第1章 スパイスの香りに誘われて

第1話 王都入り

 暗転してから幾ばくかの時間が過ぎた。


 長いような短いような時の流れを感じ、豆粒ほどの光が現れる。


 みるみるうちに育った光が頭上を澄んだ青色に塗り、海へと溶けていく。足元からは石畳が広がっていき、身体をぐるりと回してみれば、そこはもうたくさんの人で賑わう広場であった。


 噴水の周りには待ち合わせている子供がいて、レンガ造りの建物前には制服を着た女性がいて、鞄を抱えて建物に駆け込んでいく男性がいる。目の前には、この世界の日常があった。


「ほんとに……着いたんだな」


 潮の香りが涼しい風に混じり、高く昇った太陽が輝く。空では白い鳥が鳴き声をあげている。


 スポーン地点こそバザールではないものの、街並みの奥に聳え立つ王宮が、あの絵画の世界であることを物語っていた。


「スーパーで買ったやつはそのままなのか」


 風にレジ袋がなびき、その場違い感に笑いを堪えられずに吹き出してしまう。


 日本にいたころはあれだけ厚着をしていたはずなのに、今は長袖のシャツ一枚になっている。気温も暖かいを通り越して少し暑い。そんな気候に合わせ、街の人たちの服装も大半が薄着であった。


 雅晴は眼前に広がる街へ繰り出したい気持ちを抑え、まずはこの周辺で情報を集めることにした。


 広場を見回してみると、橙レンガの建物前に案内板のようなものがある。


「幸先良いじゃん」


 しめたとばかりに、雅晴は軽い足取りで近寄っていく。


 案内板には街の地図とその説明が記されているようなのだが、ここにきて今後の生活における最大にして最悪の知らせが飛び込んできた。


「まさかの……文字が読めねぇ……」


 見たことのない文字が、何かの規則性に従って記されている。解読の余地は、無い。


 周囲の人の声に耳を傾けてみても、さっぱり聞き取れなかった。


「どうすんだこれ」


 その後もただ歩き回って噴水広場の探索を続けた結果、レンガ造りの建物は駅舎だということがわかった。改札口に立っているのは駅員のようで、奥のホームには列車が何両か停まっている。


 しかし、それがわかったところで何の価値も持たなかった。お金も無いため、出店で売っている軽食も買えない。


 噴水に腰かけ、雅晴は一息ついた。


「調理場みたいなとこがあればなあ」


 袋の中でじっと出番を待つ食材たちから目を外す。


 途方に暮れて、ぼうっと空を眺める。雲はゆっくりと、海の向こうへ流れていく。


 気が付くと、先ほどの白い鳥が頭上に何羽か集まってきていた。同じ場所でぐるぐると小さく旋回している。


「ブツが落ちてくる前に退散しましょうかねえ」


 そう言って雅晴が立ち上がろうとしたとき、広場に大声が響き渡った。


 声がした先へ素早く目を向けると、大勢の人が階段を上って広場に雪崩れ込んできていた。


 その人々は上半身には紺色のシャツの上に黒いベストを、下半身には真っ黒のズボンを身に着けている。


 集団の先頭にいた男性が、手を使って何やら指示を出す。すると、その集団はさっと広がって広場を取り囲んでいく。指示を出した男性の胸元のバッジは、一人だけ形状が異なっていた。


