第5話 大衆調理場
雅晴とアルリカはアゼルと別れ、カレーを作るために大衆調理場へ到着した。調理場は丘の上にあり、街を一望できる。
明かりが闇の中に浮かび上がり、通りを作り出す。街の区画は水路によって整備されており、至る所にアーチ状の石橋が掛けられていた。
鉄柵に肘をついて雅晴が水面に揺らめく光を眺めていると、背後からアルリカの声が聞こえてきた。振り返れば、彼女はにこにこと笑い、親指を突き立てて左へ向かって振る。
「お待たせー。受付してきたよ。あっちの柱の方だって」
「おう、サンキュー」
「何見てたの?」
「街の光が綺麗だなあ、って」
「だよね。でも、ここから見える以外にも、まだまだ世界は広いんだよ」
「そうなのか?」
「うん。ほんと、いろいろあるんだよ。……ささ、カレー楽しみだね。行こ!」
受付のプレハブ小屋の横を通り抜け、調理棟へ足を踏み入れる。この建物は四方の壁が無く、屋根のみの簡単な造りになっていた。
手前にはコンロと流し台、調理台のセットがずらりと並び、奥のスペースには木製の長テーブルがたくさん置いてある。
調理場を利用しているのは独り身から家族連れまで、年齢も性別も様々だった。
「あたしたちが使うのはこのブースだよ」
「ここかあ」
十四と書かれた札が掛けられたスペースの前でアルリカは足を止めた。両隣には先客がおり、何やら美味しそうな料理を作っている。
雅晴は手に持っていた袋を台の上に置き、中から食材を取り出していく。
「ハル、なんか手伝うことある?」
「んんー、別に今んとこは無いかな」
「ふーん。ほんとに無いんだ。あたしだって料理くらいできるんだよ?」
雅晴が顔も見ずに返すと、アルリカは不服そうに不平を並べていく。
後ろから向けられる鋭い視線に耐えられず、雅晴は手を止めて振り返った。
すると、不満げな顔をしていたアルリカは一転、その顔に満面の笑みを咲かせる。
「そうだなあ、じゃあ、鍋借りてきてくれる? それなりに底が深いやつ」
「やった! わかった。行ってくるね」
そう言って、彼女はプレハブ小屋に向かって走っていった。
再び一人になった雅晴だったが、手元に調理器具が何もないことに気付き、慌てて小さくなった背中を追いかけた。
「んじゃあ、気を取り直して」
「カレーを作ろう!」
一通りの器具を揃えた二人は、調理台の前に並んで立つ。雅晴は袖をまくって準備を整える。
雅晴はじゃがいもの入った袋を手に取って、中から小さめの芋を二つ取り出した。
「アルリカ、ネットから玉ねぎ取って、二つむいといてくれ」」
「はーい。……これだよね」
「そうそう」
じゃがいもと人参を持って流しへ移動して、雅晴は水道の蛇口を押し下げた。何気なくアルリカの方へ目をやると、彼女は眉を八の字に下げて首を傾げている。
手元には小さくなった玉ねぎがあり、台の上には白い山ができていた。
「ハル、これどこまでむけばいいの? 無くなっちゃうよ」
「定番と言えば定番、か」
「どういうこと?」
「いや、こっちの話。それは茶色いとこが無くなるくらいでいいよ。そんなにむきまくらなくて大丈夫」
雅晴は野菜をまな板の横に置くと、もう一つの玉ねぎを手に取って向いてみる。
表面の皮を二枚ほどむいて、ほれ、とアルリカに見せた。
「何それ。そんだけでいいんだ。じゃあ、もう一個取り出してむいとくね」
「ああ。頼んだぞ」
アルリカがネットに手を入れるのを見届けてから、雅晴も包丁に手を伸ばす。
人参を半分に切って、先端の方を脇へ置く。まな板の上に残った片割れに手を添え、ヘタを切り落とす。
「ハル、できたできた!」
「おー。どんな感じだ?」
「どう?」
差し出された玉ねぎは、表面の茶色が無くなってすっかり白くなっていた。しっかりと可食部分が残る絶妙な大きさだ。
「合格」
「やった!」
「それじゃあ、玉ねぎ洗っといてー」
