第2話 シュレディンガーの

 翌朝、雅晴の寝込みを強い衝撃が襲う。


 目を見開いて飛び起きると、ベッドの傍らに見知らぬ男性監視員が立っていた。呼びかけてくるのは、昨日の可愛らしい声とはかけ離れた、随分と荒々しい声である。


「……おやすみ」


 雅晴は一つ欠伸をして、また毛布に潜り込んだ。


 すると、すぐ隣から大音量の雑音が湧いて、耳に突き刺さる。


 毛布をはぎ取られ、ベッドの下に叩き落されてしまった。


「わーったからちょっとは優しくしてくれよ」


 ぶっきらぼうにそう伝え、雅晴は床から起き上がる。


 差し込む朝日に照らされながら、服に付いた砂を払い落としていると、不意に腕を掴まれた。


 腕を辿った先には、男性監視員のフレッシュスマイルがある。


 目が合うと、彼は無言でゆっくりと頷いた。


「いや、わからないんですけど」


 雅晴の気持ちを知ってか知らでか、彼は笑顔のまま親指を突き立てた。


 表情を変えずに監視員の男性は腕を引っ張り、連れられるがままに雅晴たちは出口へ向かって歩き出す。


 開け放たれた鉄格子を潜ると、右手の窪みに昨日の監視員がいた。今日はベストを着ておらず、紺色のシャツだけだ。


 彼女は窓枠に肘をつき、片足を逆の足に絡ませている。その横顔はどこか儚げで、風に吹かれて今にも無くなってしまいそうに見えた。


 いかつい男性監視員が呼びかけると、彼女はもたれかかっていた身体を起こした。


 振り向きざまに舞った銀髪が、差し込む陽光に透き通る。昨日とは違い、下ろした髪が胸にかかっている。


「おはよう」


 何となく、雅晴は会釈交じりに挨拶をして笑いかける。目が合った彼女は、赤面して胸を抱いた。


 思ってもいなかった反応に、雅晴は首を傾げてしまった。


 それとほぼ同時に、隣で男性監視員が腕を振って大げさに手招きをする。彼女は、はい! と頷いて壁から離れると、雅晴の後ろに位置を取った。


 雅晴は監視員二人に連れられて、廊下の先に繋がる階段へ向かって歩を進める。


 廊下の左側のみに牢屋があり、その数は全部で四つ。それぞれのベッドには、囚われの身の者が横たわっている。


 監視員は一つ置きの牢屋に配置されている。彼らの前を過ぎる際には、何やら言葉を交わすのが通例のようだ。


 何度か折り返しながら細い階段を上っていくと、最後に木製の扉が立ち塞がる。


 一行は一度そこで立ち止まった。


 先頭の男性がこちらへ振り返り、何かを言い聞かせるようにゆっくり一言ずつ喋っていく。


 オーケイ? と尋ねられて気がして、雅晴は首を傾げてみる。


 すると、男性は大きな溜め息を零した。


 少し間を置いてから、彼は扉を指して押す動作をしてみせ、続けて人差し指を口元に当てた。


「この向こうでは静かにしろってこと?」


 返事は無い。


 後ろを振り返って少女に視線を向けてみても、彼女はあたふたするばかり。


 雅晴の背後から男性が何かを話しかけると、少女は短く言葉を返した。


 彼女は一度深呼吸をして、口をきゅっと結ぶ。俯いたかと思うと、次の瞬間には自身のベルトに手を伸ばしてカチャカチャと音を立て始めた。


「きょっきゅ、急すぎやしませんか」


 声が裏返りそうな雅晴とは裏腹に、いたって冷静なまま彼女は雅晴に向かって手を伸ばす。


 雅晴の手を取るのと時をほぼ同じくして、カチャリと小気味良い音が鳴る。


 少し遅れて、手首からひんやり、冷たい感覚が伝わってきた。