 統率された動きをみせる謎の集団からは、まるで軍隊のようなただならぬ威圧感が放たれる。


 賑わいで溢れていた広場は、たちまちに静まり返ってしまった。強く張られた緊張の糸を、背後で噴き出す水が刺激する。


 次の瞬間、隊長らしき男性が短く声を張りあげた。


 その声を合図に、広場を囲んでいた集団が一斉に走り出す。


「えっ、ちょちょちょちょちょちょっ」


 あっという間に雅晴は包囲され、屈強な漢たちに手足を抑え込まれる。


 すぐ目の前に迫る顔面から発せられる言葉は、まったく意味がわからない。


 身動き一つとれない恐怖と、向けられる敵意に得体のしれない感情が沸き起こる。


「何なんですか。放してください!」


 とにかく、と意思を表示するも、漢たちは漢たちで雅晴の話す言葉が通じていないようだった。


 怪訝そうな表情を浮かべ、抑える力が強くなる。


「痛いです痛いって痛いいぃいってえなあ」


 最後に虚勢を張って牽制してみても、びくりともしない。


 悶着しているうちに、先ほどの隊長らしき男性が人垣に分け入ってきた。


 押しのける腕にはコブが盛り上がり、全身の筋肉の隆起が服の上からはっきり見て取れる。


 隊長は雅晴の正面へとやってきて、鋭い目つきで見下ろしてきた。


 視線を逸らすこともできず、雅晴と隊長の間には沈黙が続く。


 金色の短い髪が風に流れ、額の傷が見え隠れしている。


 と、隊長の手が不意に動いた。


 殺されると思って、雅晴は目を瞑った。


 ――が、何もない。


 目を開けてみると、彼は腰に手を当てていた。


 あ、と声が聞こえて、隊長は何やら話しだす。


 ガラガラとした声には確かな芯がある。だが、取り巻きの漢たちのような荒々しさは感じられない。


「へっ、何もわかんないっすよ。言葉のわかるやつを連れて出直してこい!」


 そんな優し気な声から、隊長がそれほどまで強くなさそうだと、雅晴は重大な勘違いをしてしまう。


 ここで舐められるのは癪に障る、と語気を強めて言い放ってみる。


 相手が困り顔を見せたのをいいことに、雅晴は畳みかけていく。


「何だ、何もしてこないのか? そのバッジは見せかけのダンボールなのか。折り紙貼ってキンキラキンか」


 言い切って口元に笑みを浮かべてみる。


 すると、隊長の表情はみるみるうちに吊り上がっていった。


 どうやら罵倒は罵倒として届くらしい。


「……というか、えっと、俺ここに来たばっかですっごく不安なんです。あの、その――」


 腰から手が離れ、握り拳が固められる。


「ごめんなさいごめっ、許してくっ――」


 雅晴がやばいと思ったときにはすでに遅かった。腹にめり込んだ拳が、グリリと音を立てる。


 今度は殴られて死ぬのか。


 地面にレジ袋が落ちて、耳障りな音を立てた。転がり出した玉ねぎを、ぼうっと目で追いかけていく。


 重い瞼に視界が遮られる直前、野次馬をする群衆の中に不思議な格好をした少女の姿を見た気がした。






 目が覚めると、そこには岩肌が剥き出しの天井があった。


「今度は生きてた……のか」


 雅晴は上身体を起こし、周囲を見回してみる。


 小さな部屋の三方は削り出しの壁になっており、正面の一方にだけ大きめの空洞があるが、そこには太い鉄格子がはめられているため、逃げ出すことは不可能だ。


 ランプ一つない室内は仄暗い。採光用の小さな窓から見える夕焼け空は、ほんのりと紫色に染まりつつあった。


 外から聞こえる波の音だけが空間に弾け、消えていく。


 どうやらあの後捕らえられ、牢屋にブチ込まれたらしい。レジ袋は押収されてしまっていた。


「これ、どうすればいいんだ。転生システム、テキトーすぎるだろ」


 雅晴が嘆きの声を上げていると、金属が甲高い音を轟かせる。


 気が付けば、監視員らしき少女が鉄格子の向こう側に立っていた。手には細長い棒を握っている。


 広場で見たのと同じ紺シャツ黒ベスト&ズボンの洋装をしているが、これがこの機関の制服なのだろうか。


 そんなことを雅晴が考えている最中も、彼女は必死に声を張り上げている。


 しかし、配属されてまだ間もないのか、その姿は板についていない。凄みの足りない声に、卑下する感情を表し切れていない動作。そして何よりも、後頭部で括られた銀髪が尻尾のように揺れて可愛らしい。


