夕暮れの昂揚
黒いまなこに骨格標本の姿をうつし、彼はなにごとかを言ったようだった。けれどあまりに小声だったせいか、あるいはそれが人魚のことばだったせいか、ぼくには聞こえなかった。
千波がぼくらに、標本の頭を腹に近づけるように言う。萩森とふたりでガラスケースに取り付き、持ち上げる。大きさなりの重さがあるそれを、どうにか一息で千波の言うとおりの場所に置いた。
標本のがらんどうの眼窩が千波の腹を見つめる。かたずを飲んで見守るぼくらの前で、それは起こった。
かたり。
そんな軽い音とともにほんの一瞬、人魚の顎が動いた気がしたけれど、もしかしたら錯覚だったかもしれない。ただ、なにかが起こったのはたしかだ。
夢か魔法でも見ているようだった。次にまばたきをしたとき、ファスナーはするするとなめらかな動きで開いていた。
見入るぼくを、千波が呼ぶ。
「清。……こっち、来て」
さっきまで息も絶え絶えだったのが、少し落ち着いたようだ。もうろうとした声ながら、確固とした意志の芯がかよっている。
側に寄ると、彼はそっと、指先でぼくの手に触れた。
「卵。出して」
―なに、言ってるんだ。
腹のなかに入っているものを、ぼくの手でもって外に出せと言っている。それを理解したとき、臆病風が吹いた。そんな、ぼくにできるわけない、そういうのはちゃんとした医者とか経験豊富な助産師とかに任せるべきであって、そのへんにいた弦本清なんかに任せていいことじゃないだろう!
後ずさろうとする。けれど千波の手はそれをゆるさなかった。触れているだけなのにひどく優秀な拘束だった。
おののくぼくを差し置き、千波は軽く笑ってみせる。
「大丈夫、できる。おれは、ちょっと手が、動きそうにないから。おまえにやってほしい」
「……そんな言いかた……千波、ずるい」
気丈に振舞ってはいる。だけどいちばん辛いのは、きっと千波だ。指、震えてるし。息、絶え絶えだし。それでおまえに、なんて言われちゃ断れるわけがない。
ぼくは千波につられて震えそうになる手を叱りつけ、ぱん、とみずからの頬を打つ。
あらためて腹を見ると、ひらいたファスナーの奥からは黒い影のようなものがこぼれ出している。ぼくはそっと、手を下腹にあてがった。薄い皮膚のうちでは、まだ、熱く血潮が燃えている。病的なまでに。千波の息はまだ荒く、この熱が彼を苛むもののひとつなのだと思った。
楽にしてやりたい。
意を決して、まずは指のさきを侵入させる。内側はますます熱く、こちらの皮膚が焼けるかと思うほどだった。体の内側ということでぬめる感触を想像していたけれど、思いのほかさらりとしている。
闇をかきわけ指を進めていく。第二関節ほどまで埋めたとき、指先につるりとしたものが触れた。ひんやりとして湿っており、表面には弾力がある。
そっと指でさぐってわかる、それほど大きなものではない。けれど指だけでは取り出すことまではできないだろう。
ぼくは一度指を抜くと、体の向きを変えた。向かい合う体勢から、同じ方向を見て寄り添う体勢へ。そうしてみぞおちのほうから、てのひらを下にしてそろそろと、裂け目にすべりこませた。
千波の細いのどから声が漏れる。ごめん、と謝りながら、ぼくは手に力をこめた。ぐ、と卵が持ち上がるのを感じる。
やがて半透明の曲面が、ファスナーの合間から顔をのぞかせた。ぼくは空いている方の手で下腹を押し、卵をせり上がらせる。じわり、じわり、と卵が出てくる。
そしてあるとき、つるりと、卵は完全に千波の体を離れた。
そっと持ち上げる。両のてのひらでぎりぎり覆えるくらいの大きさの、半透明の楕円体である。大きさの割にずっしりと持ち重りがして、こんなものを腹に引き受けていた千波は、ぼくが思っていたよりずっとたいへんな思いをしていたんじゃないかと思う。うっすら水色がかった半透明の中心に、紫紺色の核がある。
しげしげと眺めていると、にわかに手のなかのそれが重さを増す。とても持ち上げていられず、タイルの上に置いた。すると内側から膨れ上がるように、卵は大きくなった。やがて身の丈の半分ほどもある、大きなものになる。
萩森と雁首揃えて見入っていると、かたわらのガラスケースががたがたと震えた。見れば、なかで人魚の骨が激しく身を震わせている。
出せ、という無言の訴えであることはぼくにも萩森にも伝わった。萩森がケースの蓋をひらく。支えの棒、針金をものともせずに、人魚の骨が宙を泳いだ。卵めがけてまっすぐに、なだらかな弧を描いて。白くにごった卵の表面にさざなみをたて、音もなく、骨は内部に吸い込まれていった。