「おお?」


 雅晴が能面のような顔で下を向くと、禍々しくも美しい金属の輪がきらりと黒く輝いた。


「ほう」


 顔を上げて、少女に目を向ける。


 何とも晴れやかな笑顔が、整った顔の上で満開に咲いていた。


 肩に手を置かれて雅晴が振り返ると、またまた満面の笑みがそこにはあった。


「……はい」






 扉を抜けた先は今までの閉鎖的な空間とは打って変わり、天井までかなりの高さがあるホワイエのような場所に出た。


 右を向けばはるか向こうでガラスが煌めき、左を向けば消失点に向かって空間が消えていく。


 足元には絨毯が敷かれ、壁は白く塗られて細かい細工が施してあった。


 壁際に並べられた赤いソファでは、羽根の付いた帽子を被った淑女が優雅に紅茶を飲み、スーツに身を包んだ紳士が新聞のようなものを読んでいる。


 その反面、書類片手に行き交う人々はみな急ぎ足。彼ら彼女らの話し声が、このゆったりと豪勢な空間に忙しなさを演出していた。


 周囲の光景に目を奪われていると、手首の枷が引っ張られる。


「今度は何ですか」


 雅晴が男性監視員へ振り返れば、彼は親指でどこかを指し示していた。そちらを見上げると、大きな扉が口を閉ざしている。幾重にも積み重なった肩車でも通れてしまいそうだ。


 視線を戻すと、彼はまたしても黙ったまま大きく頷いた。


 止めていた足を再び動かし、三人は横並びになって階段を上っていく。幅はこれでもかというくらいに広く、足元の絨毯は手入れが行き届いている。


「でっけえなあ」


 よそ見ばかりしていた雅晴は、二人から少しずつ遅れを取り始めていた。


 それに気付いた少女の監視員が、困ったように表情を歪ませる。口を尖らせて階段を数段下り、雅晴の背後に回り込んだ。


「な、何する気でさぬあっ――」


 力任せに背中を押された雅晴は、バランスを崩して段に躓いてしまう。


 前のめりになった瞬間、後頭部に何かがかすり抜けた。


 倒れ行く中、その正体を探ろうと必死に眼球を上へ向ける。暖かみのある赤い絨毯。こちらへ振り返りかけの男性監視員のお尻。そして、視界の隅で弾け散る光。


 迫りくる床は、それこそあっという間に眼前にあって、手は輪っかで繋がれていて出しようもなかった。


「きゃっ」


「いっでぇぇ――っどぅぇ」


 打ち付けた顔面に続いて、背中にも強い衝撃が伝わってくる。顔をぶつけた瞬間的な鋭い痛みとは違い、じわじわと圧迫される鈍い痛み。


 反面、前からはふかふかと絨毯の、後ろからはふにふにと謎の感触もある。


「っててててて」


「ぶふぇっ」


 雅晴は立ち上がろうと全身に力を込めた。やけに重たい気もしたが、強引に身体を起こすと背中から少女が転がり落ちる。


 背後から聞こえた似つかぬ野太い声に驚いて、雅晴の口から思わず声が溢れた。


「ぬおっ」


「おぉーーーーい」


 彼女はそのまま何段かずり落ちて止まった。捲れ上がったシャツとズボンの間から白く綺麗な肌が覗いている。


「おおおぉぉぉーーーいぃぃぃ」


 そんな彼女に目を奪われていると、男性監視員に手を引っ張りあげられた。

 彼は雅晴を立たせると、続いて少女のもとへ駆け下りて手を差し出す。


「おーい……」


 ふと、誰かに呼ばれた気がして、雅晴は辺りを見回してみる。階段の上にはこちらを見下ろしていたり、光の弾けた辺りに集っていたりする人々が、下の広間には先ほどとほとんど変わらぬ光景があった。


