第7話 カレー効果、絶大……
「用意できました。どうぞ、召し上がってください」
異様な雰囲気に包まれるテーブルの上には、湯気を立てるカレーライスが置いてある。
その皿をまじまじと見つめ、隊長は手袋を外した指でルーの表面を突いた。
「少し粘り気があるな」
「はい。あ、少し辛いので、こちらもどうぞ」
そう言って、雅晴は皿の横に水の入ったコップを置く。
雅晴が微笑みかけると、隊長は眉間に皺を寄せて表情を曇らせる。
「大丈夫なのか?」
「心配することはありません。想像の範疇ですよ」
首を傾げ、隊長は唸り声を漏らした。
氷が崩れて水を泳ぎ、水滴がガラスの表面を伝い落ちる。
「一口食べていただければわかると思います。俺たちも食べてますんで、毒とかは入ってないですよ」
「そう、か。食べればわかるか。……しかしだ、そもそも誰も食べるとは一言も言ってない!」
隊長は両手をテーブルに打ち付け、急に席から立ち上がる。テーブルから離れて、取り巻きの方へと近寄っていく。
「あ、ちょ、待ってくださいよ」
「やっちゃったね、ハル」
雅晴が落ち着きをなくしていると、アルリカに声をかけられた。彼女を横目で見ると、のんびり頭の後ろで手を組んでいる。
「やばい。マジで明日処刑されちまうぞ」
「そんときはそんときだね」
「そんなのんびり構えてる場合かよ……」
カレーを頬張るアルリカを見下ろしながら、雅晴はふと思う。
この状況に、焦っている。
いつの間にか、自分の気持ちは変わっていたんだ。
裁判を受けていたときの、投げやりだった自分。逃げ出したときの感情を経て、今、確かに思った。生きたいと。もう少しこの世界で生きてみたいと。
「すみませーん!」
呼びかける声に雅晴が顔を上げると、警備隊の隊員がテーブルに駆け寄ってきていた。
息を切らして、置き忘れられた隊長の黒ベストを手に取る。
去り際、彼女はテーブルに残されたカレーを一瞥した。すぐに目線を外すも、もう一度、吸い寄せられるように惹きつけられる。
「ひ、一口だけ……」
数人を残して遠ざかる警備隊の後姿を見やり、喉を鳴らす。
そして次の瞬間、彼はスプーンに手を伸ばし、カレーを口へ入れた。
少しの間を置いて、彼女は何も言わずにゆっくりと目を瞑る。
時間をかけて息を吐きだし、また目を開く。
「もう一口……」
そう言ってまた一口。
喉の奥で小さく声を鳴らし、うっとりとその顔をとろけさせる。
脱力した手からスプーンが滑り落ち、地面に当たって派手な音を立てた。
「ア、アイラ!」
そばでその様子を見ていた隊員が声を出し、慌てて彼女を抱き上げる。もう一人が血相を変えて調理場から走り出ていく。
「アイラ、しっかりしろ。大丈夫か」
隊員の呼びかけに対し、ふにゃふにゃとした声でアイラは口をパクパクさせる。
「貴様ら、アイラに何をした。毒か! 騙したな?」
「待ってください!」
アイラを抱きかかえる男性は、雅晴を睨みつける。鋭い目には殺意が滲み、今にもとびかかりそうな勢いだった。
「ほ、ほら、おにいさん、あたしがそれ食べても何にも起きないでしょ!」
「ああ?」
アルリカが身を乗り出して、アイラの食べた方の皿からカレーをすくい上げる。
それを食べてみせたアルリカだが、当然何も起きない。
男性隊員は雅晴から視線を外し、再びアイラに向けた。身体を揺すり、夢見心地の彼女に必死に呼びかける。
「アイラ! アイラ、起きろ!」
「こっちです」
「何事だ」
隊長の声が騒然とする調理場に返ってきた。
先ほど走り去った隊員が、本隊を引き連れて戻ったのだ。
「またお前らか! 今度という今度は許さんぞ」
隊長は四人のもとへ歩み寄り、アイラの前にしゃがみ込む。
「お前、しっかりしろ」
「頼むアイラ、起きてくれ」
「ええい、じれったい」
そう言って、隊長はアイラの左頬に向かって平手を打ちおろした。
