0-3.なにがとは言わない


 おれは不覚にも、その美女に目を奪われていた。


 艶やかな黒髪。

 すらりとした脚を包むタイツ。

 悩まし気な泣きぼくろ。

 あとなにより、おっぱいでっけえ。


 彼女はなにか、大きなバッグを背負っている。

 なんだろうと思ったが、ここは『ダンジョンアタック施設』だ。

 きっと、愛用の武器か防具が入っているのだろう。


 仕事終わりのダンジョンアタックね。

 とはいえ、女性がひとりというのも珍しい。

 たぶんそのうち、待ち合わせの彼氏でもひょっこり現れるんだろうな。


 やることがなくて、二本めの缶コーヒーを自販機で買う。

 チャリンチャリンと硬貨を入れながらぼやいた。


「しかし、いるもんだなあ」


 うちの職場にも、あんな華やかな美女がいればやる気も違うんだろうけど。


『牧野くん、また営業ダメだったの? もう、しょうがないわね。今日はわたしが残業につき合ってあげるわ』


 いいね。

 とてもいいと思います。


 おっと、ここはそれより……。


『牧野くん、また営業ダメだったんですって? これで何か月、実績がないのかしら。あなたには、お仕置きが必要ね』


 完璧かよ。


 ……いや、疲れてんなあ。


 やっぱり、もう帰ろう。

 美雪ちゃんがなんか話あるみたいだったけど、今度にして……。


「……マキ兄。なに鼻の下伸ばしてんの?」


「うわっ!?」


 いつの間にか、背後に美雪ちゃんが立っていた。

 おれはどきどき高鳴る胸を押さえながら、上ずった声で聞き返した。


「ど、どうしたの?」


 彼女は小声で泣きついてきた。


「大変なんだよ!」


「なにが?」


「あのひと!」


 そう言って、さっきの黒髪美女を指す。


 ――じろり


 目が合うと、彼女はなぜかおれを睨みつけてきた。


 うわ、恐えっ。


 よからぬことを考えていたのがバレたのかと、つい緊張してしまう。


「あのひとがどうしたの?」


「体験入場コースやりたいらしいんだけど、『HOUND』の武器持ち込んでるの!」


「え?」


 体験入場コース。

 基礎講習を受けずにインストラクター付きで潜ることができるサービスだ。

 しかしそれで潜るときは、レンタルの武器がある。

 それをわざわざ、自前の武器を持ってくるということは……。


「……なにか訳ありかな」


「『ダンジョンGメン』だよ!」


「え。なにそれ?」


「マキ兄、知らないの!? 協会から派遣されたプロハンターで、ダンジョン施設の不正を報告するひと!」


「は、はあ……」


 そんなものが実在するかは知らないけど。


「まあ、頑張ってね」


「待って!」


 がしっ。


「……美雪ちゃん。その手を離してほしい」


「マキ兄。見捨てないでよ!」


「いや、普通に潜ればいいじゃん。ここは不正なんてないんだからさ」


「今日はインストラクターいないんだってば! 営業時間はひとり常駐してるのが決まりなの!」


「美雪ちゃんが潜ればいいでしょ」


「だからレポートがほんとやばいんだって! あれ落としたら進級できないよ!」


 そんな大事な講義を、なぜぎりぎりまで放っておくかなあ。

 身に覚えがないとは言えないので、強くは叱れないけど。


 川島さんはこの時間、どうせお酒入ってるんだろうしなあ。

 となると、他にできるひとは……。


 おれだけか。


 でも……。


「……悪いけど、おれはダンジョンには潜らない」


 腕を掴む彼女の力が、そっと弱まる。


「……そっか。そうだよね。ごめん」


 その様子に、少しだけ胸が痛む。


「……そういうことだから、おれは帰るね」


 と、そっとタブレットが差し出された。


『ダンジョン使用料金:〇月×日、〇月△日……、etc』


『武器洗浄代金:〇月×日、〇月△日……、etc』


『酒場代:〇月×日、〇月◇日……、etc』


 それには十年近く前の日付で、ずらりと金額が記してある。

 合計すると、おれのボーナスが二、三回ほど軽く吹っ飛ぶ感じ。


「……なに、これ?」


「マキ兄が昔、うちでつけてた代金。まだ支払ってもらってないよね」


 否定しようとするが、その明細を見て冷や汗が流れ出す。


「え、あ、いや、これは……」


「お父さんはひとがいいから黙ってたけど、わたしは違うからね。いますぐ払うのと、今日だけインストラクター引き受けて支払期限を延ばすの、どっちがいい?」


 あ、そこは精算じゃないんだ。


「……えーっと」


 おれはそっと、美雪ちゃんの顔をうかがう。

 彼女は勝ち誇ったように、にっこりと微笑んだ。

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