 しかしその中に雅晴は違和感を覚える。


 監視員二人の先へ視線を向けたとき、その正体に気が付いた。


 先端が尖った広いツバの大きな帽子を被り、黒っぽい布で全身を包んだ変人がいた。しかも、こちらを見上げて手を振っている。


 どこかで見たことがあるような気がして、雅晴は目を凝らす。すると、変人はこちらが見ていることに気付いたようだ。


「あ、やっと気付いてくれた!」


 無駄に明るいトーンでそう話し、嬉しそうに破顔した。


 不思議系ファッションに染まったその少女は、振っていた手を懐に忍び込ませごそごそとまさぐりだす。


 しばらくして引き抜かれた手には、茶色い球体が握られていた。


「これ、忘れものだよ」


 彼女はその手を天に突き出して、肘から腕をゆっくりと引いていく。


 そのとき、体勢を立て直した男性監視員が階段を勢いよく駆け下りだした。


 大きな声で叫びながら、一直線に不審者のもとへ突き進む。


「うげっ、やば。ハル、受け取って!」


「はっ!? 無理だって」


 引いていた腕が前方へ押し出され、茶色い球体が宙を舞う。


 放物線を描いたそれは、男性監視員の頭上を通り越し、数秒後、シャツの裾を直していた少女監視員の頭頂部に直撃した。


「あっ……」


 四人の間にしばしのしじまが訪れる。


 最初に行動を起こしたのは監視員の少女だった。


 絨毯に埋もれた球体を拾い上げ、視線を落としたまま再び動かなくなった。


「あ、あたしはちょっと用事思い出したから、か、帰るね」


 そう言い残し、謎の少女は一目散に走り出した。そのあとを逃すまいと男性監視員が続いていく。


 この場には、昨夜と同じ二人だけが残された。


「……大丈夫?」


 彼女は小さな声で何かぶつぶつと、ぼそぼそと喋っている。


 しばらくして、両肩が小刻みに震えだした。


「まあ頭に当たったら痛いよなあ」


 雅晴が何と呼びかけてみても、まるで反応が無い。


 彼女は両手に力を籠め、茶色い球体を潰そうとしている。と、球体の表面がズレ、中から白く透き通った部分が露わになった。


「それ、玉ねぎみたいっすね。……玉、ねぎ?」


 自分で玉ねぎと口にして、雅晴の脳裏にふと昨日の記憶が蘇った。


 噴水広場で倒れる前、転がっていく玉ねぎ。玉ねぎの先にいた、不思議な格好の少女。アニメや漫画でよく見た、魔女のような真っ黒の格好。


「もしかしてさっきの不思議ちゃん!」


 急に大声を出したせいか、目の前の少女は大きく身体を揺らした。


 今度はその玉ねぎを握り拳で殴り出す。何度も何度も、力一杯殴りつける。少しずつ表面が削れ、汁が飛んだ。


「ああ、すまん」


 謝ってみても返事は無い。


 それどころか、上下する肩も手も止まってしまった。


「……いや、待てよ。何でさっきの子と会話できてたんだ」


 再び覚えた違和感を雅晴が脳内会議にかけようとしたとき、彼女は顔を上げた。


 その表情は、今にも泣きだしてしまいそうで、目にたくさんの涙を浮かべていた。


 そして、何かを叫んだかと思うと、玉ねぎを投げつけてきた。


 今回は咄嗟に両手を突き出し、雅晴は手のひらの付け根で玉ねぎを挟み込む。


「あっぶねぇだろ」


「知らない……わよ。そう……やって、意味不明なこと、ばっか喋って……私を、からかって」


「からかってなんかねえよ。こっちは大真面目で」


「何でよ。何で、涙なんか……。泣きたくなんか、ないのに」


「あんたが玉ねぎの汁飛ばすからだろうが」


 そう雅晴が言い放つと、彼女はへなへなと座り込み、泣き出してしまった。


「うそっ、泣くのタイムタイムッ」


「――ってんめぇ!」


 急に飛んできた怒号に雅晴が振り返ると、帰ってきた男性監視員が目の前に迫っていた。


「ちょっちょっと待って――」


「待たねえよ!」


 雅晴の言葉を跳ね除け、彼は拳に渾身の力を籠める。


 思い切り振りかぶる腕に、雅晴はぎゅっと目を瞑った。