人参とじゃがいもの皮もむき終わり、水を張った器にじゃがいもを放り込む。人参はコンロの上に置いた鍋に入れておく。
右隣りで調理していた老夫婦が作業を終え、出来上がった料理を持って奥のテーブルへ消えていく。左側では髪の長い少年が、黙々と何かを煮込んでいた。
アルリカは蛇口を手の甲で押し上げ、両手の玉ねぎをまな板の上にのせた。
「大丈夫か?」
「まあ見ててよ。こんなの楽勝だよ」
そう言って、彼女は玉ねぎに向かって包丁を勢いよく振り下ろす。
手も添えずに切ったものだから、玉ねぎは反動でまな板から転がり落ちてしまった。
「ほんとに大丈夫なのか?」
「い、今のは演出だから」
「へえー」
汚れた玉ねぎを洗う背中に、雅晴は薄く開いた目を向けた。
腕を振って水を飛ばし、彼女は再びまな板に向き直る。
今度はきちんと丸めた指先を添えている。
「なあ、そのまま切ったら触感悪いぞ」
「ば、わ、そんなのわかってるよ。ハルを試しただけだから」
玉ねぎの向きを変え、繊維に沿って切り進めていく。
後から気付いてヘタを切る頃には、アルリカは鼻歌交じりになっていた。包丁がまな板を叩く軽快な音が、辺りの喧騒に負けじと響く。
しかし、順調に進んでいると思われていたカットだったが、上下していた手が不意に止まった。
「どうした?」
「ハルゥ……」
「げ、なんだよ」
「あれ。涙が、止まらないよ……」
鼻声で訴えるアルリカの目には、涙が浮かんでいた。ぽたぽたと涙が滴り、まな板に溜まっていた水と混ざった。
「あたし、病気になっちゃった?」
「大丈夫だから、さっさと残りも切っちまえ」
「うわーん」
鍋に放り込んだ三種の具材と肉を炒め終え、雅晴はコップ四杯分の水を注いだ。火を弱めて蓋をして、しばらくは沸騰してくるのを待つだけだ。
「アルリカ」
「なあにー?」
「なんでさ、こんな俺を助けてくれるんだ?」
雅晴がそう言うと、鍋を覗き込んでいたアルリカは顔を上げた。
肩甲骨の辺りで揺れる灰黄色の毛が横顔を隠し、表情は窺えない。
「んんー、何でだろうね。何となくかな」
「いやいや。そんなことは無いだろ」
「そうだねー。頼まれちゃった、からなのかなあ」
「頼まれた?」
「路地裏でちょっと話したでしょ、ニーナって人のこと。あの子から頼まれたんだ。あの子って言っても、年上なんだけど」
そう言って彼女は口元に手を当てて笑う。
「じゃあ、そのニーナって人は何で俺のことを?」
「さあ。よくわかんないんだけどさ、外の世界……から来たんでしょ?」
「えっと……」
「それで、たぶん心細いだろうから、そばにいてあげてほしいのって」
「そりゃ随分と優しいんだな。何者なんだ?」
ニーナという謎の人物は、牢屋まで最後の晩餐についてを伝えに来ていた。アルリカの話を聞く限りでは、雅晴が日本という外部からこの世界へやってきたことも知っている。理由は何であれ、なぜ知っているのかを探る必要はありそうだ。
「何者? うーん。ハルと同じ感じの人?」
「そのハルってあだ名もそのニーナって人が言ってたのか」
「ううん。違うよ。これはあたしが勝手につけたんだ」
「そうなのか。……で、アルリカはニーナに頼まれたからって得体の知れない俺に近付いたのか?」
「確かにそこはあれだけどさ。でも、噴水広場で遠巻きに見たとき、悪い人じゃなさそうだったからさ」
「だからって……」
会話が途切れ、少しの沈黙が生まれる。
奥のテーブルの方から大勢の笑い声が聞こえ、続いて拍手の音が届く。
「まあ、何だかさ、ハルからは同じ匂いを感じたっていうか、何ていうか。それで、いっかなあ、みたいな」
「んん?」
「あー、難しいお話終わり! とにかく、あたしはお願いされたからハルと一緒にいる。それだけー」
アルリカはこちらに振り返り、笑ってみせた。
心なしか無理矢理にも見える儚い笑みを浮かべ、彼女は続ける。