「やっぱ言葉がわからんのはデメリットの方が多いなあ」


 喧騒で鼓膜を揺らしながら、雅晴は大きな溜め息をついてベッドの上で丸くなった。


 目を瞑ってしばらくじっとしていると、監視員の声からみるみる力が無くなっていき、しまいにはすっかりしぼんで静かになってしまった。


 静けさを取り戻した牢屋には、再び波の音が響いて一定のリズムを生み出している。


 渡り鳥が喧嘩し、遠くで船の警笛が鳴る。


 それらに混じって、近場ですすり泣く声。


 雅晴は気になって、目だけを開けて外の様子を窺ってみる。


 先ほどの監視員の姿は見えなくなっていた。


「んん?」


 少しだけ身を乗り出して目を凝らしてみると、鉄格子の右下の隅に毛のようなものがあった。それは廊下の電球に照らされて、銀色に輝いている。


 眉間に皺を寄せ、雅晴は思考を巡らせる。つい少し前、あの色の髪を見た気がする。気は強そうなのにどこか儚げな声と一緒に揺れる尻尾。


「さっきの監視員か!」


 思わず声を出してしまった。慌てて口を手で覆うものの、泣き声はすでに止んでいた。


 雅晴は慌ててベッドに横たわった。勢い余って硬いマットレスから埃が立ち上り、スプリングが軋む。


 息を殺して耳を澄ませてみると、衣が擦れる音が微かに聞こえてくる。彼女は何度も鼻をすすっていた。


 不意に、今までとは異なる音が耳に届く。


 雅晴は集中させていた意識をそちらへ切り替えた。同じ間隔で、同じような強さで、少しずつ大きくなっていく。


「足音……?」


 すぐにその疑問は確信へと変わった。


 何者かが歩くにつれて、別の誰かがそれに合わせて唸り、叫んでいる。その声は男性のものから女性のものへ変わり、そして性別もわからないほどに疲弊したものになった。他にも何人か捕らえられている者がいるのかもしれない。


