第6話 カレーのご馳走

 銃口を向けられ、雅晴はゴクリと唾をのんだ。


 警備隊長は引き金にかけた人差し指を小さく動かす。


「えっと……お久しぶりです?」


 雅晴の言葉に対し、隊長からの反応は無い。


 固唾を呑んで周囲が見守る中、隊長はゆっくりと口を開いた。


 しかし、発せられるのは聞き取れない言語だった。


 落ち着きのあると表現すれば聞こえはいいが、それよりも冷徹なといった方がしっくりくる、心に付き刺さる声が調理場に溶けていく。


「アルリカ、今回は何とかならないのか」


 小声でそう言って、雅晴がアルリカを見ると、彼女は手を上げてガタガタと震えていた。


 蜜柑色の瞳に涙を浮かべ、口を閉じたり開いたりを繰り返す。


 生まれたての小鹿のように、今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女。雅晴は思わず手を伸ばそうとするも、その手は隊長に跳ね除けられてしまった。


 ものすごい剣幕で発された言葉の勢いに押されて、雅晴も慌ててその手を脇腹につける。


 相変わらず向けられる銃口は、冷たく二人を突き刺した。


 そよ風が吹いて、調理場の空気がかき混ぜられたとき、不意に深みのある香りが鼻腔をくすぐった。


 匂いに誘われた隊長の意識が、一瞬だけ雅晴たちからそれる。


 アルリカはその一瞬を見逃さなかった。


 挙げていた手を思い切り振り下ろし、その反動で空中に飛び上がる。ワンピースが派手に捲れ上がり、翻った布が彼女を覆い隠した。裾に隠れた右手を雅晴が再び視界に捉えたときには、木の棒のようなものが握られていた。