それが孵化するまで、そう時間はかからなかった。ぴし、とやわらかな殻にひびが入り、大きな亀裂になる。そして内側に、影がゆらいだ。それはどんどん輪郭をはっきりさせて、判別可能なシルエットになる。上半身は人。下半身は、魚。
人魚が殻をやぶってプールの水へ飛びこんだのは、一瞬のできごとだった。飛沫もほとんど立てずに流線型を描いて、水のなかに消えてしまう。見間違いかとまばたきするが、プールサイドにはがらんどうの殻が残されている。ならばとプールのなかをさがすと、ゆらりと影が浮かび上がった。
顔を出した年若い女の人魚は、千波ととてもよく似ていた。光を通さない黒髪に、凛々しい顔立ち。髪は長くうねるような癖を持っていたし、顔のつくりは少女らしい可憐さを兼ね備えている。けれどまといつく空気が千波のそれとよく似ていて、ああ、こいつはたしかに千波が育てたんだなと思わせるのだ。
淡いさくら色の口唇が開く。
「苦労をかけたな」
あだっぽい、つややかな声だ。ねぎらいを受けて、千波がプールのふちまで這ってくる。
「こんなに大変だとは思ってなかった」
多少げんなりした声である。人魚は悪びれずにほほえんだ。
「あまり脅すと引き受けてくれないだろうと思ってな。しかし、よく耐えた。晴れてお役御免だ」
「……その顔を見ていると、見返りを求めたくなる」
ふむ、と芝居がかった仕草で口元に指をやり、人魚は言う。
「必要なら、菰田なんか目ではないくらい速くしてやるよ。大会で優勝し放題だぞ」
「いらない」
即答だった。人魚がそう言うと思った、と言いたげな顔をする。
「なら、報酬はなしだ」
はたから見ていても、体よく丸め込まれている気がした。千波も同じことを思ったのだろう。ふう、軽いため息。まあいいけど、とつぶやいた。
それから、ふと気がついたように、開け放してあった腹のファスナーを閉じる。銀色の二本に別れた線は閉じられたそばからもとの赤い一本に戻り、やがてそれすら薄れて消えた。残ったのは、なめらかな肌ばかり。
「軽くなった」
腹が、ってことだろう。千波はもとのとおり平らになった腹に手をやり、感慨深げにしている。
やっと、終わったんだな。千波に便乗して状況を噛み締める。
と、気づく。萩森が突っ立ったまま、黙している。人魚の標本をあれほど大切にしていたのだ、生身の人魚と対面して、いったいなにを思っているのだろう―。こわごわと、その表情をうかがう。
彼は水面から顔を出す人魚を注視していた。その目に浮かんでいるのは、喜びでも怒りでも、嘆きでもない、ただただ強い光。
もとより表情の読みにくい人間だ。ぼくには萩森がなにを思っているのか、わからない。ただ、なんらかの強い感情が働いていることだけはたしかだった。
人魚は首をめぐらせ、萩森を見る。
「おまえももうそろそろ、いいだろう。人の身にはずいぶん長い時間、わたしを閉じ込めた。少しは溜飲が下がったのではないか」
「……それって、どういう」
なにか事情を知っているふうな物言いに、思わず疑問を漏らしてしまう。人魚はほのかな笑みを浮かべたまま、ぼくに言う。
「本人に直接聞きなさい。わたしが思うに、おまえたちには対話が足りない」
う、とことばにつまる。……やりにくい。まさか見られているだなんて思わないから、この三年のあいだ、標本の前で萩森とやりあったことは何度かあったような気がする。
わかりやすく顔をひきつらせたぼくに、人魚は呵呵と笑った。さっきの千波とのやりとりといい、こいつ、なかなかいい性格をしている。でもそうか、不死、なんだよな。十四歳のぼくなんかよりよほど長く生きているわけで、ようは百戦錬磨。太刀打ち出来なくて当然か。
「ま、そこの偏屈な男が話し渋るといかんからな。少しだけ手助けしてやろう」
「いらん真似をするな」
思わず、というように萩森がぴしゃりと言ったが、人魚は取り合わない。
「自分の口から話そうとしないからだよ。恥ずかしがり屋め」
不器用なのも考えものだ。そう言い残し、人魚はふう、と水面に息を吹きかけた。はじめはごく小さかった波が、二十五メートルプールの向こうへいくにつれ大きくなる。荒だった水面が静まったとき、そこをスクリーンにして、なにかが映し出されていた。
目をこらす。少年の姿だ。だれかによく似ている……萩森、だろうか。いまのくたびれた不機嫌そうな姿とは似ても似つかないあどけない表情だが、かすかに面影がある。
彼はひとりきりの食卓で、人待ち顔をしてほおづえをついている。しばらくすると扉が開く音がして、ひとりの女性が現れた。母親だろう。ずいぶん疲れた様子である。対して少年は、輝く笑顔を浮かべて母に取り付いた。
―おかえりなさい!
