第6話
ケセオデールはキメラを目にすると、息を飲んで身を引いた。とたんにそりから落ちて、雪のうえに尻もちをついた。
頭部が猛禽類、体は大型の獣で、鉤爪をもつうろこの密生する四肢。尾は空気にしなり鋭い呼気音をもらすおろち。巨大で優美な模様の翼がゆるゆるとひろげられた。
ケセオデールはそれがなんという名の獣なのか、まったく見当もつかなかった。この世の生き物なのかさえも。
「これはあなたの命令をよく聞きます。害なすものではありません。キメラという生き物です」
「キ、キメラ?」
「犬ぞりとおなじです。おのりなさい」
ケセオデールはたちあがり、恐る恐るキメラの身体に手をふれた。血が通っているとも思えない。
「これ、生きてないわ」
「当然です。この土人形とおなじものでできているのですから」
ケセオデールはためらいをみせ、のることを渋った。
「どうしたのです? 人間の死体は平気なのに、なぜ土人形は恐れるのですか?」
土人形は軽蔑したような動きをしてみせ、つかつかとキメラに寄っていき、その背によじのぼった。
「恐れてなんか……毛皮が乾いてないのよ」
オムホロスは炎の使役霊にこっそりと命じ、ケセオデールのみておらぬうちに乾かしてしまった。
「とっくの昔に。その服を脱いで、男装なさい。女のなりでは旅は無理です」
ケセオデールはばつの悪そうなしかめっつらで、「そんなことぐらい、わかってるわよ! いちいち指図しないでちょうだい」と、火のまえに枝にひっかけてほしていた毛皮と狼の毛をひっつかみ、きがえた。
王女は邪魔っけな長い髪を革袋のひもでたばねた。
狼の毛皮からは悪臭がただよい、ケセオデールは小鼻にしわを寄せた。
「名はどうします?」
「ケセオデールじゃいけないの?」
「女名でしょう」
「どうでもいいわ」といって、気分の悪くなる狼の毛皮を見、「ルー(狼)ってのは?」
「いいんじゃないですか?」
「ああ、あのひとのあの臭い毛皮を思い出すわ。あれには耐えられないと思ったけど、これはそれ以上ね」
「でも耐えてください。かわりはないのですから」
「土人形はなんとでもおいい。凍死することも嘔吐することもないんだから」
「ではおっしゃるとおりに」
ケセオデールは腹立たしげに、土人形に悪態を吐き、そりにつながれた犬を放した。犬は忠実にそりに寄り添い、主人をじっと見上げた。
「おいきよ、もう帰っていいのよ?」
しかし、犬は動かなかった。しかたないので、ケセオデールは黙々とキメラの背にそりの荷物を移しかえはじめた。
「それはなんです?」
しゃしゃりでてくるいまいましい土人形に、ケセオデールは仏頂面でこたえた。
「毛皮とか火打ち石とか、短い旅に必要なものよ」
「おいていってください。必要ありません」
ケセオデールの顔がむっとこわばり、唇をとがらせた。
「なぜ?」
土人形は指もない手を表情豊かに振って、「キメラはそりよりも数十倍の距離をこなせるからです」
ケセオデールは眉をつりあげ、静かにいった。
「これはあの老従者が命を懸けてあたしにもたせてくれたものなのよ」
「すでにあなたの命は助かっています。これからさき、老従者ごときの命ではあなたの危険はまかなえませんよ」
ケセオデールは憎々しげに土人形をにらみつけ、しぶしぶ荷物をおろした。
「剣と弓は?」
「それはもっておいきなさい」
ケセオデールはいらいらと両腕を振って叫んだ。
「あんたはいったいあたしのなにさまのつもりなのよ!? なぜあんたまでついてくるの!? なぜあたしに命令するのよ!」
オムホロスは王女が黙ってしまうまで待ち、「叫んだら気がすみましたか? そろそろ出発しましょう」と、冷静にいいわたした。
ケセオデールはわざと大きなため息をつくと、ぞんざいな態度でキメラにまたがった。土人形はキメラの首筋にしがみついた。
王女の指が土人形をつかもうと、意地悪げにうごめいた。
「放り投げてもキメラがとりにいくだけです。無駄なあがきはおやめなさい」
土人形の言葉にケセオデールは舌打ちし、「あたしはあんたのていのいい奴隷になったというわけね」
「そんなにひねくれたことをいわなくてもよいでしょう」
オムホロスは穏やかにいった。
「まさか、カタルガまで連れていってくれるというの? きっとあたしの思いちがいね」と、皮肉をこめた目で、ケセオデールは土人形をにらんだ。
「カタルガまでいきますよ、そこでしていただきたいことがあるのです」
「やっぱり……」
ケセオデールは大仰にため息をついた。
「あなたの損になることではないですよ、ある少女と身体をあわせていただきたいだけです」
ケセオデールはいぶかしげに土人形をみつめ、「あんたの恋人なの?」
「それ以上でしょうね、多分」
ケセオデールは不審げに眉をひそめ、口をつぐんだ。
キメラが翼をひろげ、宙空を力強くかいた。ぐらりと体が浮きあがり、ケセオデールの尻のしたで肩と背の筋肉が流動する。気流にのり、死に物狂いに羽ばたいていた翼を水平にのばすと、空を滑走していった。
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