39-8.まだいいほう


 応接室のドアが開いた。


「渡辺さん!」


 おれはその場に深く頭を下げる。


「申し訳ございませんでした! こちら、契約書のほうです! どうか、サインをお願いいたします!」


「…………」


 すると、彼はハアッとため息をついた。


「あのですねえ。こっちも遊びでやってるわけじゃないんですよ、こんな常識のない対応をされて、あなた方を信用できると思いますか?」


「わ、わたしの監督不行き届きでした。以後、このようなことがないよう、笹森にも厳重な注意を……」


「じゃあ、どうしてその笹森くんはいないんですか?」


「……そ、それが、本日は体調が悪く」


 本当は、彼女にしては珍しく泣き崩れてしまって、とても挨拶になど来れる状態じゃなかったのだ。

 でも、そんな事情をわかってくれるはずがない。


 渡辺さんはソファに座ると、一転して穏やかな口調になった。


「……笹森くんですか。あの子、若いねえ」


「は? え、ええ」


「いえね。歳の話じゃないんですよ。精神的なものというかね。まだまだ、世間を舐めているというかね。自分がなんでもできるって思い込んでるんでしょうねえ」


「も、もしかして、なにか粗相を……?」


 あの笹森ちゃんに限って、そんな……。


「前回の打ち合わせのとき、わたしに向かって、セクハラ親父と言いましてねえ」


 ぐはあっ!


 なに言ってんの!?


「いえね。わたしも悪かったと思いますよ。わたしの娘も、ちょうどあのくらいの歳でしてねえ。仕事を頑張っているのは伝わりましたから、少しでも助けになってやろうと思いましてね。ちょっと缶コーヒーでも飲まないかと、肩を叩いたら、ええ」


「…………」


 こ、これは、なんと言えばいいのか。

 ただひとつ言えるのは、もう絶望的だということ。


 渡辺さんは、気難しい。

 一度、機嫌を損ねると、どうあっても折れないひとだ。


「申し訳ございませんでした! ど、どんなお詫びでもいたします! もう一度だけ、チャンスを……!」


 すると彼は、心底、失望したというように言った。


「……きみは、あのときも同じように頭を下げていたねえ」


「…………」


 ――二年前。

 まだ駆け出しだったころ。


 おれは渡辺さんとの仕事で、大ポカをした。

 あのときは主任のおかげで事なきを得たけど、結局、なにも成長できていない。


「しかし、この工事が中止となると、笹森は……」


 遅れたのでもなく、中止。

 この損失がどれほどになるのか。


 このことは、必ず本社にも伝わる。

 となると、彼女の未来にも影が差す。


 おれが責任を被るくらいだったらいい。

 でも、笹森ちゃんはいけない。


 才能のあるやつが、こんなことで頓挫するなんて、あってはいけない。


 くそ、なにが関わらなければいい、だ。


 ……やっとわかった。

 笹森ちゃんが苦手なのは、昔のおれを見ているようだからだ。


 ハンターとして、もてはやされた。

 天狗になって、すべてを見下していた。


 そして、すべてを失った。


 おれみたいなやつを、増やしたくはない。


「…………」


 渡辺さんが、小さくため息をつく。


「……どちらにせよ、わたしは不完全な契約書にサインをするつもりはありません」


「ふ、不完全?」


 どこかに不備でも――あっ。


 もうひとつ。

 資材発注の会社の捺印だ。


「この会社のサインを、本日中に持ってきてもらいましょうか。そうしたら、考えてあげましょう」


「あ、ありがとうございます!」


 おれは深く頭を下げると、急いで会社を出た。


 まだ昼すぎだ。

 渡辺さんが定時に上がるとしても、これから直接、サインをもらいに行っても余裕が――。


 その会社に向かおうとしたとき、ふと違和感を覚えて立ち止まる。


「……ダメだ」

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