―待ってたの? さきにご飯食べてなさいって言ったのに。
母親は困った表情を浮かべながらも、少年の頭をなぜる。
温め直したカレーを食べながら、ふたりは他愛のない話をした。といっても、一方的な会話だった。少年がただひたに、今日のできごとを話すのだ。学校の体育でなにをしたとか、給食がなんだったとか。けれど母親はひどく疲れていて、返事はどこか上の空。
少年は母の様子に気がつかない。来週授業参観があるのだと、純朴そうな顔で、言う。
―お父さんはいつ、帰ってくるかな。
重い沈黙が、食卓に落ちた。
母親は、子どもに聞かせるにはあまりに重いため息をついた。
―お父さんはね。海に人魚をさがしに行って、魅入られてしまったの。だからもう戻ってこられないわ。
そんなことばを最後に、水面に白いしぶきが立ち、過去の情景がかき消えた。しぶきが収まると、そこにくたびれたスリッパが浮かんでいる。
萩森が履いていたそれを脱ぎ、投げたのだった。靴下履きの片足をタイルにつけ、彼は人魚を睨みつける。
「……下世話な人魚だ」
けれど鋭い視線くらいでは、この人魚を屈服させることなどできない。なにしろ生きている年月がちがう。
「わたしはおまえを恨んではいないよ。たかだか十年だか二十年の話だ。執着されて過ごすのも一興だった」
ふたりはしばらく、視線で語り合っていた。その内情は、ぼくにはわからない。
ただ、ぼくは思い出していた。萩森の家族に関する、数少ない情報。母は看護師、父は……萩森と同じように理科教師をしていたという。高校で生物を教えていたそうだ。そんな彼らの仇が、人魚なのだ。
けれど萩森はもう、それほど仇を憎むことができないのかもしれなかった。なぜならその仇の同族とにらみあっていた彼は、自分から目を逸らしたから。忌々しげに舌打ちをした萩森に、勝った、とばかりに人魚は満足げな顔をした。
そして彼女はぼくたちに向き直る。用は終わった、と手をひらひらと振った。
「ではな。わが父にして末孫に―」
まずは千波に。
「伯父にして産婆、とでも呼べばいいのかな」
そして、ぼくに。
人魚のいとまごいがじわじわと染みてくる。伯父。そうか、彼女は、ぼくの姪になるのだ。兄弟の娘、だもんな。
いい響きだ。
ぼくが思わず頬をゆるめたそのとき、人魚は身をひるがえす。彼女のうろこは青みがかった銀色で、水の上に出るとにぶく光った。
体がうねり、底に向かって姿を消すまでの、一瞬。ぼくはたしかに、それを見つけた。
星座のように、刻みつけられた黒い点と点と、点。彼女の右腰に三つ並んだ、ほくろを。
震えが、くる。
ひとりぼっちだと、思っていた。
いまはもう、ふたりぼっちですらない。
人魚はプールの底へ底へともぐってゆき、やがて、消えた。いつしか日は沈み、あたりは夜の色に染まりはじめている。けれどいつか覚えた夕暮れの昂揚が、消えずまだこの身にとどまっている。そしてそれはどんどん大きくなって、四肢をさばしっていくのだった。
ぼくは立ち上がり、首をめぐらせる。萩森はひっそりとプールサイドを出ていこうとしていた。逃がさない、とばかりに走り寄り、肩をつかむ。
「……おれ、家に帰るよ」
だから待ってて。あの食卓で。スイカを掃除して、帰ったら。ちゃんと話をしてもらうから。
そしてぼくからも、ちゃんと話をするから。
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