肌と肌がぶつかり、いい音が鳴る。
顔が横を向くほどの衝撃を与えたビンタに、雅晴の顔も自然と歪む。
一瞬の間を置いて、アイラは身震いして意識を取り戻した。
「隊長、あれ、最高です」
「な、何を言っている。意識をはっきりせんか」
身体を抱えていた隊員がアイラを起こさせる。アイラは頭を擦りながら、首を左右に揺らした。
地面の上にペタンとお尻を付けて座り、大きく深呼吸をする。
呼吸に合わせて胸が上下し、その存在感が強調される。
「大丈夫か?」
「はい。なんとか。先ほどは失礼しました」
隊員が呼びかけ、それにアイラが答える。
隊長はほっと胸を撫で下ろし、雅晴に視線を向けた。
視線を向けられた雅晴が微笑んでみても、隊長はむすっとしたままだ。
「さて、これはどういうことか話してもらおうか。部下が襲撃されたわけだしな」
「襲撃だなんて勘違いですよ!」
凄みの利いた声で隊長は言う。雅晴も思わず声を張り上げた。
「それに、部下のことを言うならあなたは手をあげてたじゃないですか」
「口ごたえする気か? 学習能力のないやつだ」
「そんなつもりはないです。でも、俺たちは間違いなく何もしてないです」
「何だと?」
「ハル、もうやめとこ! 危ないよ」
徐々にヒートアップしていくやり取りに、アルリカは思わず口を挟む。
「アルリカ、ちょっと黙っててくれ。やめても何にもならないんだ」
「ちょっとハル、どういう意味。あたしはハルのこと思って!」
「仲間割れか! さすが犯罪者は違うな」
「皆さんやめてください! 倒れたのは自分のせいです。隊長、彼らは関係ありません」
声に声が重なり、また声が重ねられる中、そのすべてを凌駕する声がオーバーヒートしたやり取りを吞み込んだ。
アイラの叫び声に近い声に、三人は焚火のように縮こまった。
「……本当なのか?」
「本当です。そこにある料理を私が食べました。そしたら、その……」
「なんだ」
「思い出すだけでもあれなのですが、美味しくて。美味しすぎて気絶してしまいました」
風が吹き抜け、カレーの匂いを運んでいく。
「ああっ」
アイラは匂いにやられ、砕けたように座り込んでしまった。
その光景を目の当たりにし、隊長は思わず振り返る。
「これは一体……」
カレーを見つめたまま、一歩ずつ近寄っていく。
息は荒くなり、傷のついた額に汗が滲む。
テーブルまで歩み寄ると、手をついてカレーを睨み合う。
人参、じゃがいも、玉ねぎ。そして現地のお肉。それらが茶色いルーの中で混ざり合い、艶のある白米の上を覆っている。
「これは、調査のため。人を狂わす魔の料理を……放ってはおけない」
隊長はアルリカの持っていたスプーンを奪い取る。
「決して食べてみたいわけでは……ない」
震える手を抑えながら、ゆっくりとカレーにスプーンを入れた。
カレーを載せたスプーンを恐る恐る口へ近付け、食べた。
隊長が次の反応を示すまで、周囲の人間たちは固唾を呑んで見守るしかない。
短くも長い時間が過ぎて、隊長が動く。
皿を手に取り、カレーをかき込みだした。
あっという間に平らげ、一言。
「おかわりはないのか」
ものすごい速度で皿を差し出され、雅晴は思わず身体を揺らす。
「おい返事をしろ! お前でもいい。この料理はもうないのか」
「ひいっ」
今度はその皿をアルリカに向ける。
「ま、まだ鍋の中に一杯分くらいならあるはず……です」
「よし! あるだけ持ってこい!」
「は、はい!」
そう言う隊長の口元には、笑みが浮んでいた。
雅晴とアルリカは、目を丸くして顔を見合わせる。
このあと、残っていた材料でもう一度カレーを作る羽目になることを、二人はまだ知らない。
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