第15話
オムホロスはとらえた二百以上のキメラをいっせいに放ち、それぞれに自分の気配を植えつけておいた。
魔法使いはまだ気付いていないのだろうか。いや、とっくの昔に気付いてもおかしくはない。
地図をひろげ、コンタクトを取るために忘我する時間も、いまはただ惜しい。ルーは自分の懸念よりもうまくやりこなしていることだろう。信じるしかなく、モロの小鳥をふくろにつめて、安全に身を休められる場所へといそいだ。
密林をうろつくたびに、すこし引いていった結界を完成させていく。そして、そこに身を隠すつもりだった。ひとところにとどまるのは危険なことでもあった。しかし、それでもめくらめっぽうに逃げ惑うよりかはましだ。
目的地に近づき、モロを封じこめて使役霊とした、ミドリフウキンチョウをふくろから取りだした。
「モロ、よく聞け。おまえはいまから魔法使いのもとへいき、魔法使いに乗り移るんだ。確実に乗り移ることができる方法を考えろ。さぁ、いけ!」
ミドリフウキンチョウは夜明け間際の薄暗い森のこずえへ狂ったように高くかけのぼり、消えていった。
さっそく樹液で呪文をかけた。やにが糊状に固まって、強固に結界は張り巡らされた。
暁の光に照り輝く濃紺の長髪が、泥と汗にべとつき、ゴドウのたてがみのように背中にへばりついている。昨夜の傷はまだ癒えず、体中泥と血とで灰褐色に染まっていた。
オムホロスは憂鬱に顔を伏せ、最初のため息をついた。
ゴドウとの血の交配によって受け継いだのは苦悶と性欲だった。ゴドウの血の味が恋しくてたまらなかったが、オムホロスの欠けた部分を、ゴドウの血でうめあわせることは不可能だった。 馴れあいに身をまかせていれば、永遠に自分はゴドウの血をむさぼり続けなければならないところだったのだ。
ゴドウは灰となって消えてよかったのだ。ゴドウにとって、オムホロスの愛もまた、ゆがんでいたことだろうから。
過多な水気に落葉は腐り、芳しい香りがあたりに満ちている。ぬかるみ、乾いている場所もない地面に、素っ裸のむきだしの腰をおろし、樹木にもたれかかった。
自分が無事にもちだせたのは、この身体と地図だけ。あとはすべておいてきてしまった。
二度目のため息をつき、目をつぶった。
‡‡‡
そのころ、ミドリフウキンチョウは地面に落ちて腐ってつぶれた果実を身体にまぶし、甘ったるい香りを撒き散らしながら、密林中を飛び回っていた。樹木の枝をくぐり、水場を抜けた。
蝶の群れがその爛熟した匂いにひきつけられて、空をかすめながら舞い飛んだ。
蝶に追いつかれ、ミドリフウキンチョウの小さな体は、その色鮮やかな鱗紛の雲のなかに紛れこんでいった。
‡‡‡
ルーが目を覚ますと、娘はすでにかたわらから抜けだし、どこにもいなかった。
とっくの昔に家人は起きだし、寝ているのは主人とルーだけだった。
ルーはみだれた長髪を手ぐしですき、荒っぽくたばねた。家人と朝のあいさつを交わし、おもての水場へ顔と口をすすぎにでた。
明るい太陽のしたでは、昨夜のカタルガの風景も美しくこざっぱりとして、健康的に映った。煉瓦づくりでわらぶきのにたような家屋が近所にたちならび、ルーはのらくらと散歩をして回った。
うっそりとした青年が、ある家の戸口に座り、そのかたわらに血まみれのなたがたてかけてあった。戸口のわきに板がおいてあり、庭を走り回る鶏の哀れななれの果てがのせてあった。あの家は朝から肉を食うのかと、ルーはぼんやりとながめた。
青年の目がルーをひたととらえて鈍く光り、軽く会釈するとなたを手にして家のなかへはいってしまった。
門前町の大通りにでると、ずっとむこうに人だかりができていた。
好奇心にかられて駆けつけて、ルーはぎょっとした。
昨日の春ひさぎの少女が殺されて、店の鎧戸に打ちつけられていたのだ。
穏やかな死に顔を地面にうつ伏せ、致命傷の胸の裂け目があの愛らしい乳房を真っぷたつにしていた。腹からしたを、内臓ごと根こそぎ引きちぎられていた。人為のわざとも思えない仕打ちに、昨夜の奇妙な人影を思い出した。
夜歩くなというのはこのことだったのだといまさらに合点がいき、不快な気分のまま、男の家へ戻った。
途中買いもとめた酒を手土産にし、目を覚ました男に町での出来事を告げた。
「そうですか……いつかはこうなると思っていました」
「甥は近くに住んでいるのかね?」
「ええ、すぐそこですよ」と、今朝暗い顔をした青年のいた家を指した。
「今日はどうすごされるんですか? よろしければ、今夜もお泊めしますよ」
ルーはありがたくご辞退申しあげ、ツァカタン神殿におもむいてみると告げた。
すくない荷物を手にし、男の家をあとにすると、大通りを真っすぐにツァカタン神殿へむかった。さすがに神殿まえともなると人の出入りも激しい。
混雑のなか、互いに肩をぶつけあいながら、さきへと進んでいく。ルーは負けじと波に逆らって、神殿の入り口の階段に足をかけた。
「ひとりになったときは気をつけろよ……」
突然耳元で発せられた言葉に、ルーは反射的に振りむいた。しかし、目に映るのは雑多な色の頭ばかり。見知った顔もなく、気のせいだろうと忘れ去った。
神殿のなかにまで人々は行列をつくり、わいわいと騒ぎあっている。商売をはじめているものすらおり、待ちくたびれた人々が、飲み物や食い物を買いもとめている。
しかし、このたまり場も夕方になるやいなや、忽然と消滅してしまう。昨日の経験から、ルーにはそれがたやすく察せられた。
ルーは神殿の長い煉瓦の回廊に座りこみ、順番を待つ人々にまじって、夕方になるのを待った。
‡‡‡
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます