはそれほど必要ないこと。だけど肥料をやったばかりだから、少し水をやったほうがいいと顧問の先生に言われたこと。

 麦原も自分から雑談をはじめるタイプではないし、ぼくたちはただ作業をこなすだけのふたりになった。水やりのあとは畑を回って、なりすぎた実を間引いたり、ふくらんだ実の向きを変えたりする。

 それも終わったから、並んで雑草をとる。緊張しどおしのせいか暑さのせいか、なんだか頭がぼんやりした。機械的に草をむしる。

 ぶちっ。ぶち。

「弦本」

 突然呼ばれて体が跳ねる。あからさまな反応をしたぼくの肩に目をとめ、麦原は少し渋い顔をしていた。

「おまえ、おれのこと苦手なの」

「に、苦手? なんでまた」

「だって弦本って、いつもへらへらしててお喋りなのに。……ずっと黙ってるし、なんかびくついてるし、いまもこっち見てないし」

 麦原よ、それはあんまり失礼な物言いじゃないか。けれど当の本人の顔には邪気がない。純粋な感想らしい。

 たしかにいままでの反応を冷静に鑑みれば、麦原がそう思うのも無理はないのだろう。ぼくはそっと首をめぐらせ、麦原を見た。麦わら帽子のひろいつばの影に、水際立ってうつくしい顔がある。帽子の網目のあいだから、細かい光が顔に模様を作っている。視線はこわいほどまっすぐ、こちらに向かっていた。吸い込まれそうな深淵の色。

「麦原とあんまり話したことないから緊張してただけだよ」

 その実、話したいことなら山ほどあった。……でも言えるわけないじゃないか。ぼくはおまえの兄です、なんて、言ってしまったらもうなかったことにはできない。雨降って地固まるならいいけど、世のなかには固まらない土だってある。

 たぶんぼくは、揺らぐ水の前に立ちつくしている。潮目を読めず、ひとたび踏み込めばどこに流されるかわからないから、足を地に縫いとめているしかないのだ。

 熱が皮膚の裡にこもっているようで鬱陶しい。かあ、と頭に血がのぼってきて視界が眩む。ぼくは、麦原にそれ以上なにを言ったらいいのかわからなかった。

「ちょっとトイレ行ってくる」

「弦本」

 呼ばれたのに気がつかないふりをして立ち上がる。そのとき、体操ズボンのポケットの中身が震え、ぴりり、と電子音がした。

 携帯電話を取り出して確認すると、萩森からメールが届いていた。今夜も遅くなる。夕食はひとりで。ディスプレイに浮かぶ無機質な文字がちらついて見えた。

 ……また、あの部屋に帰るのか。青い闇と、異様な熱気に淀む狭い一室。まずは窓を開けて、しばらくクーラーをかける。空気を入れかえてしばらく涼んだら、ひとりぶんの食事の用意を―、

 ふいに、視界がぼやけた。目に映る土の色、葉の色、光の色、ありとあらゆる色が明滅する七色のネオンに変わってぼくを包囲する。たちまち頭が重たくなって、ぐらりと体がかしぐ。

「弦本!」

 今度は返事をしなかったんじゃない。できなかった。体が、思考があつくて。


 *


 白い天井が見える。体を覆う白いシーツのつめたさが心地いい。素肌にこすれてさらさらと、衣擦れの音がする。

 水底から浮かび上がるように、思考がはっきりしてくる。かたわらを見れば麦原がいて、なにがあったかを思い出す。

 麦原はご立腹だった。

「慣れてるってなんだよ。おまえが倒れてちゃ世話ないだろ」

「ごめん」

 メールを確認した直後。目がくらんだかと思うと全身が熱くなり、ひどい頭痛と筋肉のこわばりで動けなくなった。もののみごとな熱中症だった。

 麦原の対応は、迅速だった。様子のおかしいぼくをおぶって保健室まで運び、水分を摂らせ、服を脱がせて体を冷やした。首筋に氷のうを押し当ててくる手つきはかいがいしく、胸が痛んだ。麦原を心配して帽子を貸して、けっきょく心配も迷惑もかけてしまったのだ。情けないことこのうえない。

「ほんと、ごめん。もう大丈夫だから帰っていいよ」

「あほ。送っていくよ。おれが帽子借りてこうなったんだし」

 顔をしかめてそう言うけれど、窓の外はもう大分暗い。これ以上手間取らせるわけにはいかなかった。いいよいいよ大丈夫、家近いし、と言い募ると、ぴしゃりと檄が飛んだ。

「弦本!」

「は、はいっ」

「おれのこと苦手じゃないんだろ。だったらそうやって他人行儀にするなよ」

 身を起こしたぼくを、麦原が見つめている。狭いベッドの上で後ずさろうとしたらシーツの上についた手がすべって、背中から転がる。ためらわず、麦原はぼくに手をさしのべた。身を起こすために握り返した手は意外にもぼくより大きく、そしてたしかな体温を持っていた。

 ……踏み込んでもいいのだろうか。流れの読めない水のなかに。

 そりゃもちろん近づきたいさ。半血といえどたったひとりの弟だ。たとえば父のことを話したい。麦原もまた反感を抱いているのだったらさんざんこき下ろして、まったくどうしようもないなと笑い合いたい。お互いの似ているところを探したい、似ていないところを教え合いたい。……いや、そんなことじゃなくたっていいんだ。そんなこととはぜんぜん関係のない、好きな食べものはなんだとか、そんな他愛のないことだっていい。

 だったら、と。脳裏で悪魔がささやく。だったら踏み込めばいい。

 いいのだろうか。思案するぼくの横で、麦原が立ち上がる。

「帰るんだろ、支度しろよ」

 布団の上に放り投げられたのはぼくの制服だった。麦原も自分の荷物を携えていて、あ、と思ったときには体操服を脱ぎ捨てている。よく日に焼けた、夏の日差しと親しい肉体があらわになった。保健室の白い光のなかで、しなやかな筋肉が影を張りつかせている。ぼくの背ばかり高くてひょろひょろした体とは大違いだった。

 彼はためらわずズボンも脱ぎ捨てる。そうして露出した腹に、ぼくは釘付けになった。

 下着のゴムのほんの上、ひきしまった下腹に赤い一本の線がはしっている。みみず腫れのような痛々しさがあるが、隆起はしておらず、あざに近い。

「麦原。腹の、それ……」

「ああ、これ」

 麦原の体格のわりに大きなてのひらが、赤い線をなぞる。

「木梨から話聞いたなら、知ってるか」

 その線が、身ごもったあかしだというのだろうか。下腹をじっと見つめるが、ふくらんだ様子などはない。

 視界の外で吹き出すような音がした。なにごとかと視線をそちらにやり、ぼくはことばを失う。あまりにまじまじ見ているものだからおかしかったのだろうか。麦原が笑っていた。

 それはぼくに向けられた、はじめての笑顔だった。

 生唾を呑む。こわばる口を開いて、ついに聞いた。聞けた。

「事情を教えてもらっても……いい?」

 あっさり、麦原はうなずいた。

「変な勘ぐりされるのも嫌だからな。送っていく。服着ろよ」

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