「――スウィッテチェンベラ!」


 その棒を高らかに掲げ、彼女はそう叫ぶ。


 すると、その先端から薄青色の光が飛び出し、天井に当たって弾けた。


 光の雨が降り注ぐ中、雅晴はアルリカを見る。いつになく真剣な横顔は、凛々しく咲く一輪の花のようで、思わず見とれてしまいそうだった。


「もう大丈夫だよ、ハル。きっと言葉は通じるはず」


 最後の光が隊長のバッジに吸い込まれると、アルリカは雅晴に向かって微笑する。


 彼女の言葉の通り、唖然として固まっていた場にぽつりぽつりと戻ってきた言葉は、日本語であった。


「な、何をした。まさかお前は……」


 十四番ブースに集まっていた一般市民が感嘆の言葉を紡ぐ中、隊長だけは真っ直ぐアルリカを睨め付け、棘を持った言葉をぶつけた。


 もう一度彼女に視線を戻せば、ワンピースを両手でギュッと掴み、じっと隊長の目を見つめ返している。その手に先ほどの棒は無くなっている。


 ただならない目をする両者に、雅晴の額には冷汗が浮かぶ。


 膠着する状況を変えようと雅晴が勇気を固めているうちに、隊長が先に喋り出した。


「まあいい。お前が黙り続けるなら、そっちの不法入国者とともに処刑するまでだ」


 鍋の蓋が蒸気でうるさく鳴って、やけに耳につく。


 群衆の騒めきに混じって、微かに聞こえる息をゆっくりと吐き出す音。


「イド・マサハルに厄災の根源、よく聞け。お前たちの後ろで喧しく煮えている料理、それが最後の晩餐だ」


 隊長の宣言に、騒めきはどよめきへ変化し、調理場は重苦しい空気に支配された。






「やっと出来上がったな」


 カレーを皿によそった雅晴とアルリカは、木製の長テーブルが並ぶスペースへ移動してきた。


 あのあと、アルリカは唐突にどこからともなく白米を取り出した。受付に行ってみると、これまた都合の良いことに飯盒を借りることができた。


 そのおかげで、二人の目の前では、カレーライスが湯気を立てている。


「うん。あたし、最後にカレーって自分の知らないご飯を食べられてよかった」


「ほんとにか?」


「でも、わがままが言えるなら、最後にお母さんの作ったスープが飲みたかった……なあ」


 語尾が夜風に消えて流される。柵の奥、眼下にはいつもと変わらない日常がある。


 二人が向かい合って囲む食卓の周りを、警備隊がぐるりと取り囲む。さらにその周囲では、違和感を残しつつも、普段通りの調理場が戻りつつあった。


 隊長は雅晴とアルリカを眺め、じれったそうに足を揺すっていた。


「ごめん。俺に構ったばっかりに」


「ううん。こっちこそ謝らなきゃ。あたしもドジっちゃったし」


「そうなのか? ま、お互い謝り合っててもあれだし、食べよっか」


「だね!」


 そう言うと、二人はスプーンを掴みあげる。


 見つめ合って、微笑み合う。


 それから大きく息を吸い込んで。


「いただきます」


 手と声を揃えた。


 雅晴は米のルーがかかっている部分をすくい上げ、口へ運ぶ。


「いい匂いだね」


「だろ。カレー粉によってもいろいろ変わるんだぜ」


「カレー粉って、さっきの塊?」


 スプーンを口の前で止め、アルリカは雅晴を一瞥する。


 口を動かす雅晴を見て、アルリカもカレーを口へ入れた。


「ああ。あの六個に分けたやつ。そういや、バザールでカレーの説明したとき、カレー粉の説明してなかったな。あれじゃあわかるはず――」


「なにこれ辛すぎっ!」


 雅晴の言葉を遮ってアルリカは声を上げる。コップに手を伸ばして水を一気に飲み干した。


「でも……なんか美味しい」


 笑顔でそう話す彼女の額には、じんわりと汗が滲んでいる。


「そうそう。その辛いのがいいんだよ」


 片手で顔を仰ぎながら、一口、また一口と食べ進めていくアルリカ。


 雅晴は余裕のある表情で、一口、また一口と皿を綺麗にしていく。


 スプーンですくい上げた中に、バザールで買った牛のような肉が混ざり込んだ。


 ふと雅晴の脳裏に、数時間前の約束が蘇った。


「そういや、店主には悪いことしたな」


「なんで?」


「この感じだと、カレーを届けるのは難しそうだ。ちゃんとお礼したかったな」


「……ん? その必要はなさそうだけど」


「え?」


 アルリカはスプーンを咥えながら、右手で正面を指さした。


 雅晴が指の差す方へ振り返ると、警備隊の隙間から見覚えのあるこげ茶の禿げ頭が覗いている。


 その禿げ頭は雅晴が自分の方を向いたことに気が付いたのか、ニッと笑って唇を吊り上げた。


「肉屋の店主! いたのかよ」


「アゼルー。十四番ブースに残りまだあるから、勝手にとって食べといて!」


 雅晴に続いて、アルリカが大声で叫ぶ。


 少し間を置いてから、群衆の中から豪快な笑い声が返ってきた。


「オーケイオーケイ。ほんじゃあ俺も、そのカレーとやらを食ってみるわ!」


 そう言い残し、隙間からアゼルの姿は見えなくなった。


「どんだけ食べたかったんだよ……」


 雅晴は体勢を戻すと、残っていたカレーをかき集める。


 リスク負いすぎだろ、と呟いてから、それを一気にかき込んだ。


「おい、お前ら。無駄口叩いてないでさっさと食べろ」


 隊長は座ったまま悪態をついた。足の揺れは今までと比べ、大きくなっている。


「このあとまだ牢屋に放り込む仕事が残ってんだよ」


 その瞬間、何を思ったのか雅晴は間髪容れず口を開いていた。


「一口いかがですか」


「あ?」


「隊長さんもカレー食べませんか? お腹空いてるんですよね」


 雅晴がそう提案すると、隊長は立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。


「ちょっ、ハル。何言ってんの。刺激しない方がいいよ」


「まあ見てなって。カレーの刺激で状況を一変させてやるから」


 身を乗り出してきたアルリカに、雅晴は耳打ちでそう返す。


 隊長はもうすぐそばに迫っていた。


「お前、ふざけたことを言うな」


「そうですか? さっきから見ていると、どうもそんな気がしまして」


「誰がそんなこと。さすが欺くのがうまいな」


「このカレーはもっとうまいですよ」


「う、うるさい。お前たちは今の自分の身分がわかって――」


 隊長は激昂して声を張り上げる。しかし、力を入れたお腹は、先にギブアップを提示した。


 大きな音でお腹が鳴り、辺り一面は張りつめた空気に包まれる。


「い、今のは……」


 真っ赤にして怒っていた隊長の顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。


 追い打ちをかけるかのように、もう一度、頼りない音がお腹から響いた。


 その瞬間、ピンと張られていた緊張の糸は、無残にも引き千切られる。


「お前が、お前が夕暮れ時に逃亡するから……それだから昼から何も食べてなくて……」


 隊長はそばにあった椅子に腰を下ろす。


 ゆっくりと少しずつ、小さな声で吐き出していく。


「そりゃあ、お腹も空いてイライラしますよね」


「誰のせいだと思ってるんだ……」


 入れ替わりで雅晴が立ち上がり、隊長の肩をトントンと叩く。


「だから、俺たちでご馳走します。カレー、用意しますね」


「お前ら……」


 精一杯優しい声で語りかける雅晴。アルリカに微笑みかけ、親指をそっと立てた。

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