 やがて、足音は雅晴が捕らえられている牢屋の前でパタリと止んだ。


 恐る恐る顔を上げると、ランプの光を浴びる影が鉄格子の向こうに二つある。


 すっかり暗くなった部屋と廊下のランプに挟まれたその影は、逆光になって表情がよくわからない。だが、新たに増えた影は、とても小さく小柄であった。


 僅かながら監視員の声が上ずって震えている。泣いていたのはやはり彼女だったようだ。


 しばらく言葉を交えた後、二人は右手で敬礼をし合う。


 雅晴はその様子を眺めていたが、元々の監視員が立ち去っていくのを見て、今度は慎重にベッドに張り付いた。


 また、波の音以外の一切が聞こえなくなる。


 少し経ってから目を微かに開けてみると、小さな影はじっとこちらを覗き込んでいた。


 全身に鳥肌が立つのを感じながら、雅晴はじっと息を潜める。


「……ねえ」


 ふと、微かに声が聞こえた。


「寝たふりしてるの、バレバレですよ?」


 可愛らしい女性の声。あどけなさの残るその声音は、今、確かに日本語を喋った。


 雅晴が思わず上体を起こそうとすると、その女性は起きないで、そのままで聞いてと柔和な口調で口を開く。


「突然ですが、明後日、あなたは処刑されます」


「処刑!?」


「大声出さないでください。気付かれてしまいます。詳しくは省略しますが、あなたには不法入国の疑いがかけられています」


「……それってどういう」


 しーっ、とその小さな女性は指を口元に当てる。


「明日はいろいろと大変になると思います。この国における不法入国の罪はとても重いので」


「大変って、まさか拷問ってことじゃ」


「その点に関しては心配いりません。安心してください。身の安全は保障しましょう」


 そう言って、彼女は何度か首を上下に振った。


「本題はここからです。判決が下ったあとなのですが、最後の晩餐について話があります。処刑執行前のせめてもの慈悲ですね」


 トーンを少し上げて続けて語る。心なしか口元が笑っているような気もする。


 中途半端な慈悲はかえって辛いようにも思うが、そんなことは与える側には関係のないことなのだろう。


「で、あの袋に入っていた食材なのですが、実はまだ捨てられていないんです」


「まだ残ってるのか。なんかちょっと嬉しいな」


 雅晴は独り言をぼやいた。


「……言いたいこと、伝わりましたか?」


「いや、まったくわからな――」


「あ、一服してきてもらった娘が戻ってきました」


 雅晴が言葉を言い終わらないうちに、時間切れを伝えられる。


「私から伝えられるのはここまでみたいですね」


「ちょ、まだ何にも理解できてないって」


「ご健闘を祈ります!」


 彼女はくるりと回って背を向ける。少し遅れて舞い上がった背中の黒髪が鉄格子を優しく撫でた。


 遠ざかる足音と近付いてくる足音がぶつかって、歩を止める。


 僅かに聞こえてくるのは、この世界に来てから嫌というほど聞いたご当地言語だった。何を話しているのかはわからないが、今度は談笑しているようだ。


 少しの時間が過ぎてから監視員が戻ってくると、その手にはトレーが抱えられていた。その上に置かれた平皿からは、湯気が立ち上っている。


 少女はトレーを地面に置くと、手でベッドまで下がるように指示を出す。


 雅晴は目を湯気へ釘付けにしたまま後ずさる。


 忘れていた空腹が急に襲ってきて、大きな音でお腹が鳴った。


「いやあ、そういや向こうの昼から何も食べてませんでしたわ」


 少し恥ずかしくなって微笑みかけてみるが、監視員の真顔は崩れない。


 雅晴が出入り口から距離を取ったのを確認し、鉄格子の下部を持ち上げてトレーを移動させる。


 中に入り切ると、彼女は急いで鍵を閉めた。


「ありがとうございますありがとうございますありがとうございますぅ!」


 そう言うと、ライトに照らされた監視員の真顔が歪み、引きつった。


 雅晴が支給された食事に駆け寄ろうとすると、彼女はズボンのポケットから紙を取り出し、目線を落として読み上げだした。


「コ、ココウサ……マカラ、デンガダ」


 彼女は日本人が片言の英語を話すように、言いにくそうにゆっくりと続けていく。


「ソーオソーオ。アタタカイェオーコメ……ハテヤントェジュビシテ、ヲークケア、ガバテネェ。カレータンオシ……ミシトール」


 そう言って監視員は顔を上げ、雅晴のことを見つめてくる。


 どう返すべきか迷った挙句、雅晴は素直な気持ちを伝えることに決めた。


「すまん。わからん」


 手を横に振ってからバツ印を作ってみると、監視員の頬がみるみる桃色に染まっていく。


 彼女を見つめ返したまま微笑を浮かべてみると、一気に沸騰して耳まで真っ赤になった。


 目を泳がせていたと思うと、何かを言い残してあっという間に視界の外へ走り去ってしまった。


「とりあえずご飯食べますか」


 顔を下に向けると、足元にはパンと白い飲み物、野菜の入ったスープが並べられている。


 スプーンを手に取ってスープを一口飲むと、口の中にほんのりとしたしょっぱさが広がっていく。


「あったかい……」


 パンは申し分のない出来であった。もちもちとふわふわの境界線が絶妙に引かれている。謎の白い液体も、飲んでみるとただの牛乳だった。


 スープの味付けは薄く、どこか寂しさを覚えたが、空っぽの胃にはかえってそれが優しく感じられた。


 食事を終えて一息つくと、蓄積されていた疲れがどっと襲ってきた。


「拷問に備えて寝るか」


 雅晴は立ち上がり、ベッドに向かってふらふらと歩き出す。


 窓の外に見える空は、一面黒く塗りつぶされている。あちこちで輝く星々は、更けていく夜を静かに見守っていた。

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