 ――が、備えていたはずの衝撃が走らない。


「……あれ」


 恐る恐る盾代わりの腕を解き、目を開けてみる。


 彼は拳を握りしめたまま固まっていた。目を丸くして、何度も瞬きを繰り返す。


「俺、今あんたの言ったこと理解できたぞ」


 監視員の男性にそう言われ、雅晴もハッとする。


 その場の空気に流されて思考が巡っていなかったが、それはよく考えなくてもおかしなことであった。


「ほんとだ。俺もあなたの言ってることわかります」


「私だって、わかるん……だから」


 何度も鼻をすすりながら、彼女も会話に入ってきた。


 目を擦り、瞼を赤く腫らしていく。


「お前、こいつに何されたんだ。泣くなんてらしくないぞ」


「別に、何もされてないです」


「じゃあなぜだ」


「それは……」


「さあ、言ってみろ。話してくれないとわからないぞ」


 彼はしゃがみ込んで、彼女を諭すように言葉を促した。


 それを受けて、彼女は頬を紅潮させてもじもじと下を向く。


「何でもないです」


「あのー」


 雅晴は先ほどまでの光景を思い返し、ふと口を滑らせる。


「たぶん、玉ねぎ潰したせいじゃないですかね」


「玉ねぎ?」


 その瞬間、彼女は立ち上がって雅晴の胸倉に掴みかかった。


 茹でだこのように顔を真っ赤にして、詰め寄ってくる彼女。階段で倒れたときに背中に感じたふにふにが、今度は前から当たる。


 雅晴は確信する。これは、男にはない、女性特有のアレである、と。


「その距離感は、少々、その……柔いアレが当たって」


「……んはあっ!」


 一瞬の間を開けて、彼女は謎の言葉を発した。


 慌てて雅晴から手を離し、胸の前で交差させる。


「今のそれは、その、忘れてください。……お願い」


「それ、って、何のこと?」


 そう言って雅晴は目線をゆっくりと落としていく。コロコロ変わる彼女の態度が、悪戯心をくすぐってくる。


「べ、別にノノノー」


「のー?」


「――急いでて付け忘れたわけじゃないん……だから」


 彼女は抱いていた腕を解き、下方に何度も振り下ろす。


 目を瞑った拍子に、溜まっていた涙が頬を伝って絨毯に溶けた。


「はっ?」


 驚愕は短く大きな一言となって声になる。


 やけに柔らかく存在感のある感触だとは思っていたが、まさか、つけてないとは考えてもみなかった。


「朝から何度も……隙あらばって、見てきましたよね」


「み、見てねえし」


 ほんとかウソかわからないが雅晴はそう返す。


「ほんとですか」


 彼女は、よかった、と胸を撫で下ろした。


「名前は?」


「な、名前ですか。何で急に」


「急なのはお互い様。いきなり今ノーブラなんですとか言うやつがあるか。言わなきゃつけてるかつけてないかなんて、わかんなかったのに」


「なっ、そんなおっきな声で言わないで」


 彼女は頭を手で抱えながら左右に振っている。毛先が揺れて、フローラルな甘い香りが広がった。


 しばらく揺さぶって落ち着きを取り戻したのか、彼女は手櫛で髪を整える。


「フィリーネ、です」


 紫紺の瞳に輝きが戻り、口元にやっと笑みが浮かぶ。


「フィリーネかあ。俺は雅晴」


 よろしく、と続けようとしたところで、ホワイエ内に大きな鐘の音が響き渡った。


 それを合図にして、階段上の扉がゆっくりと内側に開き出す。


「やばい、開廷しちまう! 二人とも急げ」


 男性監視員の後ろを、雅晴とフィリーネは駆け足で着いていく。残り僅かな階段を上れば、入り口はすぐそばにある。


 通用口の前に待つ係員が、こっちへと手招きする。


 自分を捕まえた組織の人間とよろしくだなんて、一体何を考えていたんだろう。


 黒く不気味に光る枷を眺めながら、雅晴は大きな溜め息をついた。

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