第3話

 下方の緑はしだいにまばらになり、ビオリナの春はまだ遠かった。


 オーロラが北の極点からのび、優美に光のカーテンをおろしている。


 太陽から逃げるように飛んできたために、夜明けの時刻から少々逆のぼった。

 薄暮のビオリナの上空から、ビオリナの都を見定め、シルフィン神殿をさがした。


 ビオリナの都は寒さから身を守るように一か所にかき寄せられているようにみえた。北極海に接する美麗な都。


 ビオリナの優美さと洗練された感性は、ルーにはなつかしいものだった。


 ケラファーンへ輿入れした女王にとって、そこでの暮らしは耐え難かったろう。女王がケラファーンの風潮に染まらず、貞節を守り通したのは、心底ではケラファーンの女たちを軽蔑していたからに過ぎなかった。友人もおらず、縞猫相手に過ごす孤独の日々。


 ルーは低いため息をついた。


 夜明けの淡いラベンダー色が水平線に照り返り、弓なりの光の帯が走った。


 ビオリナの全貌が瞭然となる。いまにも鈴の音の聞こえてきそうな、繊細な尖頭のそびえるビオリナの都。選りすぐられて集められたさんご色の屋根が暁光に反射した。


 ルーはキメラをビオリナの都の外門の近くにおろし、閉ざされた門のまえにたたずんでいた。


 塀に囲まれたビオリナを地上から見上げると、やけに威圧的に感じられた。


 門の横の塀の高みに開いた穴から、門兵が顔をだし、じろじろとルーをねめたのち誰何した。


「旅のものです。シルフィン神殿をお参りにきました」

「それはよいが、長いことシルフィン神殿は忌日なのだ。なかへははいられんがよろしいか?」


 ルーは首をかしげ、「母はよくお告げを聞きにいったと」とこたえた。


「お告げはしている。だが、そとからだ」

「忌日とは?」

「さぁ……私は警固の兵士だ。神殿のことはなにも知らん。なんだ、はいるのか、はいらんのか?」


 門のかんぬきがはずされ、外側へ扉が開かれた。


 ルーは門をくぐり、目前のひろがる繊細な町並みに感嘆の声をあげた。


 優美なテラスの欄干がどこの家屋にもあり、それはケラファーンの女王の自室のテラスをも飾っていた。


 流線的で退廃的な薫りのする美麗な建造物。信じられぬことに街路にまで色鮮やかなタイルが敷かれ、モザイク模様をていしている。踏めば流麗な音さえひびきそうだ。


 町を歩く人々は、長身で痩せがたの美形が多く、どことなくルーとにていた。


 野暮な狼の毛皮をはおるルーは、いやでも人の目をひいた。人々は遠巻きにルーをながめ、なにやら口の端にのぼらせている。ルーは彼らを横目で見、素知らぬふうに通りをのし歩いた。


 神殿のまえには行列ができ、クリスタルの首飾り、ラベンダー色の腰帯をした僧侶らしき男に順番に名前を告げていた。なかにはそっとそでのしたを手渡すものもいるらしく、順番はそのつどかわっていった。


 ルーは手渡せるだけの金をもちあわせていなかった。名だけ告げ、どんどん後尾にしりぞけられてしまった。


 陽がかなり高くなっても、列はなかなか消化されず、恒例ともなっているのだろう弁当売りから干果と熱い茶を買い、飲み食いしながら待ち続けた。


 沈まぬ太陽が水平線ぎりぎりでもちこたえるような時間になっても、いっこうに行列の勢いはとどまらず、とうとう僧侶たちが金子を渡していないものを追い払いだした。ルーもそのうちのひとりだった。


 しかし、宿賃さえろくにないルーは、いくあてに困り果て、その場にたちすくんでしまった。


 ビオリナの民からみれば乞食にしか映らないルーに人々も僧侶も冷たく、あしらいも腹がたってくるほどぞんざいだった。


 くやしく思うがどうにもできず、ルーは眠れる袋小路をさがして、街路をほっつき歩いた。


 高い塀が北風を遮っていても、ビオリナの都は凍てつくほど寒い。


 十分な防寒をしてくれるはずの狼の毛皮でさえも、針のような寒さが染みてきて、ルーはやむなく残りすくない金を使いきってしまう覚悟で、酒場へはいっていった。


 扉を開けたとたん、むっとする体臭と熱気とすえた蒸留酒の匂いが顔にかぶさってきて、ルーはすこしだけむせた。


 酒場は薄暗く、暖炉の火は盛んに燃え、その炎に照らされた客の顔がいっせいにルーにむけられた。一瞬、しんと静まり返った店内も、その姿を確認してしまうと、ふたたびざわざわとざわめきはじめた。


「なんにするの?」


 酒場の女が寄ってきて、ルーにたずねた。


 ルーは席をさがしながらふところをさぐり、小銭を数えて、「あ? ああ……エール」とうわの空でこたえた。


 ろくにみもしなかった女を振りむいたが、女はすでにカウンターへエールをとりにいき、うしろ姿しか拝めなかった。


 ビオリナの民は、ある種の防寒にすぐれた動物の、薄い毛皮を身につけ、ルーのように厚着をしていなかった。体に密着した衣服のせいで、だれもかれも体の線がはっきりとわかった。


 ルーはいすに座ると足を組み、給仕女たちのまくしあげたすそからみえる白い足首をながめた。

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