第3話
廊下に聞き慣れた物音がひびきはじめ、オムホロスは室の入り口からマスターに声をかけた。
「先生……オムホロスです。なにかお手伝いすることはありますか?」
「ちょっとこい」
返事をしてはいっていくと、魔法使いは弾力性のある緑色のいびつな泡と格闘していた。
「なんの細胞ですか?」
「こいつだ、くそ」
魔法使いの指さした先に水ごけの切れはしの浮いたビーカーがおいてあった。
「ハエとカエルの細胞をまぜたら劣性化しやがった!」
魔法使いは茶色いしわだらけの口さきで悪態をつきながら、周囲にある薬剤を片っ端からたらしていた。しかし、緑色の泡はぺたぺたと意志をもつ触手をあたりにのばし、粘液性の胃酸をほとばしらせた。
「オムホロス!」
手のあかないマスターのかわりに戸棚を開いて、細胞を死滅させる食細胞のはいったガラスビンを、増え続ける緑の細胞のうえに三分の一ほどぶちまけた。緑の泡がつぶれ、しなしなと小さくしぼんでいき、あっというまに緑の小石の塊のようになった。
「全部ぶちまけたのか?」
「いいえ」
「よし」
オムホロスはガラスビンを戸棚にしまい、胃酸でとけてしまったものをさっさとかたずけた。
「今日はおまえ、近点月と太陽活動周期の最小公倍数でも求めとけ」
魔法使いはうわの空で口走った。
「そういや、オムホロス。あの豚はどうした?」
「先生にいわれたとおり、燻製にしました」
「そんなこと、いったか?」
「おっしゃいました」
「そんなら、もっと気をきかして目のまえまでもってくりゃよかったんだ。おまえがみせずに声だけかけるから、気が付かなかったじゃないか。もういい、どっか、すみでさっきのいったことでもやってろ」
魔法使いは弟子のほうをみもせずに、緑の塊に薬品をかけながら、ぶつぶつとつぶやいた。
オムホロスは魔法使いに追い払われ、専用の丸いすにこしかけると暗算をはじめた。ひどく簡単に課題は終わり、オムホロスは退屈げに魔法使いや研究室をぐるりと見回した。
床にはほこりをかぶった古書がうずたかくつみあげてあった。異様にひろい石室は、ありとあらゆる種類の本にうもれていた。崩れてしまった本の山もあれば、いまにも崩れそうな本の柱もあるといった具合に。
魔法使いが文字や基礎知識を幼いオムホロスにつめこみ、あとは気まぐれに教えるようになってからは、自力で研究室の本を読んでいき、学習していった。
いまでは魔法使いさえ望めば助手のまねごとすらできる。しかし、マスターは器具のいっさいをオムホロスの自由にはさせてくれなかった。
オムホロスはまた足元から新しい本を掘り起こし、ほこりをはたいてその表紙に金で箔押しされたタイトルをよんだ。
「ホムンクルスについて」とよみとれた。
ホムンクルスとはなんだろうと、第一ページ目をめくった。羊皮紙はかさかさに乾き、次のページと三ページ目がぱりぱりとはがれながらめくれた。文字はほとんど判別できず、それでなくともしみやはがれたところ、虫食いの穴などのために概要だけで我慢するしかなかった。
三ページ目。図示してあり、ホムンクルスの歴史のようなものが書かれてあった。
精子のみを培養し、ふくれあがった産物が畸型の小人。海水中の凝固物にプラズマをあてながら生まれでたアメーバーの集合体。霊魂から液出される産物エクトプラズム。奇っ怪なものになっていくと、夜半の十二時に合わせ鏡を通り抜ける影とある。
何ページにも渡り、迷信じみた挿話によるホムンクルスの存在の逸話が続く。そして、ぺりぺりとした羊皮紙をめくり、幾度もよみ繰り返された手垢のこびりつくページをざっとよみくだした。
魔法力の凝固。魂の生成。生物学的な基本的形態の付与。生殖機能の決定的形態の付与。
そのページの左上の端がごていねいにも折り曲げられ、すぐに開けるようになっていた。
次のページをめくってみた。
ホムンクルスと生物学的生体としての畸型。その類似。相似。相対的比較。
その項目だけでもかなりの厚さがあった。
ざっと目を通してもマスターが折り目をつけた部分がもっとも重要に思えた。オムホロスは指をつばでしめらせながら、慎重にページをめくっていった。
いったい何刻ほどその本をよみ続けていたのか。オムホロスは首の腱の痛みに顔をあげた。
よんだ本の厚さからして、四時間以上は過ぎていた。
よみかけたページに人さし指をはさみ、閉じた本をもってマスターの様子をうかがった。魔法使いは水槽に横たうキメラの身体の一部を仕分けしていた。
マスターの蔵書は研究室からもちだせないので、オムホロスはページに紙切れをはさんで丸いすのうえにおき、暗い廊下へでた。はだしの足でぴたぴたと石床を蹴り、太陽の沈んだそとへいったんでていった。
裏手の屠り場へいき、汲みあげ式の井戸から真水を引いた。魔法使いのつくった石筒に水を通して湯をつくり、それを地下の魔法使いが利用する浴室へ流しこんだ。
決められた目方いっぱい湯がそそぎこまれたのを確認してから、芋粉を練ってもちをつくり、残った湯で蒸した。
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