ノンターメリカルカレー

沢菜千野

ノンターメリカルカレー

序章

プロローグ

「二〇八七円頂戴致します」


 大学生くらいの男性店員が、カゴを押し出しながら合計金額を読み上げた。


 一瞬、悔しそうな表情を浮かべた伊戸いど雅晴まさはるは、覗き込んでいた財布から顔を上げた。三枚のお札を取り出し、カルトンにそっと置く。


 店員が金額を入力している間に、雅晴は人参と玉ねぎを袋へ放り込んだ。


「お待たせ致しました。九一三円のお返しになります」


 店員からお釣りを受け取って、雅晴はカゴを持って窓際の台へ移動する。


 じゃがいもと残りの物品を袋に詰めていると、閉店作業をしている店員たちの話し声が聞こえてきた。


「あそこの角のゼロトゥウェンティフォー、おっさんが金出せって強盗に来たらしいぜ」


「またかあ。なんか、そういうの聞くと年末だなぁってなるわ」


「だな」


 雅晴は詰め終わった袋を掴むと、出口へと向かう。マニュアル通りの「ありがとうございます」を背中で浴びながら、お馴染みの音楽が響く閑散とした店内を後にした。


 年の瀬を控えた十二月の最終週。遮るもののない河川敷では、冷たい風が吹き荒れていた。マフラーは暴れ、頭に被ったフードを引き剝がそうとする。


 雅晴はフードを押さえ、思わず縮こまった。耳元でレジ袋ががさがさと鳴り、風の強さをより強調させた。


「寒すぎだろ……」


 身震いしながら足を進めていると、正面から歩いてくる人間の姿が目に付いた。背丈はそれほど高くなく、ふらふらと左右に揺れている。暗くてよくわからないが、手に何かを握りしめているようにも見えた。


 目を合わせないよう、雅晴は顔を横へ逸らした。対岸の夜空が街の明かりに照らされて、ぼんやりと輝く星は今にも溺れてしまいそうだった。


 小さく溜め息をつくと、白くなった息が刺すような空気へと溶け込んでいく。


 視線を正面に戻すと、目の前にいた。先ほどの人間がいた。


 血色の悪い青白い顔に表情は無く、薄汚れた服は所々穴が開いている。白髪交じりの長髪が風に揺れ、剝き出しの頭皮がちらついた。


「兄ちゃん、悪いな」


 その言葉を耳にすると同時に、雅晴は腹の辺りに違和感を覚えた。痛いような、痺れるような感覚の後、じわじわと温かさが広がっていく。


 気が付けば、目の前にいるはずの人間に焦点が合わない。不思議な感覚の源を調べようと顔を下へ向けると、腹から何かが突き出している。いや、何かが突き刺さっていた。


「えっと……その……えっ?」


 状況の理解は追いついていないが、この意味を察することは何となくできていた。


 両足から力が抜け、ふらついた。次の瞬間には地面が眼前にあった。


 勢いよく風が吹き抜け、道路脇の草木を順番になでていく。水面を揺らして枯葉を乗せ、天高く舞い上がっていった。






「こんばんは、伊戸さん」


 誰かの声がした。低くなく、寂しさにも、悲しみにも囚われていない純粋な温かな声。


「伊戸雅晴さん。起きてください」


 その言葉で視界がすうっと開けていく。見えたのは自室の天井でもなく、病院の天井でもない暗く、光の一切がない深い闇だった。


「さあ、いつまでも寝転がってないで、こちらを向いてください」


 自分の意思に反して、雅晴はゆっくりと上体を起こす。


 すると、真上からライトのような光が灯り、周囲を少しだけ照らし出した。


 また人がいた。先ほどの歯抜け爺さんとは違う、一人の女性が目の前にいた。


「め、女神様?」


「女神様、かあ。なかなか嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 意識がまどろみを抜け出せないまま雅晴が発言すると、正面の女性は顎に手を当てて満足そうな表情を見せた。


「でも、私は神様じゃないのよ。ただの一職員」


 そう言って、首から下げた社員証のようなものを指差した。そこには、冥界統治局没後調整課調整官ファンネ・エーテと書かれていた。


 彼女が言うには、地球上で亡くなったあらゆる生命は一度このホールに集められ、今後の方針について話し合いを行うのだという。それらの管理及び運営を冥界統治局が行っており、没後調整課に所属する調整官がそのフロントエンドということになるのだとか。


「では初めにですが、伊戸さんは日本国内において、人間としての生を終えました。お疲れさまでした。死因は腹部を刺されたことによる出血性のショック死ですね」


 さらりととんでもないことを話した彼女。通った鼻筋と丸くて大きな目。白を基調としたドレスのような制服から伸びる手足は細く、長い。絶世の美女でも負けを認めざるを得ないシルエットは、まさに女神と見間違うほどだった。


