第16話

 オムホロスは思い出せるかぎりの魔法陣を張り巡らせ、蜘蛛の糸がその境界でちらちらと輝いた。樹のやにが媒体となり、樹木の枝々の蜘蛛の糸もまた結界の役目を果たしていた。


 オムホロスは四大精霊と契約を交わし、自分の身柄を預ける段取りをつけておいた。しばらく精霊界にひそんでおけば、時間稼ぎにはなるだろう。


 水と土の精霊が契約を受諾し、オムホロスをしばらくのあいだ樹木にかえてくれると承知してくれた。守護の印もおたがいにとり交わした。いわゆる契約が破棄されるまではその身柄を保護すると。


 オムホロスは実行に移されるまえに、最後になるかも知れないコンタクトをとった。


 ルーは、夕刻の日差しに赤く染まった、灰色の煉瓦の神殿の陰に身をひそませていた。うとうとと首をゆらし、片ひざをついて居眠りをしている。


 するりと胸元から滑り落ちた土人形は、ざっとあたりを見回し、ツァカタンのもとまでようやくきたのだと知った。


 気持ち良さそうに寝入っているルーを、オムホロスはしばらくみつめていた。精悍さからはほど遠いその寝顔に、オムホロスは笑みを浮かべた。


 それから、オムホロスはルーの不精してほつれた白っぽい金髪を乱暴に引っ張った。


「いたた」


 ルーはあわてて飛び起き、寝ぼけまなこで剣に手をかけた。


「油断は禁物ですよ」


 耳になじんだ声を聞き、ルーはにやっとうれしげに笑いかけたが、自制してむっつりと土人形を見下ろした。


「土くれのくせに勝手に歩き回るんじゃないよ」

「それはそうと」


 ルーは呆れたようすで嘆息し、「あんたが口をきくときは、僕になにしろ、ああしろと命令するときだけなんだな? 落ち着いて世間ばなしでもしてみようとは思わないのか?」


「思いませんね」


 土人形には表情はなかったが、地図をみつめるオムホロスは顔をゆるませていた。ゴドウの血が、以前ならわからなかったルーの控えめな甘えを感じとっていた。


「せっかちなやつだなぁ」


 ルーはつまらなそうにつぶやいた。


「あなたほどおひまではありませんので」


 確かにオムホロスに時間などなかった。ルーがオムホロスの事情を知るはずもない。だが、この無駄な時間がオムホロスには貴重に思われた。ルーと自分をつないでいた事柄を終えたいまでは。


「それはそうと、こんなところでぼんやりしているひまはないですよ、さっさと神前におたちなさい。ツァカタンの下僕の餌食になりたいのですか?」

「ああ、それにはもう会ったよ。僕をひとなめして逃げてった」

「それはよかった」


 ルーはむっつりとしてつぶやいた。


「もう少し心配してくれてもよさそうなものを……それとも、僕にやきもちでも焼いてるのか?」

「どうして? ツァカタンの下僕にやきもちをやかなければならないのですか?」


 ルーはにやにやと笑いながら、「春ひさぎはかわいかったよ、なんだか変な娘だったけど」


 オムホロスは地図をみながら、にっこりと微笑んだが平坦な声で、「金子は与えたのでしょう? なら、五分五分じゃないですか」とこたえた。


 ルーは残念そうに唇をとがらせると、「じゃあ、なんだ、おまえはあの娘の客だったのか?」


「ええ、借りがあったのです」


 ルーは眉を寄せ、「どんな借りが?」


「あなたには関係ないことです。どうせ聞いてもわかりはしないはずですし」

「冷たいな、僕が襲われても心配すらしない」

「なぜ? 関係ないでしょう。あなたが襲われるはずはないのですから。ツァカタンの下僕が探していたのは男ですしね。それにあなたには剣があることだし、襲われたといってもオムホロスとの約束は果たしたあとだったのでしょう? なら、問題などないではないですか」


 オムホロスはルーがすねた口調になったのに気付いていたが、わざとそういいはなった。


「あんたは薄情だな」


 ルーは不機嫌そうに唇をとがらせた。


 オムホロスは肩をすくめ、地図から目を離し、あたりのようすをうかがった。まだ大丈夫だ。それで、地図にまた目を戻した。


「ツァカタンは報酬をもとめる神です。あなたはなにを代償とするつもりです?」


 ルーは思いもよらないといかけに、目をしばたかせた。


「駄賃をもとめる神なんてきいたこともないな……まぁ、なんとかなるだろう?」

「あなたがそれでよいのなら」


 煉瓦の回廊は地下へともぐっていき、薄暗い廊下がえんえんと続いた。


「地下に家をつくるなんて」


 ルーはいまいましげに吐き捨てた。


「それがどうしたのです?」

「地下は妖魔の住む領域じゃないか。少なくともケラファーンではそういわれてた」

「オムホロスの住み家も地下でしたよ」

「土臭い泥人形にはお似合いだね」


 ルーは胸元の土人形を見下ろして、鼻で笑ってやった。


「それはどうも」


 声は反響もせず、しめってかび臭い煉瓦の壁に吸収されていった。徐々にせばまっていく廊下を、身をちぢこませてルーはさらにくだっていった。


 突然、方形の広間へと抜けた。

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