第3話
気がつけば、そこはまったく見知らぬ土地だった。木立がめっきりと減り、かわりに岩や氷が目立った。
犬はぐったりと寝そべり、雪のうえだろうとかまわず、二頭かさなりあって眠りこけていた。
ケセオデールは凍りついたまつげをじゃりじゃりいわせ、あらためて周囲を見渡した。空にオーロラがたなびき、星が点々と天穹を飾っていた。
寒さで手足どころか顔の感覚すらなかった。突き刺さるような痛みが皮膚を走るだけだった。口を開けて息を吐くこともできぬ。唾液すら凍ってしまいそうだった。鼻で空気を吸いこむと、鼻孔に痛みを覚えた。
ケセオデールはぶ厚い毛織りのドレスとフードのなくなったコートをかき寄せた。できるかぎり体にまきつけたが、なんの足しにもならなかった。
ふと死期を感じ、なんとなくうけいれてしまった。疲れがどっと押し寄せ、眠気が迫ってきた。どうでもいい気分になり、まぶたを閉じた。ほのかな夢心地に気分がいくらかましになった。
「寝たら死ぬのじゃありませんか?」
「でしょうね……」
ケセオデールは鼻詰まりの声でこたえた。舌と唇がかじかみ、うまくしゃべることができなかった。
「死は怖くないのですか?」
「いまはあんまり……」
「生きていたいとは?」
「このまま生きていてもしようがないわ……」
「なぜ?」
「自分でもわからない……ただ、いまはこうしていたいの」
「では死ぬためにケラファーンをでたのですか?」
「いいえ、イイオルーン・マイオーン神に会うためよ」
「では戻りましょう、ここはビオリナです」
ケセオデールはいやいやしながら、目を開けた。足元に土くれの人形がおり、生意気にも男の形をしている。目鼻もないのっぺらぼうのそれが、懸命に話しかけてくる。
「ここは母上の故郷なのね……」
「犬を起こしましょう。犬は眠れても、あなたは死んでしまいますから」
「そのようね……」
土人形にうながされ、ケセオデールはひざのうえから落ちた手づなをぐいぐいと引っ張って犬を起こした。犬はしぶしぶたちあがり、指示されるままに反対側にむきをかえて戻っていった。
硬い氷を削る鋭い音をたて、そりがすべっていく。いつのまにか土人形はずうずうしくもケセオデールのひざのうえにたち、「イイオルーン・マイオーン神になぜ会いたいのです?」とたずねてきた。
ケセオデールはこれは死ぬまぎわの夢かなにかなのだと思いながら、「あたしのファルスをとり返すためよ……」
「とり返す?」
「そう……母上の胎にいたころ、大きな手があたしの男のファルスを奪っていったの」
土人形はしばらく黙りこくり、「あなたはなにも知らなかったのですか?」
「もちろんよ、赤ん坊で自分の意志さえないのに?」
「それならば……またも思いちがいをしていたのだ……」
「だれが?」
土人形の若い男の声を聞き、ケセオデールはいぶかしげにたずねた。しかし、土人形はなにもこたえなかった。
‡‡‡
オムホロスは考えこんだ。
提供? なにを根拠にそんな甘い結論に達したのだろう? 魔法使いがお願いをしてもらいうけるような気質の人間にみえていたというのか。考えれば考えるほど、ばかばかしくなっていく。
ひさぎ女のあの少女にしても、女性体を奪われたことでなんらかの弊害をきたしているではないか。男の魂をもちながら、少女としてそだててられたこの少年も、なんらかの影響をうけているはずだ。
土人形の目からみたケラファーンの少年の美しさは印象的だった。少女とも少年ともつかない妖精めいた線の細さ。寒さのために蒼褪めた頬。沈んだすみれ色の瞳。落ち着いたメゾソプラノの声。
ケラファーンの少年の男らしさを、すべて奪ってしまったオムホロス。発達しはじめた若い筋肉も、ひきしまった四肢も、凛としたテノールの声も、もとは少女めいたこの少年のものだったのだ。
オムホロスの美しさはつぎはぎだらけのものなのだ。
この髪、この顔、この肌の色は、あの哀れな春ひさぎの少女から奪ってしまったものなのだ。
自分は盗まれたものでできあがった生命体だったのだ。自分のものはなにひとつとしてない。オムホロスは愕然として、少年の問いかけにも満足にこたえてやれなかった。
少年はイイオルーン・マイオーン神にすがるために、ひとりでここまできてしまったという。しかし、このままでは、おそらくあの双神は、哀れなケラファーンの少年に気付きもしないだろう。現にこうして気付きもせず、ビオリナまでいかせてしまったではないか。
「このまま戻り、ケラファーンの国境を越えれば、すぐにあの双神はやってきます。やみくもにさがさなくてもよいのです」
ケラファーンの少年はすみれ色の瞳を伏せて、土人形であるオムホロスを不思議そうに見下ろした。
「なぜ?」
「それはこの土人形が異国者であり、力の侵犯者だからです」
「土人形になにができて?」
少年は少女のようにかろやかに笑った。
「この土人形そのものというより、土人形を介してあなたに話しかけているものがです」
「だれ? では、これは夢でもなんでもないというのね?」
「そうです。夢だと思われたのはなぜです? こんなにもはっきりと語り合っているというのに」
「死にそうだったからよ」といった少年の顔はいたってまじめだった。
「だれなの?」
「オムホロス」
「男なの? 声は男ね」
「あなたも男でしょう?」
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