ケラファーン
第1話
すさまじいかみなりが、冷えきった空気をびりびりとしびれさせた。
小石のようなひょうが、びしびしとケラファーンの武骨な岩の城にたたきつけられる。
寒波のなか、ひっそりと城は息をひそませていた。
産み月がみち、ケラファーンの女王は寝台にふせっていた。
心配そうに、一族の女たちが女王を見守っていた。
なん刻も女王は苦しんでいた。
ケラファーンより北の国・ビオリナより嫁いできて、いく度も流産し、やっとなにごともなく産みの月までやり過ごしたのだ。
一族の女たちも、女王も、いまさらこの赤子を失いたくはなかった。
女王は悪夢にうなされていた。
うだるような部屋の暑さに、一度もみたことなどない熱帯の森の夢をみていた。
見知らぬ森にたち、女王は不吉な思いにかられた。
夢の世界に踏みこむまえ、なにものかの声が、こう女王に話しかけたように感じていたのだ。
「おまえの赤子は流れちまう。ここにこい、ここにくるんだ。赤子を産みたければ……」
足元はおりかさなって朽ちた葉に隠され、自分の周囲にひしめく肉厚のひろい葉がぎらぎらと輝き、生きているかのようにちろちろとゆれ動いた。
黒々としたこずえが重たく感じられて、女王は背をちぢこませた。
枝葉のはざまからかいまみえる空は、どろどろと暗い緑色に濁っていた。
ここは、厳しい冬のさなかのケラファーンではなかった。
女王は口にひろがる塩からい汗を飲みこんだ。
「知りたいか?」
ここへみちびいた低い男の声が、頭上でひびいた。
はっとして女王はもう一度空を見上げた。
こずえのすきまから、巨大な琥珀の目玉がぎょろりと女王を見下ろしていた。女王は恐怖にひるみ、悲鳴をあげそうになった。
「知りたいか?」
声はもう一度たずねた。おもしろがっているふうに声はふるえていた。
「しかし、教えられぬ。おまえからは奪うだけ」
「なにを……?」
女王は不安げにたずねた。唇がわなないて、それ以上言葉をつづけられなかった。
「おまえの息子のファルスを……」
とっさに女王は腹をかばい、反狂乱になって叫んだ。
「わたくしの子にさわらないで!!」
「赤子の命がたすかるんだ……ありがたく思うんだな」
断固として声は告げ、ぬっと森のしげみをかき分けて巨大な黒い手が、女王の腹をむんずとつかんだ。
女王は悲鳴をあげ、身もだえながら目を覚ました。
一族の女たちがとりあげ婆を囲み、産声を張りあげる赤子を女王にむけた。
「女の御子ですよ」
女たちの満面の笑顔が、女王をみつめていた。
‡‡‡
ケセオデールは、暖炉のそばにうずくまり、飼い猫の茶色い縞模様を指でなぞりながら、ケラファーンの女王である母親の静かなささやき声に、じっと耳をかたむけた。
雪国の退屈な毎日が、おしゃべりと手なぐさみの針仕事とについやされていく。
女王は毛織りの衣をひざにひろげ、ケラファーンの女たちがするように、色とりどりの糸を針に通して心に浮かぶ神話や武勇譚を縫いこんでいった。
「ケセオデール……もしもおまえがあの黒い手にファルスを奪われなかったとしたら、いまごろは父上といっしょにカリブーを追って、北の果てまで犬ぞりを駆っていったことでしょうね」
女王のいつもの口癖にケセオデールは含み笑った。
「母上」
「ケセオデール」
女王はゆりいすから身をのりだし、厚いじゅうたんのうえにうずくまる王女の頬をそっとなでた。ケセオデールの瞳が女王の顔をじっととらえた。
女王はにこやかに微笑み、「おまえが男だったなら……この国の娘たちは争いあって、ひとときも休まることがなかったでしょうね」
「母上ったら!」
ケセオデールは女王の手をとり、その甲に口づけした。
「もうそのおはなしはおやめになって。あたしはあといく月もしないうちに、許婚であるハルコーンと婚礼をあげるのですから」
「そうだったわね……」
ケセオデールはひざのうえのやりかけの刺しゅうと針をとり、夢想に耽った。
もうあとひと月もしないうちに春がきて、南下するカリブーの群れを追いながら、ケセオデールの一族が長い追い狩りからもどってくる。
そのなかに従兄であり、幼なじみのハルコーンもいるのだ。
その姿は去年の冬のはじめに別れたときからかわっていない。
別れぎわに従兄と交わした会話の内容をいまでも思い出せる。
「妹のやつが、こんな下手くそな腰帯をつくってくれたよ」
「そんなに下手くそじゃないと思うけど……つくってもらえるだけ、ありがたく思わなくちゃ」
「ねぇ、ケセオデールはなにもくれないの?」
「父上ので手いっぱい。繕いものなんて退屈ね」
「そうか……」
幼さの残る顔が、うすぼんやりとケセオデールの脳裏にうかんだ。
優しくて、純朴な従兄。
子供時代をともに過ごして、おたがいのことはよく知っていた。
恋も愛も感じたことはないけれど……
春がくれば、その年上の従兄とケセオデールは結ばれるのだ。
激しさはないけれど、特別な目でおたがいをみつめあうようになるだろう。
それなのに、このしっくりといかない小さな心のすきまはなんなのだろう。
ケセオデールは心の白い氷河から目をそらし、あたたかな暖炉の火に照らされる女王の柔和なおもてをみやった。
女王はケセオデールの視線に気付き、微笑み返した。
「なぁに?」
「なんでもありませんわ」
女王は小さく笑い、「結婚が不安なのね? わたくしは北のビオリナからきたけれど、おまえは兄のような殿がたとだもの。いままでどおりよ、なにもかわらないわ」
王女はたてひざをつき、足のまわりに重たいウールのスカートをまきつけた。
縞猫がスカートのひだにじゃれついてくる。それをスカートのすそでさばきながら、「そうだといいけれど……」とつぶやいた。
そのつぶやきは女王の耳まで届かなかった。
‡‡‡
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