「あたしはルィトカの人間だから、スカーレット家の人間には逆らえない……」
消え入りそうな声は、吹き抜けた夜風にさらわれていった。
替わって、彼女の背後から何かがぶつかる音が徐々に大きくなっていく。
「あっ!」
「んん?」
鍋に駆け寄る雅晴に合わせて、アルリカもその動きを追う。
カタカタと揺れる蓋を持ち上げると、沸騰してアクが浮いていた。
おたまですくい上げて取り除き、火の強さをさらに弱める。
「そろそろルーの出番だな」
雅晴は独り言をつぶやく。
「おおおっ! そのルーってのがカレーなの?」
「え?」
さっきまでとは打って変わって、興味津々、アルリカは目を丸くして雅晴の脇から顔を出す。
雅晴がそんな顔を見下ろしていると、彼女は口を尖らせた。
「もう、言ったでしょ? 難しいお話おしまい!」
「ま、それでいいならそれでいいか」
「うん」
アルリカの話はさっぱり全貌が見えてこないが、騙そうとしている様子は無いようにも思える。雅晴は根掘り葉掘り聞くのをやめ、目の前のカレー作りに専念することにした。
「それじゃあ、改めまして。カレー作りを続けましょうか」
「カレーカレー!」
「といっても、残す工程はルーを入れて溶かすくらいなんだが」
雅晴はレジ袋からカレールーを取り出し、箱を開けた。
中から容器を引っ張り出すと、半分に割って、一方を箱に戻してもう一方をアルリカに手渡す。
「それ、窪みに合わせて縦と横に折り曲げてみて」
「ここ?」
「そう」
アルリカがルーにヒビを入れている横で、雅晴はコンロの火を止める。
蓋を外して調理台に転がした。
「さ、フィルムを剥がしてみ」
「はーい。行くよ」
小気味良い音を立てながら、黄色いフィルムが剥がれていく。
徐々に広がっていく隙間からは、何種類ものスパイスが混ざり合った芳醇な香りが溢れ出す。
それは、刺激的で鼻をそらしてしまいそうで、でもどこか魅せられて惹きつけられてしまう。
「おお! おおおおおお!」
フィルムを剥がし切ったアルリカは思わず声を漏らす。
周辺の利用者が何事かとこちらに顔を向け、またそらす。
「鍋の中入れてみ。もっとすごいぞ」
「ほんと! 入れる!」
それは純粋な興味なのだろうか。自分にとって未知の存在との遭遇。何かに取り憑かれたように、彼女は容器を鍋の上で振っている。
六つの固形ルーが熱湯に落ち、その形を崩していく。
アルリカはおたまを持って、一心不乱にかき混ぜた。
ルーが溶け出すたびに、空気と混ざるたびに香りが飛散する。
「あんまりめちゃくちゃやると、じゃがいもが無くなっちまうぞ」
「でも、ハル。でも!」
アルリカのあげる声もさることながら、いつの間にか調理場のうるささも上がった気がする。
ふと雅晴が鍋から顔を上げると、十四番ブースの周りには人だかりができていた。
それはもう、利用者のほとんどが集まっているのではないかと思うほどの人数で、後ろも横も前も、全方位が人だった。
「ど、どうなってんだ」
口々に話すのは、階段で玉ねぎを受け取る前に聞いていた言語。雅晴は何一つとして聞き取ることができない。
聞き慣れたこの国の理解できない言語が、四方八方から飛び交う。
「急に、なんで。さっきまで話せたのに」
雅晴がパニックに陥りそうになっていると、騒動に気付いたアルリカがこちらへ振り返った。
不安そうな顔をして雅晴を覗き込む。そして、口を開きかけた瞬間、乾いた銃声が調理場に響き渡った。
一瞬にして張りつめた空間には、ぐつぐつと食材が煮える音とガスの燃える音だけが残る。
身動き一つとらない人垣をかき分けて現れたのは、噴水広場で最後に見た人物。筋肉で隆起した身体。金色の短髪に額の傷が特徴的な漢。
彼がニッと笑うと、胸元のバッジが電灯の明かりを反射して、不気味に煌めいた。
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