第20話
小昏い空のしたで、老兵はたやすくウサギを矢でしとめた。ケセオデールは礼もいわずそれをうけとり、いけにえを屠るための儀式用の剣を手にした。
いまや祭壇のまえにたち、幾度も目にし、記憶に焼きついているケラファーンの王の剣をふるう姿を思い浮かべた。
うさぎが矢傷で絶命してしまうまえに、そののどに切っ先をつきたてた。想像していたよりも血しぶきはあがらず、足元の雪を赤くとかしていった。
春の祭典ではこのあとに、イイオルーン・マイオーン神が舞いおり、そして、いけにえをうけとる。しかし、その気配すらなく、空はどっしりとした雲にさえぎられ、夕闇のような濃いすみれ色に染まっていた。そのかすかな雲の動きにすら双神の巨大な姿は投影されていない。
神はこなかった。
ケセオデールの手のなかで、うさぎの血はゼリー状に固まり、王女の手を汚しただけだった。ケセオデールはなおも空を見上げ続け、老従者が心配になって声をかけたほど。
「いいえ、待ちます」
王女の返事は少女の傲慢で頑なな響きを含んでいた。老従者は首を振り、しぶった。
「野宿するだけのご用意をなさいませんでした」
「このうさぎを食べればよいでしょう、仮宿はつくればよいでしょう。あたしは待ちます」
老従者は肩をすくめ、木々を寄せ集めて骨組みをつくり、犬ぞりのシートにしていた毛皮をそのうえからまいた。犬とともに眠ることで暖をとり、夜が明けるのをわがままな王女といっしょに待った。
試みを最初からやり直した。ケセオデールは昼過ぎにやっととらえることのできたうさぎの首に剣を突きたて、湯気ののぼる鮮血をほとばしらせた。
じっと空を見上げる。予兆すらあらわれない。
ケセオデールは思いつめたまなざしで、自分の両腕をみつめた。うさぎの死骸がどさりと雪のうえに落ちる。
老従者の見守るまえで、発作的に手首を切ろうとした。
老いても力強い腕にとめられ、ケセオデールは叫んだ。
「もっと大きないけにえが必要なのです! うさぎではだめ……カリブーとおなじくらいの大きさ……」
それとも神に声が届かないのか。ケセオデールは精いっぱいに声を張りあげた。
「イイオルーン・マイオーン神! なぜきてくださらないのですか!? なぜあたしを救ってくださらないのですか!? あたしの声が聞こえないのですか!? なぜあなたの小さき民をみいだしてはくださらないのですか!?」
老従者の腕のなかでケセオデールはうなだれた。あきらめることなどできない。いっそのこと、犬ぞりをひいて、みずから神をさがしもとめるほうがよっぽどいい。
その決心を聞き、老従者は呆れ果て、口角に泡を飛ばしながら、王女を思いとどまらせようとした。
「それならば、もうよいです。おまえは帰りなさい。帰って、このケセオデールはもう二度と戻ってまいりませんと、母上に伝えなさい」
「嘆かわしい! なぜそのような愚にもつかないことをおっしゃられるんですか!」
ケセオデールはかっとなって声を荒げた。
「おだまり! おまえなど必要ともしておらぬし、きてほしくもない! おまえのもっている剣と弓をおかし! 犬ぞりくらいあたしにだって引けますとも! おまえは歩いてお帰り」
ふたりはにらみあい、歯をきしませ、ねじふせようと威圧しあった。しかし、結局、老従者が苦々しげに、「ではついていきます。おひとりではとうていいかせられません」と、王女にしたがった。
そりに荷をつみ、祭壇の広場をあとにした。これから目指す方向は、イイオルーン・マイオーン神の姿の浮かぶ空のしただった。神がその足元の小さき影に気付いてくれるまで、まとわりつくぶよのように追い続けようと決心した。
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