「今後のことなのですが、伊戸さんにはいくつか選択があります。転生か消失か、放浪か……」


 続けて何か言いかけて、ファンネはそこで口を噤んだ。雅晴をじっと見つめていたかと思うと、俯いて考え事を始める。


 腰まで伸びた金髪が動作に合わせてふわりふわりと舞い、スポットライトの光に輝いた。


 しばらくしてファンネは顔を上げ、改めて口を開く。


「んん、冥界側で働くには容姿ポイントが足りませんね。ということで、以上三択になります」


 そう言ってファンネが指を鳴らすと、三枚のカードが現れた。


 満面の笑みプラスウインクのファンネは、無敵の様相だ。そんな彼女から唐突に容姿を貶された気がしたが、雅晴は目を瞑って自分に言い聞かせる。


 大学に入ってからも、彼女の一人もできやしなかったではないか。


 美しく可愛い彼女の周囲には同じレベルの男女がゴロゴロといて、日々楽しく過ごしているに違いない。


 中の上はあると思っていた顔面偏差値だって、所詮井の中の蛙に過ぎなかったんだ、と。


 そう思うと、自然と怒りすら覚えなかった。


 目を開けると、目の前ではカードがきらきらと、そしてうるうると波打ちながら浮遊している。


 転生、消失、放浪。


 転生――生まれ変わって再び生を得る。

 消失――消えてなくなる……。

 放浪――彷徨う……。


「この中のどれかを選べってことですよね」


「そういうことになりますね」


「詳しい説明みたいなのは無いんですか?」


 悩むに悩めず、雅晴が疑問を投げかける。


 しかしせっかく返ってきた答えは、明後日の方向に飛んでいくこととなった。


「そこは、こう、選んでみてのお楽しみ……的な」


 唖然とする雅晴をよそに、ファンネは手を伸ばして大きな伸びをする。


 ライトに照らされる中、物音一つしない空間で難しい選択を迫られることになってしまった。


 転生――どこへ? 何に?

 消失――どこから?

 放浪――どこを?


 考えても答えの見えない自問自答を繰り返していると、ファンネがどこからともなくペンと紙を取り出した。


「あの」


「おっ、決まりました?」


「いえ、まだ決めかねてます」


「そっかあ。じゃあさ、転生にしちゃおっか」


「えっ?」


「これからも、まだまだいっぱい悩めるようにさ」


「ちょっと待ってください」


 ファンネは雅晴の言葉に耳を貸さず、手続きを開始した。


「伊戸雅晴。男性。身長は一七〇センチくらいで、細身。髪は茶目っ気のある黒色で――」


「なんか誤解生まれそうな言い方やめてくださいね。茶色っぽいって言ってね」


「顔はそこそこ。少々めんどくさい性格だが、転生先でもうまくやってくれることでしょう」


「転生するにしてもこう、いろいろとあるでしょ。何にとか、どこにとか」


「まあ、悪いようにはしないから、ね」


「いやいやいやいや。そんな顔しても俺は騙されませんよ」


 そう言って雅晴が大げさに手を振ったとき、当たってしまった。左端のカードに。


「ああっ」


「……身体は正直って、言うでしょ? 転生希望っと」


 ファンネの色っぽい声音に、不覚にも頬が赤らんでしまう。雅晴はそんな自分に大きな溜め息をついた。


 ファンネがペンのキャップを閉めると、それを合図に紙が浮かび上がる。記入された文字が淡く光り出し、空中で光の爆発が起きた。光が収まると、空白だった紙の下半分が文字でびっしりになっていた。


「もう少しで手続き終わるから、ちょっと待っててね」


「待ってはくれないけど待たせてはくれるんですね……」


 ペンを胸元に引っ掛け、ファンネは長方形の用紙を両手で持ち直す。


 下三分の一を山折りにし、今度は記入面を内にして半分に折った。上端を三角形ができるように折り返し、さらに紙を折り曲げて、慣れた手つきで整形していく。


 できたよ、と手渡されたのは、小学生のころよくテスト用紙で作ったあれだった。


「紙飛行機……」


「それをびゅーぅぅんって飛ばして、たどり着いたところが転生先だよ!」


「こんな恐ろしいこと……」


 雅晴は自分のプロフィールが書かれた紙飛行機をまじまじと見つめた。たった一枚の紙飛行機で、第二の人生が決められてしまう。


 動かなくなった雅晴の横で、ファンネは嬉々として指を鳴らしている。音がするたびに、暗闇にライトが灯り、絵画が浮かび上がった。


 モンスターと戦う勇者。飼い主に撫でられる猫。空を舞う綿毛。寒そうな雪山。南国のビーチ。


 他にも様々なシチュエーションのものが、所狭しと並んでいる。


「ささっ、早く飛ばそ。怖いなら私が飛ばしてあげる!」


 あっともいう前に、手の中から紙飛行機は消えている。雅晴がファンネを見ると、既に意気揚々と振りかぶっていた。


「待って、心の準備がまだ――!」


 言い終わらないうちに、紙飛行機は空を切った。


 スピードに乗って、一直線に奥へ奥へ飛んでいく。


 いくつもの絵画を通り過ぎ、視界の外へ消えそうになる。すると、またファンネの指が鳴り、闇の中から絵画が浮かび上がる。


 出発から数十秒後、紙飛行機は吸い込まれるように一つの絵画にぶつかった。


 その絵画には、穏やかな青い海をバックに買い物客で賑わう華やかな市場が描かれていた。


「あれは……ヴァリタ・ロネリアの王宮前バザールだね」


「それって、アタリ? ……ハズレ?」


「それは行ってみればわかるよ。幸運を祈ります!」


 ファンネが右手を上げると、今度は空間自体が光り出した。紙飛行機の当たった絵画以外が消え、残されたバザールの絵画は徐々に大きくなっていく。


 やがて、地響きのような音とともに空間全体が強く発光し、白く包み込んだ。


 完全に色を失う直前に雅晴がファンネを見ると、彼女は優しく微笑みかけてくれた。


「いってらっしゃい」


 その言葉を最後に、視界のすべてが光に吞み込まれた。

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